日本新聞協会によると、協会加盟の日刊110紙の総発行部数(2023年10月時点)は約2859万部。前年比7.3%減という減少幅は過去最大で、部数でみると約225万部も落ち込みました。
スマートフォンの普及など、情報のとり方の多様化などが理由に挙げられますが、瀬谷さんは新聞販売所の古いイメージも原因と考えています。2011年に2代目社長になって以来、大胆なイメージチェンジで成果を上げました。
瀬谷新聞店は鹿沼市を中心に、毎日新聞や地元の下野新聞などを主に扱っています。瀬谷さんの父健一さんは、東京や栃木の販売店で修業後、1990年に独立し、栃木県足利市で有限会社瀬谷新聞店を立ち上げました。当時は新聞の部数や折り込みチラシも右肩上がりでした。
瀬谷さんは2000年、21歳の時に瀬谷新聞店に入社。配達、集金、営業、事務、折り込み作業など何でもこなしました。夏は暑く冬は寒いこの仕事は、最初は嫌々でした。それでも集金に行ったとき、お客様と玄関先でおしゃべりするのが、楽しくなったといいます。
「市場に行く前に新聞が読みたいから午前2時に届けて」、「山のふもとでたばこを買ってきて」といった地域のニーズに丁寧に応えるうち、最初はツンケンしていたお客様が徐々にファンになってくれたといいます。瀬谷さんはこれこそが新聞販売所の強みと気付き、後に新聞離れに向き合う際のアイデアの原点になりました。
「『あの家は最近、お孫さんが生まれた』、『あのお客様は最近顔色が悪いな』といったように、家の事情が分かる業種は、新聞販売所の他にありません。だからこそ地域の見守りができるのです」
窮地に思い出した父の言葉
健一さんは2007年、前の販売店から経営を引き継ぐ形で、鹿沼市に株式会社瀬谷新聞店を開設。足利市の有限会社の運営は弟に任せました。健一さんが社長、瀬谷さんは常務として社員約50人の新会社を運営しました。
ところが2011年1月、健一さんがガンのため、63歳の若さで急逝してしまいます。経営は赤字だったため、瀬谷さんは会社を継ぐか清算するのか迷いました。
追い打ちをかけたのが2カ月後の東日本大震災です。鹿沼市の直接的な被害は少なかったものの、スーパーの休業や自粛ムードで折り込みチラシの部数が、前年対比で半分以下に落ち込みました。
新聞販売所の収入源は新聞代とチラシの折り込み手数料です。その一角が崩れ、経営は一層厳しくなりました。周囲からは「やめるのも一つの選択肢」、「30歳そこそこの女性に新聞販売所の店主なんて務まるものか」との声も聞こえました。
この窮地に、瀬谷さんが思い出したのは健一さんの言葉でした。
経営が大変な時、弱音を吐く瀬谷さんに、健一さんは「お前がそんな顔をしていると従業員が不安になる。いつも笑顔を絶やさないように」、「絶対にあきらめるな。お父さんは死んでもやる」とはっぱをかけたそうです。
半年ほど迷い続けた瀬谷さんのもとを、業界関係者のA氏が訪ねてきました。A氏は新聞業界に詳しく、瀬谷さんが尊敬している人です。
A氏は瀬谷さんに会うなり、こう鼓舞しました。
「何をやっているんだ。そろそろ決めなさい。とりあえず1年やってダメならそのとき辞めればいい。あなたにしかできない新聞販売所をつくってごらん」
この言葉に背中を押され、瀬谷さんは2代目社長になる決意をしました。社員からも喜ばれ、瀬谷さんは「お父さんが遺した道に、私が新しいレールをつなげばいい」と考えるようになりました。
「私にしかできない販売所」を
就任以来、瀬谷さんが目指したのは「私にしかできない新聞販売所」でした。かねて疑問だった販売店のイメージを覆そうとしたのです。
最初に手がけたのは、店の雰囲気を変えることでした。新聞販売所は朝刊を配る前後の未明や早朝に活動し、昼間は閑散としています。そのため、どうしても暗い雰囲気がぬぐえません。店員が暗い顔をしているとお客様は離れていくため、ユニホームや襟付きの服を着るなど、清潔感のある身だしなみを徹底しました。
