商品開発、素材の仕入れから製造・封入・梱包・発送まで一貫して行い、通信販売にも対応しています。従業員は約100人(うち正社員20人)。販路は商社とスーパーマーケットが半々で、長く消費者に愛されています。
澤田食品のふりかけの特徴は、柔らかな食感にあります。サラサラした顆粒ふりかけと違い、しっとりしているのです。3代にわたるロングセラー「いか昆布」は、アカイカのスライスがソフトな状態のままで「生ふりかけ」と呼んでいます。
「創業者の祖父が編みだした独自製法をもとに、改良を加えながら製造を続けています。私も幼いころから食べていて『よそのふりかけとは違う』と感じていました」
澤田食品は1961年、澤田さんの祖父・正夫さんが海鮮の乾物商として神戸市の新開地で創業しました。その後、舞子漁港のそばに移転し、1980年代後半にふりかけ「いか昆布」を開発し、澤田食品の代名詞になります。
澤田さんは幼い頃から舞子の作業場で遊び、祖父もその姿をほほ笑ましく見守っていたのだとか。
「初孫だったこともあり、祖父からとてもかわいがられました。祖父が運転するハイエースの隣にちょこんと座り、神戸市中央卸売市場の仕入れについていったこともあります。ただ祖父は市場へ行くと、やさしいおじいちゃんから険しいザ・商売人の顔に変わる。値段の交渉をするすごみ、豪快さに圧倒されました」
ベトナムから即戦力で呼び戻され
澤田さんは10代で、思いがけず海外へ渡ることとなります。
「アルバイトと遊びに夢中で、大学へ全く行かなかったのが両親にバレました。『大学へ行かないのなら海外で社会勉強してこい』としかられ、中退してベトナムへ渡ったんです」
2代目の父・正博さんの紹介で、澤田さんはホーチミンの一般家庭に住みながら輸出入の仕事を手伝い、社長に同行して世界中を回りました。海外の仕事が面白く、このままベトナムでの就職を考えます。ところが……。
「21歳の時、父から『戻ってこい』と電話がかかり、心残りでしたが帰国して、2005年、澤田食品に入社しました」
このころ家業は大きな転換期でした。いか昆布をはじめとしたふりかけ事業が軌道に乗り、2002年、現在地に移り本社工場を拡大したのです。
そのタイミングで祖父は会長となり(着任後逝去)、父が2代目社長に。ベトナムで営業経験を積んだ澤田さんは、即戦力として必要とされたのです。
経営危機で立て直しを図る
営業担当として日々、全国のスーパーや市場、卸問屋を駆けまわる澤田さん。しかし、30歳目前のある日、父から「会社の経営が思わしくない」と告白されます。
「決算書を見て驚きました。当時の年商は約9億円でしたが、借り入れが倍の18億円もあったんです。正社員数は30人にまで増えていましたが、母体は家族なので経営が緩かったのです」
「採算の取れないカエルの養殖を始めたり、奔放な経営がたたったり、赤字の原因は一つでなく複雑です。私は父に『自分が何とかするから、役職に就いて陣頭指揮を執らせてほしい』と頼みました」
専務に昇格した澤田さんは、コンサルタントや税理士と事業計画の見直しをはかります。「泣く泣く10人をリストラした」ほどの大きな改革でした。
ふりかけグランプリで金賞
窮状にあえぐ澤田食品に2014年、一筋の光が差しこみます。それは会社に届いた1枚のファクスがきっかけでした。
「それまで会社の誰が何をしていて、どの部署にどんな連絡があったのかがわからず、混乱した状態でした。『どんな内容のメールでも私に転送して、ファクスも届いたらすべて見せてほしい』と従業員に指示したんです」
そんなファクスのなかに1枚、熊本県で開かれる全国規模のふりかけコンテスト「第1回全国ふりかけグランプリ」(国際ふりかけ協議会主催)の案内が紛れ込んでいました。
「当時はすがる思いで、やれることはすべてやりたかった」という澤田さん。人気商品「いか昆布」でエントリーし、金賞を射止めたのです。
「1回目ということもあって注目度が高く、人生で初めて囲み取材を受けました。帰りの新幹線でも反響の電話が鳴りっぱなし。翌日からたくさんテレビにも出ました。注文の電話も殺到し、売り上げは急上昇したんです」
新法人で再生の道へ
久々に明るい話題に沸いた澤田食品でしたが、それも一瞬の花火でした。コンテスト受賞も財務状況を好転させるまでには至らず、負債額が多くて倒産は不可避のところまで追いつめられたのです。
「私はコンテストに出場した2014年から、3年かけて自主再生の道を探り、全国に新しい得意先もできました。なのに倒産するなんて、お客様に申し訳ありません。兵庫県再生支援協議会からは『これから3年間、決算3期分の営業黒字を達成してください。そうすれば銀行と再生に向けて、前向きに協議していけます』と助言をいただき、そこを目標に頑張りました」
