小林さんは2017年、本社のすぐ近くに「鋳交(ちゅうこう)ファクトリー」と名づけた工場を竣工しました。マシニング(切削)の工程を担う工場で、協力工場から「マシンを導入すればノウハウも客も引き継ぐ」といわれ、踏み切りました。
一般にマシンと聞けば大量生産を想像しがちですが、その布石ではありません。あくまでハンド(手仕事)の代替としてのマシンであり、職人不足が深刻な業界にあって当然用意しておかなければならない駒でした。
東日本金属は曽祖父の小林剣二さんが新潟から上京し、1918(大正7)年に創業した鋳造メーカーです。窓やドアの取っ手などの建築金物で事業を軌道に乗せると、2代目の容三さんは高度経済成長の時代のヨットブームに目をつけ、船舶艤装金物をあらたなメニューに加えます。
まだまだ意気軒昂な同業者とは連携を図ります。町工場の窓口として受注する体制を整えた結果、多様化するニーズに柔軟に対応できるようになりました。協力工場は現在もおよそ30あります。
地盤を固めた東日本金属を飛躍させたのが、父で3代目の謙一さん。金物メーカーで修業を積んだ謙一さんは品質向上と取引先の拡大を推し進めます。
その成果が、歴史的建造物の改修工事でした。
歴史的建造物の依頼が続々
とっかかりは2001年に都立公園として開園した旧岩崎邸庭園でした。移転、改築するにあたり、窓のあおり止めの復元の依頼が来ました。一個からつくることのできる砂型鋳造という製法、そして仕上げまでを内製化した体制が認められ、白羽の矢が立ったのです。
それからほどなく、明治生命館の改修プロジェクトにも名を連ねます。昭和の建造物としてはじめて国の重要文化財に指定された丸の内のランドマークです。
背景には、謙一さんの修業先だった金物メーカーが倒産したことがありました。当時、そのメーカーはハイブランドストアを手がけていて、東日本金属は下請けとして現場に入っていました。明治生命館の仕事はその元請けとじかにやりとりするなかでオファーされたものでした。東日本金属は名門もエントリーしたコンペを勝ち抜きます。
受注したのは窓まわりの金具一切。その数、1千本にのぼりました。会社始まって以来のビッグプロジェクトです。東日本金属は家族総出でことにあたりました。
この成功はあらためて東日本金属の名を知らしめました。三菱1号館、東京国立博物表敬館、浅草寺……。評判が評判を呼んで、数々のプロジェクトに参画します。東京スカイツリーのエレベーターを飾る都鳥も手がけました。古き良き金物は東日本金属のひとつの顔になりました。
祖父母に導かれて家業に
「あなたが本当にやりたいことがあるなら応援する。そうじゃなければそろそろ家業入りを考えてもいいんじゃないか。おまえのひいじいちゃんが会社を興し、じぃじがいまのかたちをつくり、お父さんとおじさんがもり立ててきた。築き上げた信用、信頼をなくすのはもったいないと思わないかい」
小林さんは1階が作業場という昔ながらの環境で育ちました。いずれ継ぐものと思っていましたが、将来についてとくにいわれなかったのをいいことに高校を卒業すると心置きなく羽を伸ばします。仲間と一緒にピザ屋のバイトを始め、楽しく毎日を過ごしていた小林さんに声をかけたのは祖母でした。
継ぐ意味とはなんなのか。ぼんやりしていた思いがクリアになった瞬間だった――。祖母の言葉に目が開かれる思いだったといいます。
小林さんは2002年、父に頭を下げました。謙一さんは喜びを押し隠し、「一度は外に出たほうがいい」と受け入れ先の算段をはじめました。
そこに割って入ったのが祖父の容三さんでした。「後を継ぐつもりがあるなら鋳物をやってくれないか」
「鋳造から始まった工場ですが、そのころその部門の最若手は60代後半で、ほかは70代を超えていました。このままでは閉鎖されるのは時間の問題でした。『おれが手取り足取り教えて3年で一人前にしてやる』という祖父の申し出を受けることにしました。父も寝耳に水だったようで、驚いた顔をしていました」
祖父と交わし続けた日報
東日本金属が創業以来研ぎ澄ましてきた砂型鋳造は、文字どおり砂で造形した型(鋳型)に溶かした金属(溶湯)を流し込み(鋳込み)、冷却して固めたのち、砂型を崩して鋳物を取り出し(解枠)、仕上げていきます。
身近なところでいえば製氷機のようなカラクリですが、砂型鋳造は氷のように勝手につくられるわけではありません。そこには職人仕事の英知が詰まっています。
鋳型となる砂のコンディション、溶湯を流し込む速度やその温度……。あらゆる工程が気温や湿度、型の種類によって変わってくる繊細を極めたものです。家業入りしたばかりの小林さんは、容三さんのマンツーマンで仕事を一つひとつ、覚えていきました。
容三さんは技術の習得にあたり、すべての工程の数値化を命じました。
「かつては(欠陥の一種である)ピンホールが入っているのが当たり前。職人の勘とは品質がさほど求められない時代だから許された、ただの当てずっぽうに過ぎないというのが祖父の言い分でした。これからはそういうわけにはいかないと肌で感じていたようです」