2012年7月からは、ミニコミ紙「せやTOWN」の発行を始めます。「瀬谷新聞店と地域のお客様との架け橋になれば」との思いで、一般紙には掲載されない小さな声を拾っています。
2024年7月号では、防災への備えを呼びかける記事や、地域でヨガを教える女性へのインタビュー、夏祭りの食事券プレゼントなどを盛り込んでいます。
瀬谷さんが制作にトライすると「取材→編集→発行」の作業が大変でした。しかし、大変であるがゆえに「これは瀬谷新聞店にしかできない仕事」と思うようにもなりました。月1回、B4カラー両面で印刷する「せやTOWN」は多くの人に読まれ、発行は2024年7月までで145号に達しました。1回あたりの発行部数は8千枚にのぼっています。
2020年11月には、地域情報アプリ「ツムクル」もリリースしました。瀬谷新聞店がプラットフォームを用意し、行政や消防、警察、社会福祉、学び、店舗などの情報を掲載。紙媒体とデジタルとのハイブリッドで、地域密着の情報を届けているのです。
店を改装、マルシェも開催
瀬谷さんは営業の流れも変えようとしました。
新聞販売所の営業スタイルの主流は個別訪問で、お客様から店に来ることはほぼありません。
そこで2013年から、店でフラワーアレンジメントなどのカルチャースクールを始めました。店が地域の交流の場になると、店内も自然ときれいになりました。現在も3カ月に1回のペースで開催しています。
5年前には、瀬谷新聞店の社屋を一新しました。「開かれた新聞店」をより現実のものにするため、デザイナーにカフェのようなデザインを依頼し、新聞販売所らしからぬ建物にしました。
瀬谷さんはリニューアルした店の駐車スペースを使い、年2回、「せやマルシェ」を開催しています。
最初は数軒の店が並ぶイベントでしたが、想定以上の人が集まりました。2023年秋の9回目のマルシェには、22軒が出店しています。「地域コミュニティーとのつながりを深める中で、飲食店やキッチンカー、酒蔵、婦人服のリユース販売など多様なお店が並ぶようになりました」
会場では新聞に親しんでもらおうと、自分の生まれた日の新聞を印刷する「記念日新聞」の発行や、新聞紙を使ったちぎり絵などのワークショップも行いました。販売所の作業場を開放し、アート作品を並べた「一日限りの美術館」も開いています。
マルシェを訪れた人たちからは、「街に新聞店って必要だよね」、「新聞は読まないけど、瀬谷は面白いことをやってるね」などの感想があったといいます。
地域コミュニティーの中心に新聞販売所があるーー。そんな理想に近づいている手応えを感じています。
貧しい子どもに靴を送る活動も
瀬谷新聞店はCSR活動にも意欲的です。父健一さんの友人が始めたNPO法人「SB.HeartStation」(さいたま市)の活動を支援し、瀬谷さんも副理事長を務めています。
同団体は、貧しさで裸足で過ごさなければいけない世界の子供たちに、靴を送る活動を続けています。日本の子どもたちが成長してサイズが合わなくなった靴を集め、フィリピンやタイ、ミャンマーなどに送っています。
瀬谷さんは地域に向けて、はかなくなった子ども用の靴を募集したところ、大きな反響がありました。
電話をもらって取りに行ったり、新聞代の集金時に預かったりなど、靴の集め方は様々ですが、これまで3500足以上を世界の子どもたちに届けました。「せやマルシェ」の売り上げの一部も団体の活動費として寄付しています。
地域に開かれたカフェをオープン
2024年7月には、販売店近くにある築60年の建物をリノベーションして、「KEYHOLE」という施設をグランドオープンしました。カフェやレンタルスペースを備え、コワーキングやワークショップなどで利用ができます。