澤田さんは、ふりかけの味のブラッシュアップなどに努め、ふりかけグランプリへの応募も続けました。応募の際、社員の子どもたちがおいしそうに食べている写真を撮影し、パネルにして添えました。
いか昆布は連覇を達成。さらに「シャキット梅ちりめん」というふりかけでも日本一に選ばれました。負債の圧縮にはつながらなかったものの、熊本県で開かれたコンテストで九州勢を抑えて優勝したことで、澤田さんは周囲の信頼を得ました。
澤田さんは新たな法人格を立ち上げ、2017年、旧澤田食品は特別清算して2代目が退任。澤田さんをトップとした新生・澤田食品は、旧会社の負債を一部を弁済するかたちで再生への道を歩みました。
プレミアムふりかけがヒット
澤田さんが会社を率いることになってから、大手企業のプライベートブランドに1年かけて営業し、厳しい品質基準に合格して受注を獲得しました。その商品が好評で、全国200店舗にまで拡大しており、売り上げの支えになりました。
2022年には、自社商品で新たなヒット作「ゴロっと北海ホタテの焦がし醤油ふりかけ」が生まれます。希望小売価格648円(税込み)という高価格ながら、年間売り上げ3億円超の人気商品となりました。
「高価格帯のプレミアムふりかけを届けたい気持ちはずっとありましたが、テレビCMを打つほどの資本力はありません。だったら、大手がやらないニッチなすき間を攻めるしかありませんでした」
商品企画部と話し合い、素材に選んだのは高級食材のイメージが強いホタテでした。そこに炉端焼きのようなしょうゆの焦げる香りや味わいを加えようという案が生まれたのです。
しかし、ホタテを「生ふりかけ」にするアイデアは、簡単には実現しませんでした。干し貝柱だけではソフトな食感にはなりません。北海道産の干し貝柱と、主に青森産の水煮をバランスよくあわせ、ホタテのむちっとした食感がふりかけに再現されるまで、試行錯誤を繰り返しました。
試作品ができた後も、営業部から「こんなに高価なふりかけを売るのは無理がある」と不安の声が出始めました。
味には自信があった澤田さんは「こんなにおいしいんだから高くても絶対に売れるよ。わかってくれる人はきっといる」と営業担当を励ましました。「彼らは旧・澤田食品の営業部でともに闘った同志でしたから、熱意が伝わり奮起してくれたんです」
2022年4月から「ゴロっと北海ホタテの焦がし醤油ふりかけ」を発売し、同年度のふりかけグランプリで金賞を受賞。通算4回目の栄冠に輝きました。話題が高まり「飛ぶように売れた」といいます。
澤田食品の商品開発部はヒットの要因を「コロナ禍で宅食の習慣が根づき、家でリッチにおいしいものが食べたいというニーズが高まっていたのではないか」と分析しています。
13万6千フォロワー(2024年10月時点)を抱えるX(旧ツイッター)など、SNSでの発信力も見逃せません。
澤田さんは「センスのよさを感じさせた通販担当の社員を3年かけて説得し、SNSにも注力してもらったところ、高いコミュニケーション力とPR力を発揮してくれました」。
2024年5月にはプレミアムふりかけ第2弾として「フワっと国産紅ズワイの香ばし焼がに味ふりかけ」を発売。好スタートを切っています。
おむすび直営店をオープン
澤田食品は再スタートした2017年から、年に約1億円ずつ増収を続け、「ゴロっと北海ホタテの焦がし醤油ふりかけ」のヒットで年商16億円にまで売り上げを伸ばしました。
しかし、澤田さんは「このままでは不安」と危機感を募らせます。「若者の米離れが進んだら、ふりかけにも未来はありません。『ふりかけは、お米と一緒に食べるとおいしい』というメッセージを、もっと若い世代に伝えたいと常に考えています」
2024年2月には、兵庫県芦屋市に直営のおむすび専門店「おむすびころん。」をオープンしました。開業以来初の直営となる専門店はカフェ風にデザインし、おむすびのイートインもでき、おかずと温かい豚汁やかす汁を添えた定食を提供しています。
「ふりかけをメインの具材にしているおむすび専門店は、他にないと思います。生ふりかけは、ごはんにかけるだけではなく、おむすびの具材にしてもおいしいと伝えたかったんです」
「ごはんの友」のM&Aも計画
澤田さんが現在、計画しているのが「ごはんの友」に関連した企業のM&Aです。
「海苔屋さんや佃煮屋さんのように、味はいいのに高齢化や後継者不足で廃業する水産加工会社がたくさんあります。同じごはんの友をつくる仲間として胸を痛めていたんです。ごはんとともに副食を味わう食文化が廃れると、ふりかけも先細ります。手を取り合って、ごはんの友グループとしてやっていけないかと考えています」
様々な苦難を乗り越えてきた澤田食品。食卓のバイプレーヤーとしての存在感、味わいは増すばかりです。