それは事業の拡大も視野に入れたものでした。従来、不得手としていた防音スタジオやレントゲン室などで使われる、大きく緻密さが求められるハンドルの開拓に乗り出したのです。
小林さんは日報をつけるようになりました。その日の作業内容、砂の配分量などのデータを仕事終わりにまとめ、容三さんに提出します。翌朝には赤ペンが入っていました。
「構築したデータは生産体制に反映させなければなりません。これが胃に穴が開くほどつらかった。誇り高き職人は20代の若造のいうことなど聞いてくれませんから。職人がはじめて歩み寄ってくれた日のことは、いまもくっきりと覚えています。脱力するほどうれしかった」
小林さんは修業のかたわら、明治生命館のプロジェクトにも駆り出され、がむしゃらな日々を過ごしていました。そのがんばりは頑固な職人の意識をも変えさせるのに十分でした。
直談判して採用を担当
職人としてのキャリアを確実に重ねていく小林さんが経営者目線を意識するようになったのは、フロンティアすみだ塾への参加がきっかけでした。その塾は事業後継者のための区主導のビジネススクールで、小林さんはのちに会長も務めました。
日々成長を実感する毎日。職人仕事の面白さを目を輝かせて話す最年少の小林さんを同期は諫めました。「おまえはなんのために家業に入ったんだ。後継者になるためだろう」
「頭をガツンと殴られたようだった」と笑う小林さんが、手始めに取り組んだのが求人です。長らく採用をしていなかった東日本金属は、世代交代のタイミングに差し掛かっていました。
「これからうちに来てくれる社員とは自分がもっとも長い付き合いになる。だから、任せてほしい」と直談判しました。
さまざまな試すなか、たどり着いたのが2014年にローンチされた「すみだの仕事」。墨田区の求人に絞ったそのサイトの運営者に出会ったのはローンチの直前でした。
「(運営者は)オープンファクトリーのイベント『スミファ』に顔を出してくれました。聞けば単なる労働条件の羅列ではなく、会社のメリット、デメリット、そして思いをていねいに掘り下げるといいます」
「町工場はどんなことをしているのかなかなか伝わりづらく、ただ漫然と求人するだけでは人は集まらないし、集まったところで長続きはしません。マッチングの大切さを痛感していたわたしはこれは面白いと思いました。スマホ対応やSNSによる拡散など先進的な取り組みにも惹かれました。ぜひに、とお願いしました」
小林さんは同時にCI(コーポレート・アイデンティティ―)にも乗り出します。「すみだの仕事」の運営者にプロデュースしてもらうかたちで、ホームページやパンフレット、会社のロゴも制作しました。
シズル感のある画像、思いを直截に伝える文章で構成したホームページは好評を博しました。ロゴは鋳型に溶湯を流し込んでいる様子を表しています。
数年越しの活動が実り、現場は大幅に若返りました。現在産休をとっている採用1号の女性をはじめ、あらたに加わったのは6人、平均年齢は40代まで下がりました。
人材育成にあたっても小林さんは先頭に立ちました。
「昔ながらの職人は口が悪い。わたしはもっぱら緩衝材の役割を果たしています。また、仕事はあえてやりたいようにやらせて、失敗すればその原因を考えさせるようにしています。根気のいる作業ですが、驚くほど理解が深まる。祖父とのやりとりで学んだことです」
新工場効果で受注額も拡大
現場の若返りに切り込んだ小林さんが、返す刀で推し進めたのが鋳交ファクトリーでした。その果実ははやくもたわわに実っています。
「マシニングを内製化したことで、アイデアがその場で試せるようになりました。マシニングには仕掛かり品をマシンに固定する機材が必要になります。ひらめいたのは、この機材をあらかじめ鋳造でつくってしまえば前後の工程が省けるんじゃないかということ。わたしは固定する機能をもたせた仕掛かり品を設計、鋳造しました。もくろみどおり、工程は簡素化されました」
マシニングというあらたなメニューが加わった東日本金属は、取引先一社当たりの受注額も拡大。今期の売り上げは17人の陣容(経営陣を含む)で6億円を突破する勢いです。
ユニークなネーミングは社員公募で決めました。伝統の鋳造技術とマシンが交わる場であり、その交わりをきっかけに人も未来も交わることを願う場だから、鋳交、というわけです。
祖父の容三さんは社員を愛し、下請けの会社を「協力工場さん」とさん付けで呼びました。食卓では「彼らのおかげでお前らは何不自由なく暮らせるんだ」と職人の名前を一人ひとりあげたそうです。そんな容三さんの薫陶を受けた小林さんらしい、粋な計らいです。
粋な計らいといえば、東京スカイツリーの都鳥もそう。その制作にはすべての職人が関わるようにしました。「あれはおれがつくったんだ」と子どもに自慢できるように、という思いからです。
容三さんは鋳交ファクトリーの試運転の前日に亡くなりました。葬儀には弔問の客が長い列をつくり、いつまでも途切れることがなかったそうです。