名前の由来は「地域の新しい扉を開ける、一人ひとりに合った鍵穴」で、ロゴマークは旗をイメージしています。
開店資金は事業再構築補助金を活用。「コロナ禍で新聞店の経営は厳しさを増しています。新聞への売り上げ依存を少しでも減らすため、新規事業にチャレンジしました」
シェフを新たに採用したり、販売店の事務員をスライドしたりしてスタッフを確保。「みんなでトレーニングしたり、意見を出し合ったりしてメニューを完成させました」
カフェの魅力はスペシャルティーコーヒーとフード、スイーツです。特に、地場の野菜、フルーツをふんだんに使ったサラダボウルが人気といいます。
瀬谷さんは父をがんで亡くしたとき、「何もしてやれなかった」という思いがあり、健康を意識したメニューを開発しました。特にオリジナルの「いちごドレッシング」が評判です。こうした人気商品は今後、自社ブランド化して、広く販売できたらと考えています。
販促物を減らしプロパー営業へ
新聞販売業界には「拡材」(かくざい)と呼ばれる売り方が存在します。営業担当がせっけんなどの販売促進物を持って家庭を訪問し、新聞購読を求めるやり方です。また、新規契約を専門のセールスに外注する店もあります。
瀬谷新聞店も5年ほど前まで、拡材や専門セールスを使っていました。しかし、そうやって出会ったお客様とは一時的な付き合いにとどまり、「つながり」という価値は生まれないと考えました。
瀬谷さんは拡材利用を最小限に抑え、外注活用もやめてプロパーの営業に徹しました。そして、限られた資金を、前述した様々な地域活動に投資しました。
「例えばマルシェを開いたからといって、翌月から新聞購読が100件増えるわけではありません。ただ、こうした地域活動を続けることで、拡材ありきでつながっている方が減り、長くご購読いただけるお客様は増えました。理念をきちんと持ったプロパー営業に切り替えたことで拡張費は大幅に改善し、スタッフも営業がしやすくなりました」
販売所の後継者たちとコラボを
瀬谷さんが事業承継した後、統廃合による業界再編成で何店舗か引き継ぎ、規模を拡大しています。
瀬谷さんは2019年11月、毎日新聞社が主催した新聞販売所向けの「経営革新塾」で、自社の2025年ビジョンを示しました。
このビジョンで掲げた「拡材の見直し」や「拡張費を減らし、収益を上げる」などは、2024年までに実現。2024年の目標だった「第3の収益強化期間」は、KEYHOLEの開店で大きく前進しました。年商は継承時の2億5千万円から、3億6千万円に伸びています。
コロナ禍前の2019年に掲げたビジョンが、5年後の2024年になってほぼ実現したのは、地域活動や営業改革に注力する瀬谷さんの戦略が、ぶれなかったということでしょう。
「今は、KEYHOLEで収益増ができるように努力したいですが、それは、新聞販売所の経営が成り立ってこそでもあります。新聞販売は必ず守れるように努力しなければいけません。このビジネスモデルが成功すれば、全国の販売所が考える新事業のモデルケースになり、多くが廃業を免れるかもしれません」
「新聞販売所の機能を最大限に活用し、行政や企業とも連携して地域課題を解決して収益増を図る。そのためのフィールドは整いました。その先に収益が生まれ、新しいものを創造できるよう努めたいです」
瀬谷さんの夢の一つは、全国の新聞販売所の後継者たちとのコラボです。後継者たちもまた、新聞販売所を地域コミュニティーの中心にするためのビジョンを描いています。
そこに瀬谷さんのノウハウを伝えたり、KEYHOLEで人気のオリジナル商品を提供したりして、全国の販売所の存在価値を高めたいと考えています。
「地域に密着した新聞販売店創りは、街をつくること。そして未来を創ること」
KEYHOLEのチラシの言葉に、瀬谷さんの思いのすべてが込められています。