バラバラの社内で生まれた「在庫の山」 大衛4代目の横串を通す改革
病院向けのガーゼなど、医療衛生材料の製造・販売をてがける大衛株式会社(大阪市)。4代目の加藤優さん(37)は、家業に入って不良在庫の山を目にし、強い危機感を持ちました。背景には部門間の断絶があると考え、組織改革によって社内の連携を強化。効率化や商品開発力のアップで赤字から黒字に転換し、7年連続の増益を達成しました。
病院向けのガーゼなど、医療衛生材料の製造・販売をてがける大衛株式会社(大阪市)。4代目の加藤優さん(37)は、家業に入って不良在庫の山を目にし、強い危機感を持ちました。背景には部門間の断絶があると考え、組織改革によって社内の連携を強化。効率化や商品開発力のアップで赤字から黒字に転換し、7年連続の増益を達成しました。
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1951年創業の大衛は、「アメジスト」のブランドで、医療機器・医療衛生材料の製造・販売を手がける専門メーカーです。社員数は約220人、国内に11の事業所と工場を持ち、さらにベトナムにも拠点があります。売上の8割は病院向けの商品が占めるといいます。
大衛の祖業は、脱脂綿やガーゼ、包帯などの製造販売です。1957年には、日本で初めて生理用ナプキンを販売して大ヒット。その後は大手の参入により路線変更をし、産後の悪露用パット「オサンパット」の販売を開始するなど、お産分野の製品に着手し販路を広げてきました。現在では「お産セット」に代表される、総合病院向けの産科医療製品を主に手掛けています。大学病院向けの産婦人科用品総合シェアではナンバーワンを誇ります(※2023年同社調べ。産婦人科向け主要製品である「お産セット」「分娩キット」の合計の納入件数を元に算出)。
会社と住居が離れていたこともあり、加藤さんはほとんど家業を意識することなく育ちました。父で3代目社長の光司さんからも、進路について何か言われることはなかったと言います。京都大学大学院の薬学研究科を修了後、大手商社に就職。しかし社会人1年目の2010年、事業承継を決意するきっかけがおこりました。加藤さんの祖父で、大衛の実質的な創業者だった勉さんが亡くなったのです。
厳しい祖父でしたが加藤さんは愛着をもっており、自身が社会で活躍する姿を見せられなかったことを、心残りに感じていました。そんな中、お別れの会に大衛の創業時のメンバーが訪れ、様々な祖父の昔話を聞かせてくれました。
「私が生まれたとき、祖父は『跡取りが生まれた』『これでうちの会社は安泰だ』などと喜んでくれたそうです。以前にもその話は聞いていたのですが、祖父が亡くなった席で言われると響くものがありました」
創業メンバーは加藤さんに、いつ大衛に入社するのかと問いかけてきました。当時、商社に就職したばかりだった加藤さんは、仕事への意欲に燃えている時期。現状を伝えると、こう言われました。
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「今の仕事が楽しいのはわかるけど、大きな会社やねんから優秀な人は君以外にもいっぱいおるやろ。やけど、大衛を継ぐのは君しかおらんねんで」
そう言うと「よろしくたのむで」と強く握手を求められたそうです。このことがきっかけで、家業に入ることを決意したと、加藤さんは振り返ります。
4年後の2014年、加藤さんは大手商社を退社し大衛に入社しました。当時、大衛の詳しい財務内容や仕事の詳細についてほぼ知らないままだったといいます。しかしいざ会社に入ると、様々な課題が見えてきました。
いち従業員として入社した加藤さんは、「何もわからないくせに」と言われないよう、役職につくまでの間に現場経験を積もうと考えます。最初に勤務した三重県の工場で見たのは、ガーゼやマスクといった衛生材料の在庫の山でした。
「ホコリをかぶって明らかに動いていない不良在庫が、ピラミッドのように積みあがっていました。1年置かれたままで1ケースも動いていない、みたいなものもけっこうあった。なのにその分の倉庫の賃料を払い、また3カ月ごとの棚卸しのたびに、無駄な在庫を数える作業が発生していました。当時は赤字も出ていましたし、一事が万事というか、こんな在庫管理をしている会社が健全なわけがないと思いました」
なぜ在庫がここまで長期間放置されてしまうのか。その原因を探ると、部署間での連携が取れていないことがわかりました。
