伝統の「引き染め」を守り続ける
ふじや染工房は1952年、中村さんの祖父が創業しました。当初は帯専門でしたが、徐々に顧客を増やして工房の敷地を広げ、着物が染められる広さになりました。現在は中村さんの父で2代目の博幸さん(76)と母、長男の拓朗さん(20)の4人による家族経営です。
完全分業制が主流の着物づくりは、完成までに多くの工程があり、それぞれを異なる職人が担います。ふじや染工房は、白生地の反物を染料で着色する「染め」専門です。主に着物用の反物を扱い、受注数は年間500~600反になります。最終製品は一般向けの着物展示会で販売されることが多いそうです。
中村さんは「仕事の約8割は、江戸時代中期からの伝統工芸品『東京手描友禅』の着物作家さんからのオーダーです。反物を預かり、指示書通りの色に染め上げて色止めし、納品するまでが私たちの仕事です」といいます。
「引き染め」という伝統技法を使い、工房内に反物を張りめぐらせ、染料を含んだハケで1枚1枚色付けします。
「引き染めの特徴はクリアな発色です。常温の染料で染めるため、色のツヤと鮮やかさが保てます。白い反物をいちから染めるため、着物作家の要望に沿った色を再現できるのも、引き染めの良さです」
建設業の現場監督から家業へ
そんな中村さんも、かつては「家業に興味はなく継ぐ気もなかった」といいます。
「子どものころから家と工房が同じ建物で、30年ほど前までは職人さんと寝食をともにしていました。多くの人が出入りする環境が苦手で、鍵っ子になりたいと思っていました」
工房では顧客から預かった反物を染めて納品します。「大切な反物が汚れたら一大事なので、子どもは工房内立ち入り厳禁。染料やハケで遊ぶなど、もってのほかでした」
高校卒業後、福島県の大学に進学。土木工学を学び、現場監督になりました。「大学時代はのびのびと遊び、卒業後は道路や橋を作っていました」
それでも中村さんは2002年、家業に入ることを決めました。
「幼少期から出入り業者や職人に『いつか継ぐ』と言われ、家を出てからも出会う人に家業を説明するたび、同じことを言われ続けました。自分にしかできない仕事かも、と思うようになったのです。都内で染工房を開業しようと思っても、うちと同じ設備や広さを整えるのは難しい。恵まれた環境があるのに挑戦しないのはもったいないとも思いました」
18年間の下積みで「一人前」に
父に付いて仕事を覚えますが、預かり品の反物に触れることは許されませんでした。「道具の位置を整えたり、手入れをしたりするところからスタートしました。例えば、ハケの洗浄は染料の残りがないよう確認するところまでがセットです。引き染めの仕事を体系的に覚える必要がありました」
色作りや染め方などは、先代の手もとを見て質問を繰り返し、習得しました。「当時はまだ、同じ色で複数枚を染める仕事がありました。父が染めた1枚目を見本に、私が2枚目を染めるというチャレンジもできました」
中村さんが「ようやく一人前になれた」と実感したのは、家業に入って18年後だったといいます。「染めの正解は着物作家さんの頭のなかにしかありません。反物は預かり品で失敗できないため、不安と安堵の繰り返しでした」
称賛と現実とのギャップ
自信がついてきた2020年ごろ、中村さんは外部との交流がほぼないことに気づきました。「家と工房が同じ建物で、指示書はお客様(着物作家)から渡されるため、外出の機会もありませんでした」
空いた時間に着物作家が出展する着物展示会を訪れ、自身が染めた着物を身に付けた人に初めて出会います。「反物は染めて終わりでなく、着る人がいて初めて完成すると実感しました。一般の方に自身の作品を紹介する作家さんを見て、『私も作品を作りたい』と思ったんです」
着物の展示会や着物作家の個展に積極的に赴くようになると、新宿区共催のイベントで引き染めを披露する話が舞い込みました。
中村さんは「複雑な気持ちだった」といいます。
「引き染めのデモンストレーションをすると『伝統技術を現代に伝えてくれてありがとう』という言葉をかけていただきました。でも、染めの仕事は実入りがいいとはいえません。皆さんの称賛に見合った生活ができておらず、着物需要は下火で仕事も減っていました」
ニーズが普段着から晴れ着に
矢野経済研究所の調査によると、日本の呉服市場は2240億円(2023年)です。2019年まで右肩下がりで、コロナ禍の2020年で急落。その後は回復基調ですが、2023年時点でもコロナ前の水準には及びません。
中村さんによると、以前は呉服屋や問屋からの発注もありましたが、やがて個人の着物作家からの仕事のみになりました。複数枚を一度に染める依頼もほとんどありません。
「以前はアウトレット品にも普段着としてのニーズがあった」といいます。染めを失敗してにじんだり、色ムラができたりした反物でも、目立たないものなら、着物作家の常連客に普段着用として売れたそうです。
しかし、和装需要の落ち込みに伴い、着物は普段着から「晴れ着」にシフト。高級化も進み、着物レンタルサービスが主流になりました。手ごろな普段着が少なくなるにつれて、染めの仕事にも響きました。
