庄下糀屋は熊野灘に面する南伊勢町の山間部の押渕集落にあります。古くから稲作や林業が盛んな地域で、かつては男性が農業や林業を担い、女性は家で糀を作って自家製のみそを仕込んできました。
庄下家の糀やみそが地域内に広がり、もうじき90歳になる庄下さんの祖母が嫁いだときには、糀づくりが家業でした。5代目の庄下さんは「創業年ははっきりしませんが、この地で100年以上、糀を作ってきたみたいです。祖母が3代目になります」と話します。
庄下糀屋は、庄下さんが父親と田んぼで米を育て、母親らとその米から糀を作り出しています。妻の千種さんも糀料理教室を開いて商品の認知を広げる家族経営です。自社の田んぼは約4ヘクタール、糀やもち、あられなどに加工する米は年間6トンを使用。みそに使用する大豆は年間3.6トンを仕入れています。多い日で1日に60キロのみそ樽を4個、約240キロほど仕込みます。
「うちの強みは、米づくりから手がけていることです。品種はコシヒカリで、特別な栽培方法ではないですが、糀にすることを念頭に育てています。4月後半からゴールデンウィークまで田植えを行い、お盆過ぎに収穫。新米を使って冬にかけて糀をつくり、みそを仕込むサイクルです。祖父母の時代は糀を持って峠を越え、隣町まで売りに行っていたと聞きました」
全国的に糀屋は減っており、庄下糀屋は町唯一の糀屋として、地域のニーズを一手に背負っています。直売に加え、地元南伊勢町を中心に伊勢市エリアのスーパーや産直売り場、道の駅などに卸しています。
糀は手作業と自然発酵にこだわり、変化する湿度や温度に合わせて、ストーブを炊いたり、毛布をかけて保温したり、まるで子どもを世話するように育てています。
自家製の豆みそ(赤みそ)は、糀、国産大豆に水を加えて1年以上熟成させる天然醸造。樽ごとに状態を確認し、人の手で混ぜます。樽にひじのあたりまで腕を入れ、下にたまった水分をなじませる作業は、見た目以上の重労働です。
「うちの豆みそで育ったので、東京の大学に出たときは、みそ汁の味の違いに驚きました。まろやかでうまみの強いうちのみその味じゃなければだめ、という古いお客様も少なくありません」
「伝統食品を残したい」と決意
3人きょうだいの末っ子の庄下さんは、兄や姉と年が離れていたこともあり、幼少期は糀の世話をする母について回りました。できたての糀をつまみ食いをしたり、配達についていったりしたそうです。「小さいながら、糀づくりの作業工程はなんとなく覚えていました」
伊勢市の高校で簿記や食品加工などの知識を得て、食への興味が強まり、ぼんやりとしていた家業への想いが明確になりました。
「父と同じ消防士や、好きな料理の道も考えましたが、日本の伝統食品を残したいと思ったんです。姉も兄も家業には進まなかったので、自分をここまで育ててくれた糀屋の仕事をなくしたくないという思いもありました。母は糀の仕事で忙しいのに、高校3年間、朝晩部活の送り迎えをしてくれました。大事に育ててもらった恩返しがしたくて…」
庄下さんは家業を継ぐため、東京農業大学短期大学部醸造学科に進学します。「家業で見ていた作業の理屈や仕組みが分かり、すんなり学べることが多かった一方、昔から伝わるうちのやり方を変えた方がいい部分も浮き彫りになりました」。卒業後も研究員として1年間大学に残り、発酵の知識を深めました。
知識と科学的根拠で変えた慣習
庄下さんは22歳のとき、南伊勢町へ戻ります。「よそでの修業も考えましたが、他のやり方をうちに持ってこられないし、祖母も高齢だったので、早く家業を手伝いたかった。糀やみそづくりは力仕事も多く、男手があったほうがいいと思って『ほな帰るわ!』と」。
祖母と母から糀づくりを改めて教わると、大学で得た知識と相まって、作業工程がスッと入ってきました。その一方、「ばあちゃんのやり方を変えた方がいいところも見えてきました」。
それは「昔からそうしているから」という理由だけで続けていることでした。
例えば、夜通しの作業を日中にしたり、大豆の水切りをしっかりするようにしたり、夏と冬で浸漬時間を変えたりしました。目分量だった計量も厳密さを心がけます。あいまいになっていた労働時間の区切りや作業工程のルールを、大学で学んだ知識と科学的根拠に基づいて変えていきました。
「今までは手につくとなかなか取れなかった大豆が、水切りをしっかりするようになったら、全然つかなくなり、作業のスピードがアップしました。浸漬時間を変えることで大豆に含ませる水分の量がバランスよくキープでき、みその味が安定しました。細かく計量することで材料のロスも減らせました」
500グラムからキロ単位だった糀の量も、200グラムという小袋サイズを作りました。「昔に比べて家族の数も少ないですし、甘酒や塩こうじなどを使い切りできるサイズが好評でした」
