かつてのミヨシの取引先は自動車業界が8割で、そのほとんどを二つの会社が占めていました。本格化する海外への産地移転の目にみえる影響はなかったものの、リーマン・ショックの直撃で倒産の二文字が頭をよぎるようになります。売り上げは1997年の3億6千万円をピークに下降線をたどり、2010年には1億円を切りました。
「やるからには自分の土俵で戦わなければなりません。それはミヨシを築き上げた父のこれまでをことごとく否定するようなものであり、親子仲はかなり悪くなりました。摩擦が生じるのは織り込み済みでしたが、そんなけんのんな雰囲気に付き合わせてしまった社員には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。『けんかはぼくらがいないところでやってください』といわれたこともありましたね」
家業入りして9年。2012年に社長に就任した杉山さんが選んだ土俵は、ベンチャー企業の開拓、サステイナブルな企業への脱皮、そして産地復興。企業理念に掲げたのは「捨てられないものづくり」と「人の役に立つものづくり」でした。
「3Dプリンターの普及により、メイカーズムーブメントが到来していました。アイデアをかたちにするには量産化が求められます。ベンチャー企業の受け皿になる。これがひとつ目の目標でした」
さまざまな会合に顔を出すなか、機楽(東京都狛江市)代表の石渡昌太さんと知り合います。かれがあたためていたアイデアが「RAPIRO」でした。みずから組み立て、プログラミングもできるロボットキット、まだなじみのなかったクラウドファンディングを利用した資金集め……。どこをとっても画期的なアイデアでした。
「共同開発を持ちかけられたわたしは、二つ返事でこれに応えます。ただ、金型代だけで1500万円を超えましたから資金繰りには苦労しました」
既存の取引にも影響が生じます。この時期は7割の労力が「RAPIRO」に割かれる状態でした。得意先には事情を説明し、受注量の抑制や協力工場へのアウトソーシングといった対応をとるのにも限界があります。杉山さんたちは正月も返上して働きました。
ここを乗り越えれば未来は開ける――。そう信じる杉山さんは現場を説き伏せ、この時期を走り抜きました。
ベンチャーの世界で名が売れる
14年に発売された「RAPIRO」は英国のキックスターターで1200万円を超える支援を受け、文化庁メディア芸術祭の審査委員会推薦作品に選ばれました。
ミヨシならやってくれる、といううわさは瞬く間に広まります。「RAPIRO」に先んじて手がけた立体型Rサンプル「Resiina(レジーナ)」をはじめ、学習リモコン「IRKit(アイアールキット)」、見守りロボット「BOCCO(ボッコ)」……。この時期に参画したプロジェクトは枚挙にいとまがありません。
ベンチャーの世界で名が売れたことで、ミヨシは息を吹き返します。取引先は倍増し、売り上げは2億円に迫る年もありました。顧客リストには大手企業や大学の研究機関が名を連ねます。一時10人を切った社員数は現在、パートを含めて18人に。営業利益も大幅に落ち込むことはなくなりました。これに寄与したのがサステイナブルな取り組みです。
省エネで中小企業庁長官賞に
取引先のテコ入れに先んじるかたちで動き出していたのがサステイナブル。環境省が策定した環境マネジメントシステム「エコアクション21」との出会いをきっかけに、本腰を入れます。
「22年の資源エネルギー庁の統計によれば、日本のエネルギー自給率は12.6%。環境に配慮した事業経営は喫緊の課題でした」
それは杉山さんがかねて関心を抱いていた分野でもありました。新卒で採用されたのは三造環境エンジニアリング(現JFE環境テクノロジー)。杉山さんはゴミ処理プラントの補修工事監督業務に従事しました。
先に結論をいってしまえば、ミヨシが取り組みを開始した07年と17年を比較すると電力使用量は30%以上の削減を達成しました。月の請求額は30万円を超えません。16年には省エネ大賞中小企業庁長官賞を受賞しました。
「ものづくりうんぬんの話ではありませんから、まったくといっていいほど現場の意気は上がりませんでした。父からも金がかかると反対されました。だからまずはできることから手をつけた。ゴミ箱の場所を変えるとか、そんなところから始まりました」
社員の意識が変わり、それがかたちになって現れはじめたのは1〜2年経ってからだったといいます。
LEDの導入やエアコンの買い替えは元手さえあればできます。ミヨシの秀でたところは、電気水道の使用量や廃棄物量を可視化し、そして現場のアイデアを積極的に採り入れて一体感を育んでいったことにあります。
たとえばポカヨケスイッチがそれ。スイッチにカバーをつけることで節電の意識が芽生えました。
この取り組みはスムーズな承継にも大いに役立ったといいます。
「技術ではベテランに太刀打ちできません。曲がりなりにもわたしが社長として認められたのは、環境対策というひとつの目標を掲げ、牽引(けんいん)した実績があったからです」
