「大手と同じでは…」 高山額縁店のファンを広げた対面重視の店作り
高山額縁店(名古屋市)は、戦後すぐに生まれた額縁専門店です。マイホームブームとともに成長したものの、バブル崩壊によって大きく売り上げを落としました。3代目の高山大資さん(51)は、それまでの業態と店舗を大きくリニューアル。新たな客層を呼び込むことに成功し、業績を順調に伸ばしています。「誰も見たことがないような店を目指した」という高山さんに、その作り方を聞きました。
高山額縁店(名古屋市)は、戦後すぐに生まれた額縁専門店です。マイホームブームとともに成長したものの、バブル崩壊によって大きく売り上げを落としました。3代目の高山大資さん(51)は、それまでの業態と店舗を大きくリニューアル。新たな客層を呼び込むことに成功し、業績を順調に伸ばしています。「誰も見たことがないような店を目指した」という高山さんに、その作り方を聞きました。
目次
高山額縁店の始まりは、戦後間もない1946年。高山さんの祖父で、老舗の額縁会社に生まれた高山常隆さんが創業しました。
「戦後の物資のない時期に、額縁なんて需要がないと思われるでしょうが、戦争で亡くなった方の英霊を飾るための額縁が、飛ぶように売れたんだそうです」と高山さん。
時代は高度成長期に突入し、マイホームブームとなります。人々は新居に絵を飾るための額縁をこぞって買い求めました。豊かな時代背景の中、高山額縁店は順調に成長し、1972年に法人化します。周辺に歓楽街が広がる、堀川沿いの納屋橋のすぐ近くに店を構えていました。
高山さんは、高山額縁が法人化した1972年に誕生。内向的でいつも家で音楽を聴いている子どもでした。
「僕は次男で、店は兄が継ぐことが決まっていたので、将来は海外か東京に住みたいと漠然と考えていました」
そんな高山さんに転機が訪れたのが1989年、高校2年のときです。交換留学で過ごした米国マサチューセッツ州ボストンがすっかり気に入り、転校して大学まで進学。しかし、家庭の事情や心境の変化などで、大学に入学してすぐに退学し、日本に帰国します。
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帰国後は英語力を生かして、ホテルのベルボーイや外国人客の多い寿司屋のアルバイトを掛け持ちして働きました。2年経った20歳の頃、クラブ通いで仲良くなった英国人DJに誘われて、高山さんもDJとして店に立つようになります。
DJは天職だと感じた高山さん。英国人DJと一緒にサウンドバーをはじめると、大成功します。連日、店をぐるりと取り囲むように行列ができました。「『好きを仕事に』『イケイケ』を地で行く感じでした」と高山さんは振り返ります。
しかし、「好きなこと」がビジネスになると、人間関係がギスギスしてきました。商売のためには、「好きな曲」より「ウケる曲」を優先することも必要です。「若かった僕はそれが耐えられなくて、いつもまわりと衝突していました」
1994年、22歳で結婚したのを機に、DJを辞めました。ホテルの仕事に戻ろうと考えていましたが、後継者として高山額縁に入社していた兄が、急に退社して海外に移住。急遽、高山さんが家業を継ぐことになったのです。当時は、祖父の常隆さんが経営を担っていました。
入社してすぐに高山さんはあまりの客の少なさに驚きます。「一日に1~2人しかお客さんが来ないんです。これで経営が成り立つのか?と愕然としました」
個人の顧客以外に、官公庁などからまとまった受注は受けていました。しかし、バブルがはじけて人々のライフスタイルや価値観は大きく変化し、マイホームやマイカーを持たない人が徐々に増加。景気が悪くなると行政からの受注も激減します。
一方でコスト節約のために、それまで自前で作っていた額の製造を、海外の工場で委託するようになりました。次世代の職人が育たず、技術が途絶えていくこととなります。
消費行動も変わりました。「ズラッと並べて定価で売る」従来のスタイルが通用しなくなったのです。大量に仕入れて割引価格で販売する大手資本にはかなわなくなりました。
「少し足をのばしたところに同じものが安く買える店があるなら、そちらに買いに行くのは当然です。かといって、大手と同じように安くしても薄利多売になるだけでうまくいきません」と高山さん。「大きく業態を変えなければ生き残っていけない」と危機感を募らせ、祖父に提案をするようになりました。
「少し仕入れを減らしては?」「こういった商品を増やしては?」と高山さんが提案しても祖父は聞き入れてくれませんでした。
祖父は自己流の成功体験やセオリーを持ち、かなり頑固だったといいます。高山さんは何もできないまま、年々お店の業績は悪化していきました。
