目次

  1. 自社蔵での酒造りを休止
  2. 酒販店を地酒専門店に
  3. 産学連携を機に始まった都市型の酒蔵作り
  4. 悲願の酒蔵復活
  5. 新品種の米で持続可能な酒造りへ
  6. 酒造りをコミュニティーの中心に

 野口さんが子どもの頃は、酒蔵が自宅に併設していたため、家業はとても身近な存在でした。

 「酒造りの職人である杜氏や蔵人によく遊んでもらっていて、酒蔵は生活の一部でした。両親からは後を継ぐことに関して言われたことは一切ありませんでしたが、周りからは『いずれ社長になるんだから』と言われていたので、いつか継ぐんだろうなと思っていました」

昭和の頃の野口酒造店の酒蔵

 しかし1985年、野口さんが15歳の頃に、先代の父が自社蔵での酒造りを辞める決断をしました。酒蔵周辺が整備されたことで、木造の酒蔵は粉塵などの影響を受けるようになり、思うような酒造りが難しくなったことが理由でした。

 1986年には長野県の縁戚にあたる酒蔵などへの委託醸造に切り替え、野口酒造店で瓶詰した酒を販売するようになりました。土地の一部は貸し出すなどをして、酒蔵は貯蔵・瓶詰めのみとなり縮小しました。

 「父も『酒がまずくなった』などと言われて悔しい思いをしていたのだと思います。ただ、うちは御神酒の製造があったので、意地で続けていた部分もあったのでしょう。委託醸造の酒も、府中市内の数店舗のみですが販売を続けました」

昭和の頃の酒蔵の内部。周辺の整備の影響を受け、酒造りが難しくなっていきます

 野口家は従業員13人の酒販店・中久本店も経営していて、野口酒造店の赤字分の売り上げをカバーしていました。そのため、野口さんは酒の流通について勉強しようと、大学卒業後、大手飲料メーカーの営業職に就きました。

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