ポップアートに囲まれた空間に、買い取り品のバッグやシューズ、時計や服がずらりと並びます。コメ兵が2023年11月、東京・渋谷のスペイン坂下にオープンした旗艦店「KOMEHYO SHIBUYA」を訪ねると、国内外の若者が商品を手に取る姿が目立ちました。リユース店のイメージを覆し、ポップカルチャーの街に溶け込んでいます。
1階にはトレンドアイテムがそろい、2階は過去の名作アイテムなどが集結、3階はコラボ商品などを販売しています。4階には、コメ兵の強みの買い取りスペースをバーカウンター風にアレンジ。各階の表情が異なる仕掛けです。
「店舗開発に携わるメンバーには、『コメ兵のお客様はこういう方々』と決めつけず、既存店と同じような店にしないでほしいと伝えました。みんなが話し合った結果、グローバルなZ世代の心をつかみ、思わずSNSで発信して行きたくなるお店をつくりましょうとなったんです」と石原さんは振り返ります。
石原さんが小学生のころ、名古屋市の大須商店街に1店舗を構えていました。当時は周囲にリユース店がなく、その地位も今より低いもので、石原さんは家業に少しマイナスのイメージも持っていたそうです。
「みんな子どもなので、『売り物が壊れているんじゃないのか』、『偽物では?』とからかわれました。新品を扱っていればこんなこともないのにと…」
「コメ兵の息子」と言われて育った石原さん。中高でラグビーに夢中になり、東京の強豪大学への入学を目指すもかなわず、競技発祥の地・英国の大学に進もうとします。
留学費用を親に出してもらうのは抵抗があり、アルバイトを始めました。当時社長だった父秀郎さんからは「みんなが避けるほど厳しい仕事を選びなさい」と言われます。アルバイトとはいえ、簡単にお金を得てはいけないという父の思いがありました。石原さんは花き市場に入り、菊などが詰まった段ボールを運ぶ肉体労働をしました。
「午前5時から正午まで体育会系の学生に交じり、汗でドロドロになりながら働きました」。それ以外も英会話スクールで勉強したり、母校の中学校でラグビーを教えたり。親に極力頼らず留学準備を進めました。
ヨドバシカメラで修業
英国の大学で4年間学んだ後、ヨドバシカメラに就職します。販売員に専門知識がないと売れない仕事で勉強のしがいがあり、東京で働けるのも魅力でした。
家業に入ることを見据え「3年間限定で働きたい」と伝えていた石原さん。濃密な修業にしようと「みんなが逃げ出すところに入れてほしい」と希望します。
配属先は東京・新宿のカメラ売り場の販売員でした。「ものすごく忙しい場所で、1人で1日に10台、20台とカメラを売りました」
周りも石原さんがコメ兵の後継ぎであるのを前提に指導してくれました。「名古屋に帰ったら通用しない売り方をするな。ヨドバシの店員だからじゃなく、石原卓児を目がけて来てくれる接客をしなさい」と言われたそうです。
例えば、手ぶれを抑えるためにカメラを買いに来た高齢の来店客には、不要な機能がたくさん付いた最新機種ではなく、あえて三脚だけ勧める。そんな丁寧な接客を心がけました。
ヨドバシカメラの経験でリユース店の価値も発見しました。新品をメインに扱う企業とコメ兵では、同じ中古の品でも、新品を売る店の下取り価格よりコメ兵の買い取り価格の方が高かったからです。
「しかも新品をたくさん売らないと、リユース商品は出てきません。新品対中古という対立概念ではないと思ったのです。コメ兵が商品の循環者を増やせば、社会的価値の高い商売ができるはず。『新品がよくて中古は恥ずかしい』という意識が変わりました」
一般社員からのスタート
石原さんはヨドバシカメラに、1年8カ月で別れを告げます。1997年12月30日、父の秀郎さんががんで急逝したからです。
「手術前日までポリープの治療と聞いていたので驚きました。伯父(先代社長の石原司郎さん)には、私が入社した後のビジョンを伝えていたようですが、父から直接後継ぎに関する言葉を聞く機会はありませんでした」
コメ兵に入社後、石原さんはカメラ売り場担当の一般社員からスタートします。「父も伯父も、私に様々な売り場を経験させ、リユースの仕組みを覚えて社内人脈をつくり『社長の息子ではなく石原卓児として認められるように』と考えていたようです」
アパレルや時計売り場などでキャリアを積む間の2003年、コメ兵はジャスダックに上場し、本格的に首都圏へと進出します。石原さんも2005年に開店した東京・新宿店の店長を任されました。
現場の店長に権限委譲
しかし、2008年のリーマン・ショックで、コメ兵全体で322億円(2008年3月期)あった売り上げが289億円(2009年3月期)に減少し、2010年3月期も238億円に落ち込みました。「以前は東京で投資しても名古屋で稼げましたが、リーマンではすべて落ちたので、怖さがありました」
石原さんは当時の役員たちから立て直しを任され、2009年4月に名古屋本社に戻り、新設の営業企画部の部長に就任。6月に取締役となりました。
当時の名古屋本社では、ジュエリーや時計、バッグなど各商材ごとに担当部長がいて、それぞれ年何十億円の予算を持ち、広告宣伝や求人の権限を持っていました。一方、現場の店舗スタッフに強い裁量権はなく、イベントなども開きにくい状況でした。