マスクなどの病院向け衛生材料は、病院からの依頼で数を用意しても、最終的に必要なくなったと言われて商品があまってしまうことがあります。その場合でも一定量を引き取ってもらうなど交渉の余地はあるはずですが、営業部門はあまった商品を「こちらで何とかします」と病院に言われるがままに受け取ってきてしまっていました。倉庫の中に在庫がどんと積まれていても、営業部門は「自分たちはものを売って利益をあげればいいから、在庫は知ったこっちゃない」という姿勢でした。
一方の在庫管理側も、「動かない在庫はあるけれど、保管しておけと言われたから倉庫を借りて保管してるんです」と、不良在庫に対してひとごとのようでした。
「組織の横の連携がまったくできておらず、そのせいで会社が傷んでいる。組織改革は不可欠だと感じました」
組織改革の必要性を強く感じたものの、入社1~2年の加藤さんは、強い指示を出せる立場にはありません。そこで将来を見据え、当時つながっていた部署の上司に「こういうところを変えていきたい」と問題意識を共有していくところから改革を始めました。
「たとえば帰り際に『メシでも行きませんか』と軽い感じで声を掛けるなどして、自分の考えを伝えていきました。とはいえ創業家の人間である自分が声をかけると、相手はめちゃくちゃ警戒します。話の土俵につけないこともありました。個々のパーソナリティを見ながら、人によっては酒の席ではなく会議の場で話をするなど、声掛けの仕方は工夫していました」
加藤さんは製造、営業での現場経験を経て、2016年に取締役に就任。本格的な改革に着手します。
それまで、製造部門と営業部門の責任者が顔を合わせる機会は、会議の場しかありませんでした。そうした会議では他部署もいて、建前抜きの話がなかなかできません。加藤さんはまず、製造の責任者と営業の責任者とそれぞれマンツーマンで話をし、そのあとに両者を巻き込んで3人で話す場を設けました。その場で、営業と製造で責任の範囲をどのようにするかルール決めを実施。いつでも連絡できるよう、ホットラインを構築していきました。
開発部門と営業部門の関係性も整えていきました。開発は世の中に求められているものを突き詰めて開発していく部門です。仕事を全うするあまり、医師一人の要望に寄り添い過ぎて、ニッチで「とがりすぎている」製品を作ってしまうことがあったそうです。その医師にとっては有益な品でも、他の多くの医師にとっては需要が低い場合、売上アップは見込めません。
開発側からは「先生のニーズに寄り添った、こだわりの商品なのに売れないのはおかしい」と疑問が生まれますが、営業からすると「(その先生にとって必要でも)多くの先生にとっては、需要のない商品を売れと言われても困る」となり、隔たりが生じていました。
そこで製品を作る前段階で、開発チームと営業で「ニーズとウォンツ」についてディスカッションする機会を設けました。
「開発部門と協力関係のある病院の先生に対して、場合によっては『この商品の開発は難しい』と伝えないといけない場合もあるかもしれません。多少先生と衝突はあったとしても、結果的にそうやって作っていかないと在庫が増えてしまう一方です」
ここでも、最初に各部門のトップと1対1で話し、その後、3人で話す機会を設けるようにして横串を通していきました。
部門を横断的に見られる人材の育成にも力をいれました。たとえば、営業のための資料を作る「営業企画課」は若手の多い課でしたが、これを営業本部から外し、開発部門に移動させました。営業の事情をわかっていて、開発の気持ちもわかる人材を育てていく狙いでした。
席の配置も細かく考えていきました。信頼関係を築いてほしい人同士を同じフロアにしたり、仕事の流れに沿って相談しやすい座席配置にしたりと、細かい調整を重ねていきました。
こうした改革の積み重ねで、部門間の連携が取りやすくなり、目的だった「全社最適」が少しずつ形になっていきました。
例えば開発と営業の連携によって、「この製品のこの部分を0.5センチ短く作れればだいぶ歩留まりがよくなるけど、規格を変えてもお客さんに使ってもらえるか?」といったキャッチボールが、部署をこえておこなわれるように。製造の効率化が着実に進んでいきました。
購買部門と開発部門の連携も、大きな効果がありました。中国など海外に製造委託をする際、現地の工場に行くのは従来は購買部門だけでしたが、開発部門の人間も同行するようにさせました。現地の製造現場を見ることで、委託先にとってもメリットのある規格変更などを提案できるように。コストの最適化に成功しました。
赤字が続いていた営業損益は、16年度から黒字に転換。そこから7年連続で増益を達成しています。
