高岡市は「高岡銅器」の名で知られる良質な鋳物の産地です。この地にある老子製作所は銅製の美術鋳物に強みを持ち、寺院などで使われる釣り鐘市場では全国シェア7割を占めています。現在の従業員数は10人で、年間売り上げは約1億3千万円です。
老子製作所の手がけた美術鋳物は有名スポットに置かれた物が少なくありません。例えば、広島市の「平和の鐘」のほか、新潟県佐渡市の「佐渡日蓮聖人大銅像」、岩手県釜石市の「復興の鐘」など、数多のモニュメントを全国で手がけています。
しかし、その経営は苦しいものでした。釣り鐘や銅像といった美術鋳物は、市場が極めてニッチなうえ、めったなことでは壊れないので受注が先細る一方です。また、美術鋳物は受注単価がとても高額ですが、突発的な需要がほとんどを占め、タイトな資金繰りが常態化していました。
このため、老子製作所は1960年ごろから、大型の切削機械の鋳造事業に着手した過去があります。しかし、産業機械の小型化が進む流れの中で、90年代には機械の鋳造事業から撤退しました。
負債を積み重ねながらも、老子製作所の歴代社長は経営努力を続けてきました。しかし、コロナ禍による景気の冷え込みが最後の一打となり、2021年、老子製作所は民事再生法の適用を申請します。当時の負債総額は約10億6千万円。現在15代目の老子さんが、スポンサー無しの自立再建を図っています。
会社の現状について老子さんは「借金のプレッシャーが軽くなったので、美術鋳物の売り上げだけでも経営が成り立つようになりました。今のところ再生計画に沿った業績をあげることができています。しかし、銀行からの借り入れができない状態なので、苦しい資金繰りが続いています」と語ります。
民事再生法の申請後は人目が気になり、外食もままらないときもあったとのことです。一方、民事再生法を申請してまでも事業継続を模索する姿勢を、応援してくれる知人の経営者もいました。
再生計画の要となるのが、鋳物製ポットスチル「ZEMON」の製造事業です。この事業は、再生法を申請する前の17年に立ち上がり、若鶴酒造(富山県砺波市)、富山県産業技術研究開発センターと共同で進めています。
ポットスチルとは、ウイスキーの蒸留を担う装置のことです。普通は鍛造によって作られていますが、鋳造で作ったのは老子製作所が世界初でした。ZEMONならではの特性から生まれる味わいが関心を集め、国内外のメディアで取り上げられるなど高い評価を受けています。
収益化にはまだ時間がかかるものの、再生計画における中長期的なビジョンを示すうえでZEMONが欠かせない要素となりました。美術鋳物の売り上げだけで経営が成り立っているとしても、将来的な成長の可能性を関係者から求められたということです。
老子さんは「ZEMONをはじめとした機械鋳物と、会社のルーツである美術鋳物を合わせて、未来を築こうとしています」と語ります。
「下っ端とはいえ責任がある」
老子さんは幼少期から後継ぎとして生きる道を聞かされ、「後を継ぐことは当然の成り行きのように感じていました」と振り返ります。
高岡市にある鉄鋳物メーカーで鋳造の基礎を学んだ後、1998年、老子製作所に入社しました。
入社直後の1年間は鋳物の設計を手がけました。「設計の仕事は、全工程との接点がまんべんなく生まれ、お客様とのやりとりも多くなります。会社の全容を知るうえでいい経験になりました」
その後、営業を約4年間経験した後、製造現場の一員として働き始めました。現場はベテランの職人ばかりで、20代だった老子さんは苦労を味わいました。
特に試練となったのが、鋳型の材料を用意する作業でした。鋳造には様々な種類がありますが、老子製作所では主に「真土(まね)型鋳造」を採用しています。川砂と粘土と水を混ぜ合わせた「真土」で鋳型を作るもので、古来受け継がれてきた製法です。
「真土を用意するには、砂と土と水をまんべんなく混ぜ合わせる必要があります。この作業は、慣れていないと時間がかかります。また、配合次第で変わる真土の固さには、職人ごとの好みがあり、それぞれに合わせるのが大変です。苦労しながら真土を仕上げても、職人の要求水準を満たしていないと、やり直さなくてはなりません」
それぞれの好みに合わせて真土を混ぜ合わせるうちに、職人ごとの個性を把握できました。その一方で、生産性を高めるには別の方法があるのではないかと考えます。
「合格点をもらえた真土でも、最終的には職人自身が微調整していることに気づきました。どれだけ頑張っても100%満足してもらうのは無理だとわかったのです」