「仕事はピーク時の約半分まで減りました。かつては親族外の職人もいましたが、いまは家族のみです。家業を残すには新規取引先を増やしたり、下請け価格を上げたりする必要がありました」
伝統工芸の支援プログラムに応募
中村さんは現状を打破するべく、2021年、東京都中小企業振興公社の「職人ステップアップ事業」(伝統工芸品産業経営課題解決支援事業)に応募します。経営課題の解決に寄与できる専門家が、最大10回まで無償で派遣される支援制度です。
「引き染めは着物の制作工程の一部であって、伝統工芸品目ではありません。でもあきらめたくなかったので、担当部署に手紙を書き、事業者に採用されました」
中村さんは派遣された経営コンサルタントと、事業の棚卸しに着手しました。
「最たる武器は、創業から積み重ねた引き染め技術だと気づきました。まずは技術力が伝わる自社製品やサービスを提供し、納得のいく価格で売ることで、徐々に下請け価格を上げられるのではという結論に至ったのです」
オーダーメイド着物を始めたが…
2022年から、個人客をターゲットに無地のオーダーメイド着物制作をはじめました。色々な模様(地紋)が入った白生地を選び、染める色を決め、仕立屋が着物や浴衣に仕立てます。中村さんは実作業だけでなく、工程全体を管理する総合プロデューサーの役割を務めました。
「パーソナルカラーの診断士を工房に呼び、一般の方がお持ちの帯や好きな色をヒアリングしながら染料を決めます。染め上げた反物は、他の工房の仕立職人が着物へと仕立てます。まさにゼロからの着物作りです」
SNS発信や着物展示会への出店も始めました。価格は色無地で17万6千円からですが、当初の売り上げは芳しくありませんでした。「着物の染めに特化した工房のため、着物業界ではネームバリューも販路も足りません。『ふじや染工房』というブランドを広げる必要がありました」
引き染めイベントで得た気づき
まずは地域での知名度を上げるべく、2023年に「親子de手ぬぐい染め体験」というイベントを始めました。
「工房は一見普通の建物なので、近所の方から見て何をしているのかわかりにくい場所でした。地域の子どもに引き染めの楽しさを知ってほしくて、実験的に企画しました」
すると初回からほぼ満員に。親子連れなど毎回10人前後が参加し、工房ににぎわいが生まれました。
中村さんはすぐに家族会議を開き、成功の要因を探りました。父や息子にも意見を聞き、明確なターゲティングに基づいたPRの重要性に気づいたのです。
イベントのターゲットは地域の親子です。地元の図書館や保育園、児童館に集中的にチラシを配りました。予約システムも20~40代の親世代が使い慣れたQRコードに一本化し、予約のハードルを下げました。
「オーダーメイド着物制作は自由度が高いサービスです。あえてターゲットを広く設定していましたが、顧客像はコアであるほど、PRが刺さりやすいとわかりました」
「親子de手ぬぐい染め体験」は2024年もゴールデンウィークと夏休みに開催。各回満員となりました。「これを機に毎週家族会議を開き、お互いの気づきをシェアしています」
引き染めスカーフをパリに出展
2023年には、同公社の「東京手仕事」にも採択されました。自社製品の研究開発と普及に向けて、市場調査やテストマーケティング、海外展示会出展のサポートを受ける2カ年プロジェクトです。
「東京手仕事」を通じて中村さんが生み出したのが、東京引き染めスカーフ「Jantle」(税込み1万9800円)です。初の自社製品として、2024年5月に発売しました。
「伝統工芸や和小物という枠に縛られず、引き染めの魅力を伝えるならスカーフがベストだと思いました。引き染め特有のツヤや深み、派手な色との相性の良さを表現し、スマートな1枚に仕上がりました」
発売から半年が経過し、売り上げは「全体の2割ほど」といいますが、本業である着物の引き染めへの波及効果がありました。「これまでは着物作家さんとしか取引がありませんでしたが、企業から引き染めを用いた商品開発などを相談されるようになりました」
メディアからの問い合わせも相次ぎ、テレビ局の取材が3件決まりました。
2024年9月には「東京手仕事」の一環で、パリの展示会「Maison et Objet」(メゾン・エ・オブジェ)に出展しました。「鮮やかな『Jantle』に注目が集まり、他の商談も動き出しています」
20歳の4代目と切り開く未来
2024年は他にも大きな変化がありました。4月に長男の拓朗さんが4代目として正式に家業に入ったのです。
20歳の拓朗さんは「高校卒業まで工房の中に入ったことがなく、家業について具体的には知りませんでした」といいます。中村さんの誘いで展示会や着物作家の商談に同席。「その道のプロの方の話を聞き、『この仕事、面白いな』と思いました」
中村さんも拓朗さんを頼りにしています。「私のキャリアはほぼ職人一筋。恥ずかしながら、ビジネスメールの書き方やパソコン操作、SNSは息子に教わりました」
中村さんは「これからも挑戦し続けたい」と決意を固めます。
「オーダーメイドサービスや自社製品は、技術的価値を正しく伝え、下請け価格を上げる第一段階です。ゆくゆくは息子が『染めの仕事は将来性があって魅力的』と胸を張れるよう、今できることに取り組みます」