「当時の僕は、本当にダメ社員でしたので、祖父が認めないのも無理はありませんでした。奥の方に引っ込んでずーっとパソコンに向かってるだけ。配達に行けばなかなか帰ってこない。そんな仕事ぶりでしたから」
そんな高山さんに「おまえはもっと本腰を入れれば成功するのに」と祖父は怒りをぶつけることもありました。
最盛期 には現在の店舗以外に百貨店の丸栄や松坂屋にも店舗を持ち、従業員も職人を含め20名以上いました。当時は額縁だけでなく中に入れる絵画ごと販売していたので、毎日50万円以上、年間で2億円近くの売上があったといいます。
しかしバブルがはじけ、高山さんが入社した1994年頃には、年間売上は最盛期の10分の1まで落ち込み、売上2千万円ほどで推移していました。
そんな中、2014年に常隆さんが88歳で急死。「亡くなってはじめて、祖父が『本腰を入れれば成功する』と言った意味がわかったんです。どうしてもっと祖父に食い下がって自分の意見を伝えなかったのだろう、もっと行動すればよかったと後悔しました」
残された家族(祖母・母・番頭・高山さん)で今後のことを話し合いました。店をやめるという選択肢もありましたが、祖母の一言が、店の将来を決めました。
「口出しはしないから、あんたの力で店を立て直してもらえないか。それで駄目ならあきらめるよ」と祖母は高山さんに店を託すことを決めたのです。
祖父母の娘である母も「できれば続けたい」と祖母に同意。母が二代目社長となり、実質的には高山さんが大きくかじ取りをして、店の大改革をすることになりました。
まず高山さんが決めたことは「誰も見たことがないようなかっこいい店にして、世界中を探してもここにしかない、オーダーメイド額縁を作ってやろう」でした。そのために最初におこなったのは、在庫の一掃でした。もう何年も売れずにほこりをかぶっていた商品をすべて捨てたのです。
高山額縁店のコンセプトを「店には在庫を置かず、オーダー額縁のみを販売」に決めました。額の製作についても、海外委託を中心としたやり方ではなく、自社の工房で製作する方針へと戻すことにしました。
店内では、シャンデリアや天井、飲み物のコースターまで、額を使った装飾をあしらいました。おしゃれなカフェのような、他にない額縁店の空間が生まれました。
高山さんは、祖父の常隆さんから受け継ぎ・学んだことは「ホスピタリティ」だといいます。「人と人とのふれあいを大事にしたい」。同業他社が次々とネット通販に参入し成功する中で、あえてやらないと決意しました。
「ライフスタイルの変化で、『人に会いたくない』という人が増えていましたが、古臭くてもいいから、時代に逆行しようと考えたのです。ホテルマン時代に学んだ『サービスの基本』である『挨拶』と『頭を下げる』ことを徹底しました」
「誰も見たことがない店」のイメージづくりには、「米国で暮らした4年間が財産だった」と語る高山さん。「ニューヨークでは、古い建物や空間をうまく生かしていて、思わず入りたくなる店が軒を連ねていた」といいます。しかし、憧れていた芸術家の街として知られるソーホー地区に行ったときには、表通りが「意外と殺風景」でがっかりしたと言います。
「でも、一歩裏通りに入ると、猥雑でちょっと下世話なバーやのぞき小屋などあって。僕にはそれがすごく魅力的に見えました」
高山さんには、ソーホーの裏通りが、高山額縁店のある納屋橋地域に重なって見えました。整然としたビジネス街から一歩入ると、昔から飲み屋や演芸場、遊技場、ラブホテルなどがあった納屋橋の歓楽街が広がります。そうした街の歴史までが、高山さんの目指すイメージにピッタリだと気づいたのです。
「『魔窟のような場所に夢のような店』が理想なんです」
店には多目的スペース「納屋橋Komore」とバー「納屋橋TWILO」を併設しました。「納屋橋Komore」は、主に若いアーティスト支援のためのギャラリーとして利用。徐々に人気が出て、昨今ではすぐに埋まってしまうようになりました。
祖父の代にお店に通ってくれていた既存客の多くは、高山さんが新しく打ち出したスタイルを受け入れられず、離れていきました。しかし高山さんはブレるとかえって心配されると考え、自分の信じた道をひたすら進んだのです。店舗リニューアルのために多額の借金もしましたが、迷いはありませんでした。
既存客は減った一方、興味を引く店構えとギャラリーやバーによって、間口は着実に広がっていきました。若手のアーティストなど、新規のお客さんが「かっこいい」「覗いてみよう」と来てくれるように。 対面でニーズを把握する丁寧な接客や口コミでお客さんが増えていき、4~5年で確かな手ごたえを感じるようになりました。2018年、代表取締役に就任します。
