目次

  1. 「儲かっているように見えた」と家業へ
  2. 「経営を代わってくれ」と父に
  3. 職人不足で外注依存に課題感
  4. 自由に製作できる職場環境を
  5. 下請けからの脱却を図る
  6. 中川政七商店のコンサルで新商品
  7. 海外展開や実店舗にも挑戦

 「八女提灯」は、お盆の時期に仏壇や玄関に飾る提灯として広く知られています。灯りを囲むように袋状になった「火袋」(ひぶくろ)と呼ばれる部分に、細い竹ひご(近年はワイヤーも使用)と薄い和紙を使い、花や風景などの彩色画が描かれているのが特徴です。八女は古来から和紙の生産地で、竹林も多かったことから、江戸時代後期から提灯づくりが盛んでした。

シラキ工芸が製作した八女提灯
シラキ工芸が製作した八女提灯

 入江さんの父・哲也さんはかつて、本業の農業のかたわら提灯メーカーの火袋づくりの下請けを内職で行っていました。そこから独立し、1980年にシラキ工芸を創業します。創業の地となった八女市立花町白木の地名にあやかった屋号です。

 当時は「火袋をつくればすぐ売れる時代」(入江さん)。哲也さんが夜遅くまで一生懸命働いていたことを入江さんはよく覚えているそうです。そして「いつか自分が継ぐことになるんだろうな」とぼんやり思っていました。ただ哲也さんから後継ぎについて話題にされたことはなく、高校を卒業すると、福岡市内の雑貨店に就職しました。

 20歳の時に結婚して長女が生まれると、もっと稼ぎたいと思うようになり、哲也さんに頼んで家業入りします。理由は「よく売れてシラキ工芸が儲かっているように見えた」(入江さん)から。入江さんの妻も加わり、一家3人の体制となりました。

シラキ工芸の本社
シラキ工芸の本社

 21歳で次女も生まれ、入江さんは家計を支えるために一生懸命働きました。ただ、当時は火袋の絵付けや漆塗りなどの工程の大半を下請けの職人に依頼する分業制。外注費がかさみ、入江さん夫婦が受け取っていた給料は多くありませんでした。

 また洋室がメインの家が増えて、仏壇を置ける空間が一般家庭になくなってきたため、提灯の市場も少しずつ縮小していたといいます。周囲でも廃業する業者が出始めていました。

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