一方、日本の出生数は急速に減っており、2022年度は約77万人と、5年前から2割近く減少しました。産科・婦人科用品をメインでてがける大衛にとっては、今後も厳しい市場環境が予想されます。
「(産婦人科用品の分野は)すでに市場で4~5割のシェアを持っており、仮にシェアを伸ばせたとしても、マーケットが小さくなっている状況では売り上げは頭打ちです。しかし一連の改革で、産婦人科以外の領域で売り上げを伸ばしていく流れができ始めました」
加藤さんは産婦人科以外の領域で、3つの売り上げの柱を育てようとしています。
1つ目は、総合病院の産婦人科以外で使う消耗品です。2017年には、大阪大学と共同開発した一人で着用できる手術用ガウン「セルフガウン」を商品化。東京大学病院で採用され、WHO(世界保健機関)からも、推奨品として認められました。
「当初、産婦人科以外の領域では、『どうせうちの商品は他社に勝てない』といった負け犬根性のようなものが従業員にありました。でも勝てないのは、求められるものが作れていないからだったんです。営業が報告してくる病院側のニーズを開発チームがしっかり読み込み、商品にフィードバックすることで、競合が激しい商品でも勝てるようになっていきました。特に手術用ガウンは、耐久性や着心地など厳しい水準が求められ、会社のノウハウが詰まった商品。それが東京大学病院で採用されたことで、社内はすごく盛り上がりました」
2つ目は、JICAのプロジェクトがきっかけで2010年代に進出したベトナムでの事業です。
当初は現地に工場を構え、自社商品の製造販売を視野にいれていましたが、固定費がかさみ採算がとれないことから、ビジネスモデルの転換を決断。2020年から、日本の医療品の輸入代理業を始めました。ベトナムでは質の高い日本の医療品への幅広い需要がある一方、日本のメーカーは現地で商流をうまく作れず、進出できない状態が続いていたといいます。そこに、ベトナムの事情に詳しい大衛が入ることで商機が生まれました。方針転換後は、売り上げが急増しています。
「やはり海外進出する際は、日本の製品をただ持っていくのではなく、現地を知ることが大事だと感じました。最終的にお客様が何にお金を払っているのか、お金が動く瞬間をつかめていないと成長は難しいと、実際にやってみてわかりましたね」
そして3つ目が、個人向けのEC事業です。
毎年70~80万人いるとされる産婦のうち、30万人が産科で大衛の製品を使っています。ここで接点ができる女性の層に向けて製品を展開。骨盤ガードルや、保温性の高いレギンスなどのインナーウエアを取り扱い、健康課題に向き合っています。
「今後、これらの売り上げが伸びれば、産婦人科用品の売り上げ比率は結果的に減っていくと思います。ですが『大衛は何屋さん?』と聞かれたときに、『産婦人科の領域でシェアナンバーワンです』と言えるよう、そこは大切にしていきたいと考えています」
加藤さんは2021年6月、父の光司さんから事業を承継し、代表取締役社長に就任しました。最近は、光司さんがどのような思いで家業を担ってきたかがわかるようになってきたといいます。
「私が小学校2年の頃、阪神淡路大震災がおきました。震度7強の地震が襲い、兵庫県宝塚市にあった自宅は半壊状態。ガラスが家の中に飛び散り、部屋から一歩も出られませんでした。電気もガスも止まってしまって、子どもたちはみんなその部屋で食べ物が与えられるのを待っている状態でした」
「そんな中、当時社長だった父は、病院向けの医療材料を提供するため『ちょっと行ってくる』と言って、仕事に出かけてしまうんです。子供だった私は『残された俺たちはどうするねん』と思いながら見ていました。やがて父は、どこかで足を切ったのか、血だらけになって戻ってくるわけです。何をそんなに頑張っているのかと思っていましたが、病院向けの仕事をやるようになり、父の気持ちがわかりました」
新型コロナウイルスが猛威をふるった2020年は、医療現場でもガーゼやマスクの不足が叫ばれました。大衛はそれまでに構築していた部署間のチームワークが功を奏し、大きな穴をあけずなんとか病院への供給を続けることができたといいます。
「物資の供給が滞ると医療現場が止まってしまいます。何があっても届けないといけないという、強烈な使命感を抱きました。父は阪神淡路大震災の時、この責任感で動いていたのだと今になって感じます。医療物資をどう安定供給していくか、というところは、これからもすごくこだわっていきたいです」
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