同年には写真家・鋤田(すきた)正義さんの名古屋巡回展の誘致に成功します。鋤田さんは、英国のロックスターであるデヴィッド・ボウイを撮影した唯一の日本人写真家。「ありきたりのギャラリーではやりたくない」という鋤田さんのお眼鏡にかなったのです。高山さんは「音楽好きとして感慨深い」と語ります。
リニューアルののち、軌道にのりはじめた高山額縁店。しかしコロナ禍が広がった2020年の春には、営業の自粛を余儀なくされました。
2020年春のコロナ禍で店舗を閉め、しばらくは収入がない状態が続きました。そうした中、当時のメインバンクが「借金を返してくれ」と言ってきたのです。調べてみると祖父の代のかなり古い借金で、家族は誰も把握していませんでした。「コロナ禍の今返済するのは厳しい」と抵抗しましたが、銀行側も譲りません。絶体絶命の中、なんとか新たなメインバンクを見つけ無事返済しました。
こうして最初の自粛期間をしのぎ、店を再開。 その後もギャラリー展示はキャンセルが相次ぎましたが、知人のキュレーターの企画で、オンラインでの展示を開催してくれました。
リアルのイベント開催が難しくなった一方、コロナ禍の巣ごもり需要で、自宅用の絵画を購入する人が増え、それにともなって高山額縁店の売り上げも増えていきました。
実はこのとき、他の額縁店の多くは品切れとなって「需要があっても売るものがない」状況が続きました。しかし高山さんはある「先手」を打っていました。
コロナ禍が日本で本格的に広がる直前、ニュースでヨーロッパの空港が次々閉鎖される様子を見た高山さんは、そのうち日本も閉鎖されて輸入ができなくなると考えたといいます。
「弊社のオーダー額の中心は輸入製です。額が輸入できなければ、商売ができません。僕は手元にある資金で新たに倉庫を借りて、倉庫に入るだけの額を仕入れました」
そのおかげで借金を返すのには苦労しましたが、海外との物流が滞ったコロナ禍でも、商品を切らさず通常営業をすることができました。
高山さんが店をリニューアルして約10年。2023年度の売上は6千万円になりました。最盛期の1/3ではありますが、最悪期の3倍になったのです。97歳でまだまだ元気な祖母が「よくやったね」とほめてくれるのがうれしいと、高山さんは顔をほころばせます。
そんな高山額縁店の人気商品がミニ額(ミニチュアフレーム)です。オーダー額を制作した際に余った廃材をリユースするエコ商品であり、安いものは千円ほどの格安価格で提供できます。購買層の多くは作品を販売するアーティストです。
ヒットの理由は、「アーティストのニーズと合致したこと」だと高山さん。オーダー額は高額なため、駆け出しの若手作家さんにはなかなか手が出せないのが現状。また、上質なミニ額に入れた作品は魅力がさらに増し、手頃感と併せてよく売れるというアーティストが多いのだといいます。
ミニ額は、リユースのもとになるオーダー額の受注によって、デザインも生産量も左右されますが、それゆえに一点ものの商品になります。1カ月に数回100円引きで販売するセールの日には朝から整理券を配り、行列ができるほどの人気に。中には一度に数十点購入する人もいるそうです。
高山額縁店では、額の販売が収益の9割以上を占め、ギャラリーやバーなどは1割弱です。ネット販売の希望は多く、特に東京の小売店からの問い合わせが増えているそうです。しかし、「対面」で販売することにはこだわりがあり、現在もネット販売は考えていないという高山さん。
「ここまでやってこられたのは、自分ひとりの力ではありません。スタッフに恵まれたことが大きいです。お客様からもスタッフが素晴らしいとほめられます」。現在10名いる高山額縁店のスタッフは、現役でアーティスト活動をしている人がほとんど。そのため、作品に対する造詣が深く、きめ細やかな対応ができるのです。
また、スタッフ側にも高山額縁店で働くことにはメリットがあるといいます。同店で接客することで、作品のニーズや顧客との接し方を学べます。培ったノウハウは、自分の作品を販売するときに役立ててほしいと高山さんは考えているのだそうです。
高山さんが店をリニューアルしたこの10年で、過去には水質低下が問題となっていた堀川の環境も変化しました。街の人々や市の職員、土木の大学教授などが一体となって川辺が整備されたのです。川には遊歩道ができ、さまざまなイベントで賑わうようになりました。
30年名古屋でやってきて、東京で勝負したい、という想いはあり、進出も視野に入れているという高山さん。「誰も見たことがないような店」、次はどこに登場するのでしょうか。
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