老子さんが代案として提案したのは、全員に共通した真土を用意することでした。
「職人たちは不満そうでしたが、効率の良い仕事につながると粘り強く説明しました。偉そうなやつだと思われたかもしれません。しかし、下っ端とはいえ私には後継ぎとしての責任があります。生産性向上のためには、反発を恐れずに新しい方法を推し進める必要がありました」
機械鋳物への再挑戦を任される
老子さんには美術鋳物だけでなく、一度は撤退した機械鋳物に再進出するための基礎固めも期待されます。2003年ごろに「ケーシング」と呼ばれる船舶用ポンプの部品製造を託されました。
ケーシングとは、ポンプ内の水の通り道にあたる部品のことです。腐食が進みやすく、定期的な交換が欠かせません。耐食性に優れた銅を素材に使えば、部品交換の頻度を減らし、メンテナンスコストを削減できます。銅製ケーシングには一定の需要があり、鋳物業界の老舗である老子製作所に部品メーカーから声がかかりました。
老子製作所では、新しい製造工程の確立から模索する必要がありました。美術鋳物は美観が重視される一方、機械鋳物では寸法や厚みなど厳重な品質管理が求められるからです。これまでより科学的な鋳造方法で、求められている精度を満たす必要がありました。
「目的にかなった鋳造方法はわかりましたが、社内に経験者がいないため相談できずに困りました。そこで、材料の販売元に問い合わせて、使い方をゼロから教えてもらうことで製造方法の確立に取り組みました」
老子製作所では、06年からケーシング鋳造の受注を始めました。ただ、一点物の美術鋳物とは違い、ケーシングなどの機械鋳物は量産が求められます。仕事の大変さがまるで違ったと、老子さんはいいます。
例えば、高温で溶けた金属を型に流し込む作業(鋳込み)も、美術鋳物では1日で済むといいます。しかし、ケーシングの鋳造では、ほぼ毎日のように鋳込みを行う必要がありました。
ケーシングの鋳造は重労働が求められましたが、老子さんがほぼすべての工程を1人で担っていました。新たに採用した鋳造方法を適切に管理できる人材が他にいなかったからです。「父親をはじめとする経営陣も、身内である私以外には頼みづらかったのかもしれません」
リーマンと震災で新規事業を断念
老子さんが奮闘した結果、ケーシングの鋳造は粗利をかろうじて確保できる事業に育ちました。しかし、08年にリーマン・ショックが起きると全ての発注が激減します。生産体制の維持も検討しましたが、老子製作所は最終的にケーシングの鋳造からの撤退を決めました。納品単価の引き上げの見通しもままならない状況下では、割に合わないと判断されたといいます。
撤退の決断を顧客に伝えるのは老子さんの役目でした。「銅製の鋳物を作れる企業は年々減っています。銅製ケーシングを発注してくれたお客様も、他に頼めるところがなかったと聞いていました。撤退を告げると何度も引き留められました。お客様の期待に応えられず、悔しい思いをしました」
それでも、機械鋳物の道は残っていました。実はケーシングの製造を始めたころから同時並行で、野生動物対策に役立つ特殊金属プレートを鋳造するための製法の確立を進めていたのです。
特殊金属プレートを製造する過程では、有害物質の蒸気や粉じんが生じます。従業員の健康被害を防ぐために、こちらも老子さんが1人で作業を担う必要があったといました。「宇宙服のような作業着で安全対策を徹底しましたが、命を削る思いでした」
しかし、11年に起きた東日本大震災をきっかけに発注者の事業環境が悪化したことから、特殊金属プレートの開発も頓挫してしまいます。祥平さんは次のように語ります。
「命を削った日々が無駄になったと思いました。でも、引きずらない性格なので、計画中止が決まったときもいつも通りの日々を過ごしました」
機械鋳物の下地がZEMONに
ケーシングも特殊金属プレートも、外的要因で断念しました。しかし、このときに機械鋳物を製造するための下地が培ったことが、後に老子製作所再建の切り札となるZEMONの開発につながったのです。
「機械鋳物の製造は美術鋳物とは全く異なる発想が必要です。量産体制や精度と向き合うマインドが、老子製作所の財産になったと思います。また、言われた方法に粛々と従うより、自分なりの方法を求めるという思考習慣が身についたことも大きかったです」
※後編は、世界初の鋳造製ウイスキー蒸留器「ZEMON」を開発した背景や、老子さんの経営再建戦略に迫ります。