ミヨシは文夫さんが職人2人とともに1982年に創業した会社です。近江商人の「三方良し」にあやかって社名は三善(みよし)工業としました。杉山さんは社長に就任するにあたり、この三方良しの解釈を更新し、「取引先、ならびにいまこの時代を生きる人に加え、未来の人にとって為になる活動」と定義しました。
オープンファクトリーを立ち上げ
水面下で模索していたのが産地復興でした。その答えが「かつしかライブファクトリー」と名づけたイベントです。
オープンファクトリーの先駆的存在・燕三条の「工場の祭典」を知った杉山さんは社会に開かれたイベントの大切さを知ります。調べてみれば下町には「スミファ」、「モノマチ」、「エーラウンド」という先行するイベントがありました。
杉山さんは開催の可能性を探りましたが、周りの反応は芳しくありません。けがをされたら困る、技術が盗まれる、利益にならないだろう――という具合に。
杉山さんは、ならばと17年に単独でイベントを開催します。プロの道具を使った測定をテーマにしたイベントは好評裏に幕を閉じました。その後も単独開催を重ねる地道な努力が実を結び、「かつしかライブファクトリー」にこぎつけます。第1回は19年、9社が名乗りを上げました。
23年には参加企業が2ケタの大台に乗り、124人の来場がありました。アンケートをとったところ、うち118人が満足と回答し、項目にはなかった大満足も2人いたそうです。
「おかげさまで区も協力してくれるイベントになりました。工場間で仕事を融通し合う関係も生まれました。たしかな手応えを感じていますが、なによりも住民と触れ合う機会が設けられたのがうれしい」
1979年に8153社あった区内の工場は、2014年には2131社まで減少しました(葛飾区統計)。跡地には住宅が建ち、工場は肩身が狭くなりつつありました。杉山さんはこのまま指をくわえてみているわけにはいかない気持ちだったと当時を振り返ります。
機能性重視のオリジナル製品
「かつしかライブファクトリー」の目玉としてオリジナル商品の開発にも乗り出します。
古米を混ぜたバイオマスプラスチックを原料としたしゃもじ、セルロースナノファイバーを使ったペンケースやキークリップ……。「ミヨシ工房」と名づけたECサイトでも販売しているオリジナル商品に共通するのは、廃棄される材料の積極的な利活用と捨てられないデザインです。
いずれも装飾をそぎ落としたミニマルなデザインで、外部のデザイナーなどを起用していないと聞いて驚きました。
「デザイン先行ではなく、機能ありきで開発をしているからではないでしょうか。社内で試作から完成までもっていけるのも強みです。しかしなんといっても新卒で採用した2人の存在が大きい。彼らが大きな戦力になっています」
ひと頃のミヨシには半年経たずに辞めていく社員がざらにいましたが、くだんの若手は24年4月に入社3年目を迎えます。
「売り上げはまだ1%にも満たない。まだまだこれからですが、感触は悪くない。しゃもじはサザビーリーグが立ち上げた食品セレクトショップAKOMEYA TOKYOでも販売されているんですよ。諦めてしまったら、それは失敗ですが、続けていけば遠くない未来に花開くと信じています」
人をつないで収益を生む
目先の利益にとらわれることのない杉山さんの経営哲学には、お手本となる人がいました。
リーマン・ショックで窮地に陥ると、杉山さんは営業に乗り出します。現場一筋でやってきた杉山さんはまるで結果が出せません。そんなときに紹介されたのがさる機械商社の常務でした。
「わたしは年始のあいさつまわりで常務を訪ねました。先方にとって実りのある話ができるわけではありませんから、年始という口実を使いました。いきなりお邪魔したので会えませんでしたが、ほどなくお電話をいただきました」
窮状を察した常務は彼の得意先に連れていってくれました。
「3軒ほど回るも、ことごとく空振りに終わります。その日は雪が降っていました。移動中もアポイントを入れる常務は電話口でこういいました。『いま近所にいるんだけど、電車がとまる前に一緒に帰りませんか』。一人のお客さまが常務の誘いに乗ります。合流した常務はいかにもいま思いついたかのように提案しました。『彼の工場が近くにあるんだ。せっかくだからのぞいていきましょう』って」
それから数年後、常務が引き合わせたその技術者から注文が入りました。常務はどうやら折に触れてミヨシの話をしてくれていたようでした。
「ただモノを売るのではなく、人をつないで収益を生む、というスタイルに感銘を受けました。大した額ではありませんが、常務の会社から機械を何台か買わせていただきました」
そうして家業を軌道に乗せた杉山さんですが、それもこれも父がいたからこそ、と杉山さんはうなずきます。
「手先が器用でどんなアイデアもかたちにすることのできる人でした。自他ともに認める職人気質で会社を大きくし、わたしを育ててくれました。いまも昔も褒められたことはありませんが、昭和の職人ですから、こればっかりは仕方のないことです」