営業企画部は社内横断的に店舗開発やマーケティング業務を担う部署です。部長の石原さんは、もっと現場の声を営業施策に生かせるよう、店長に権限を委譲させる組織改革の提案や実施へと動き出しました。
直属の部長のやり方に疑問を持っていても、部下は思いを伝えづらいもの。石原さんは他部署なので、社員も意見が言いやすいという立場を上手に利用したのです。
「私が同じ立場の部長に物を言う横軸を担うことで、現場の裁量権を増やし、お客様のニーズに合ったサービスを迅速に行う体制を整えました」
石原さんは全店舗を回ってさらなる課題解決に動き、営業本部長と名古屋の本店の店長を兼務してテコ入れも図ります。「当時、本店は伸び悩み、スタッフの雰囲気も『自分たちはこれくらい』と天井を勝手に決めているムードがありました」
新宿店時代に育てた若手を名古屋に呼び寄せて各フロアのまとめ役を任せ、東京で培った商品管理や在庫管理のノウハウなども伝えました。2008年から始めたポイントカードのデータも細かく分析し、セールだけでなく顧客ニーズにあったイベントなども開きました。
花道を作って社長就任
2012年2月には名古屋市に商品センターを新設し、検品や新品仕上げなどの工程を一元化。それまで名古屋と東京の店で実施していましたが、取引量の増加や新人育成の観点から一拠点化が望ましいと考え、周りの同意を得ました。
同年6月には、新会社のコメ兵オークションを設立します。それまで販売基準に満たない品は買い取り時に断るか、他社のオークションシステムを使っていましたが、手数料がかかっていたため、自社で立ち上げました。
「在庫商品を現金化できる出口をたくさん持っている点が、私たちの強みです。店舗の売り上げが上がらない時はオークションで現金化できます。オークションの粗利率は小売りの半分ほどになるため見極めは必要ですが、業績によって小売りとオークションの構成比を見直すことも可能です」
オークションに出入りする業者とのコミュニケーションを取り、海外の情報や相場の潮目もキャッチしています。
2013年6月、石原さんは4代目社長に就任。売上高は当時過去最高の343億円(2013年3月期)を記録していました。
「伯父は創業家の長男の私につなぐという思いが強く、『(石原さんが)40歳になったら社長を交代しよう』と言われていました。退任の花道を飾るためにも、過去最高の数字を作り、ありがとうございましたと言えるようにしようと決めていました」
爆買い終了で商品構成を見直し
2016年、訪日中国人による爆買いブームを追い風に、連結売上高は459億円(2016年3月期)に伸びました。しかし、同年9月の中間決算で赤字に転落します。理由は爆買いブームの終了でした。
「爆買いブームが去って残ったのは、訪日客向けの高額商品ばかり。日本人の常連さんがあまり興味を示さない売り場になっていました」
当時、訪日客がよく購入していたのは、金無垢でダイヤ入りの時計など派手な品が多かったといいます。よく売れる品を並べたため、結果的に日本人が好む通常の商品を置くスペースが狭くなっていたのです。
「商品構成を見直し、棚を開けるためオークションで商品を現金化する一方、常連さんや日本人の方々が好む品の買い取りを強化しました」
不採算店9店舗を閉じて、好立地に大型店を出店するなど、引き際を見定めつつ、攻めの姿勢も崩さない方針を進めました。
現在は円安などでインバウンド需要が高まっています。ただ、石原さんは爆買いブームの教訓から「いつ終わりが来ないとも限らない」と冷静です。
「インバウンド商品は銀座店に集中し、他店ではボリュームゾーンの商品を置こうと考えています。今はSNSで商品を見てから買いに来る外国の方も多く、国籍ごとの好みの違いも薄れています。人気商品をきちんと並べることが大切です」
フリマアプリとの向き合い方
社長就任後、メルカリやヤフーオークションに代表されるフリマアプリが広がり、消費者間で中古品を売り買いするCtoCが広がっています。それらとの差別化をどう考えているのでしょうか。
「一つは販売の出口のチャネルの多様さです。買い取りの金額を上げることができ、お客様の利用機会が増えます。売り場に商品が並ぶので、こういうものが売れるとお客様に気付いてもらえます」
「また、我々が扱う商品はCtoCでは扱いにくい高価格のものが多く、取引の不安を解消するには、我々のような法人が間に入るのが安心と言っていただく機会も増えるでしょう。低単価を売りにしたり、商品ジャンルを絞ったりしているリユース店の方が大変ではないでしょうか。リユース市場は3兆円とも言われます。CtoCとも協調して商品の循環者を増やし、社会を動かしたいです」
コメ兵も2017年にフリマアプリを立ち上げますが、流通量が増えずに撤退しました。「お金を大量投下する広告宣伝には着手できませんでした」
しかし、経験は別の形で生きています。楽天グループのフリマアプリ「楽天ラクマ」で取引のあった商品の鑑定サービス「ラクマ鑑定サービス」には、コメ兵が開発した「KOMEHYOカンテイ」を提供しています。「コメ兵だけではリーチできないお客様との接点も広げていけると思っています」
※後編は、コメ兵のユニークな人材育成や、海外展開、M&Aも含む成長戦略に迫ります。