丁寧な作り方と代々続く味は守りつつ、時代に合った働き方に変えた結果、労働時間は朝8時から夕方までで収まり、休日もしっかりと取れるようになりました。イベント出店や商品開発など他の仕事をする時間も確保できたのです。
原材料となる塩や大豆の仕入れ方法も見直しました。それまでは、問屋から1年分を一度に卸してもらい、支払いもまとめていましたが「大きな額の支払いも、原材料の保管も正直大変でした。僕の提案で半年ごとに変えてもらいました」。
祖母も母も「あんたの好きにしたらいい」と、庄下さんに任せてくれました。
コロナ禍が経営に痛手
庄下さんは26歳のとき、結婚を機に、老朽化していた蔵を壊して新しい作業場を整備し、動線を改善しました。35歳になると経営も母から託されました。
「それまでも売り上げは把握していましたが、帳簿を管理するようになると、昨今の原材料費の高騰もあって、経費が多く利益が薄いことがよく分かりました。材料のロスを減らして販売価格も少し値上げし、利益率をあげて現状維持できている感じです」
家業に入ってから、小さな改善の積み重ねで売り上げは順調に伸びていましたが、コロナ禍で祭事やイベントが無くなりました。「日常食の糀やみそに大きな変動はありませんでしたが、祭りや祝い事などでもちを一手に引き受けていたのが、コロナ禍でゼロになりました」
年間で売り上げは約400万円減り、家族経営の庄下糀屋にとって大きな痛手でした。コロナ禍の3年間は、これまでの蓄えでしのいだそうですが、今後の経営を真剣に考えるきっかけになったといいます。
食べられる「万能糀」を開発
この15年間、庄下さんが挑み続けたのは糀の6次産業化です。老朽化した機械や設備の改修、販路の拡大、加工品の開発、SNSを使った情報発信、糀料理教室の開催など、製造以外にも手を広げました。
「地域のニーズに応えるだけでは売り上げは減る一方。人の目にふれるところに出ていかなあかん」と、それまで地元の直売所に置く程度だった商品も直売分は確保しつつ、スーパーに卸したり、商工会に所属して定期的に地元のふれあい市や物産展などに出たりして広げました。
新商品の開発にも着手します。「糀は甘酒やみそに使われ、最近では塩糀ブームもありました。しかし、家庭でひと手間かけて使うものなので、買う人が限られ、スーパーやイベントなどでは売りにくかったのです」
庄下さんは「誰でも食べられる糀をつくれないか」と考え、半年の試作を重ねて「万能糀」を生み出しました。しょうゆ、砂糖、野菜、にんにく、タカノツメを混ぜあわせて煮詰めた味付きの糀です。
「糀にしょうゆを漬け込むのがポイントです。なかなかいい具合にならなかったのですが、ある日、仕事が忙しくて糀を放置する時間が長くなってしまいました。そうしたら、程よいとろみの糀が仕上がったのです」
糀の甘みとコクを出し、ご飯のお供、野菜や肉、魚に添えても合う万能調味料をイベントで販売したところ、瞬く間に売り切れました。現在はイベント限定販売で年間200個程度を製造。地元の飲食店でも提供しています。
妻が仕掛けるインスタと料理教室
情報発信は課題が山積みといいますが、2019年からは妻の千種さんが庄下糀屋のインスタグラムを立ち上げ、消費者とつながる場ができました。
インスタではカラフルな写真とともに、糀を使ったローストビーフや金目鯛のアクアパッツアなどのレシピ、ギフト商品の紹介を行っています。
千種さんは麹生活マイスターの資格を取得。インスタで参加者を募り、町内のレンタルキッチンを利用して不定期で糀料理教室を開いています。1回のレッスンを最大4人で行っており、1人でも参加希望があれば開催しています。教室では発酵や糀の座学、糀調味料の作り方、基本の料理レシピを紹介。料理をつくり、食べてもらうことで、各家庭で糀を使う頻度を増やしています。
「妻は(隣の)伊勢市出身なので、教室を開くことで地域の友人が増え、コミュニティーを広げる場にもなっているようです。楽しそうにうちの家業に関わってくれているのがうれしい。若いお母さん世代が顧客になることで、子どもたちへの食育にもつながります。家庭の食事で糀が身近なものになれば、糀屋のニーズも無くならず、未来へつながると思います。ゆくゆくは庄下糀屋直営の販売所を併設した糀屋カフェとかできたらと考えています」
土台を作った先祖がいたからこそ
庄下さんは、自身と同じく地域の伝統産業を担う後継ぎに、笑顔でこうメッセージを送ります。
「家業に飛び込んだら大変なこともたくさんありますが、やりたいことに挑戦し、楽しく働けているのは、土台を作ってつなげてくれた先祖がいるからです。どんな業種でも自分を育ててくれた仕事と真剣に向き合う経験は大事。一回やってみる価値はありますよ」
楽しそうに働く父親を見ているせいか、庄下さんの長男は米作りに興味を持っています。次の世代も育ちつつあるようです。