売り上げを5倍にしたホッピー3代目に聞く「コロナ時代の飲食業とは?」
70年以上にわたり大衆酒場で愛されているホッピー。製造会社ホッピービバレッジ社長の石渡美奈さん(52)は、創業者石渡秀氏の孫で3代目の経営者です。「ホッピーミーナ」として自ら広告塔になり、売り上げを5倍に伸ばしました。波瀾万丈のキャリアから、ホッピーへの思い、後継ぎとしての心構えまで、「ツギノジダイ」開催のオンライントークイベントで語りました。(聞き手・杉本崇)
70年以上にわたり大衆酒場で愛されているホッピー。製造会社ホッピービバレッジ社長の石渡美奈さん(52)は、創業者石渡秀氏の孫で3代目の経営者です。「ホッピーミーナ」として自ら広告塔になり、売り上げを5倍に伸ばしました。波瀾万丈のキャリアから、ホッピーへの思い、後継ぎとしての心構えまで、「ツギノジダイ」開催のオンライントークイベントで語りました。(聞き手・杉本崇)
本社は東京都港区。1905年、餅菓子を納める「石渡五郎吉商店」として創業。戦後間もない1948年、コクカ飲料として、ホッピーの製造販売を始めました。居酒屋を中心にロングセラー商品となり、1970年には東京都調布市に工場を新設しました。1995年に現社名となり、2010年に石渡美奈さんが社長に就任。積み重ねてきた商品力を生かしながら、積極的なブランディングなどで売り上げを急成長させました。
――まずは、会社を継ぐことになった経緯を教えて下さい。
私は一人っ子で、物心ついた時には、自分は後継ぎという意識がありました。でも、当時は女性が第一線で働くという社会環境ではありません。具体的に自分が後を継ぐイメージがわきませんでした。「将来何になるの?」という質問が一番苦手でしたね。「学校の先生」などと言っていましたが、本当の気持ちではないという思いがありました。
当時はお婿さんを探して後継ぎになってもらえばいいと思っていました。20代で、ある男性と結婚したのですが、私のことを大切にしていただいて、将来は社長を継ぐとも言って下さいました。でも、大変申し訳ないことに、私がその男性を思うよりも、会社の後継ぎとして見てしまう意識が先に来てしまい、破局してしまいました。20代半ばで自分探しの人生が始まり、広告会社に入社しました。今思うと、あの頃が一番きつかったです。大きな森の中に1人置き去りにされ、出口がわからない感じでした。
ーーそこから、どうして家業に入ることになったのでしょうか。
1995年に(先代社長の)父・光一が地ビールの製造販売をスタートし、初めてリアルに家業へ興味を持ちました。私は広告会社で仕事が好きな自分に気づきました。一生働くなら、父の会社に入社するのが一番早いと思って、父に「入れてほしい」と頼みました。真っ先に喜んでくれるかと思ったら、反対されました。
そこで、1年間かけて父を説得しました。まず、広告会社の仕事をあまり好んでいなかった父を安心させようと、東京ガスに転職しました。父の話を聞きたくて、忠犬ハチ公のように毎晩、帰ってくるのを待って、ごはんを一緒に食べました。その日、会社で起こったことを聞き出しました。知りもしないのに生意気なことを言ってしまい、大げんかすることもありましたが。
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説得に費やした1年という時間が、結果としてすごくよかったと思います。「本当に後継ぎになりたいのか」を自分自身に問いかけていました。何があっても逃げないという気持ちになり、1997年に29歳でホッピービバレッジに入社しました。
――ホッピーは発売開始以来、長年にわたって愛されています。そのブランドイメージのどこを守り、どこを変えようとしましたか。
私が入社した1997年は、女性が消費の主役になると言われていた頃です。インタビュー調査で「ホッピーはださくて嫌だ」というお客様の声を聞いたので、まず否定から入ってしまいました。
広告会社時代の仲間に協力してもらい、あらかじめホッピーをアルコールで割って、ラベルもおしゃれにした「ホッピーハイ」を売り出しました。ところが、これまでのファンからは「これはホッピーの名をかぶった偽物に違いない」と受け止められました。南極から北極に変わるような大変化では、消費者がついてこられないのかもしれないという大きな気づきをいただきました。
その時、父が営業として第一線で活躍していた時代の資料をもらいました。その中にヒントがたくさんありました。ホッピーのデザインに少し手を入れ、例えば、文字を縦から横に変えるとか、同じ赤色でも、今どきの色合いにするとか。少し手を入れるだけで、大きく変わることが分かりました。
72年の歴史があるホッピーは、知名度が高い一方で、大衆酒というイメージも根強く、なかなか新しい市場が開拓できませんでした。先入観のないところでホッピーを育てて日本に逆輸入しようと、ニューヨークで広める取り組みも始めました。
ーーホッピーは多くのファンから愛されてきました。従業員の皆さんには、その重みをどうやって伝えていますか。
創業者の祖父が大切にしてきた、ものづくりに込めた想いや理念は絶対に変えないことが大切だと思っています。私たちはいい意味で、先々代、先代が作り上げた遺産を受け継いでいます。ただ、そこにあぐらをかいてはいけません。ホッピーの商品力、そしてホッピーを愛して下さるお客様の愛情のおかげで、マーケットが広がっています。
――事業承継をする上で、後継ぎから見て大事なポイントは何でしょうか。
覚悟と信念、そして情熱だと考えます。現在、正社員が25人ですが、家族まで含めれば、約100人分の人生が自分の肩に乗るわけです。社員の失敗で会社はつぶれないけど、社長が意思決定を間違えたら転んでしまいます。
会社に何かあったら、社員やその家族はもちろん、ホッピーを看板にして生計を立てている居酒屋の皆さんの人生も変えてしまう。星の数ほどの人生がかかっていると思うと、責任は大きいですよね。
――参加者の方から「経営者になると孤独を感じることはありますか。どうしたら強くなれますか」という質問もありました。
今、代表権があるのは私一人なので、確かに孤独です。でも、それが当たり前だと思うので、孤独と感じたことがありません。社員、経営者仲間、多くの社外ブレーン、友人に支えてもらっています。それでも、決めるときは1人で集中しないといけません。静かに自分と内省して考える時間が、私にはとても大切です。
――経営の相談相手はお父さんだったのですか、それとも自分1人で決定していたのですか。
2010年に3代目社長となりましたが、社長として独り立ちできるまで、少なくとも10年はかかると考えました。父からは「お前の邪魔になるなら引退する。僕の立場はいかようにでもしてくれ」と言われましたが、10年は代表権を一緒に持ってほしいと頼み、複数代表制で一緒に走ってきました。
反対されるのが嫌で、相談はほとんどしませんでしたが、父と食事しながら仕事の話をする時間が大好きでした。私はスーパーファザコン。そうじゃなければ、継ごうとは思わなかったのではないでしょうか。父は昨年亡くなりました。寂しいですが、今も仕事を通じて毎日端々に父のことを感じることができる。それがファミリー企業の幸せなところだと思っています。
――石渡さんは「ホッピーミーナ」と名乗り、積極的にメディアに出るなど、ご自身がブランドイメージになっています。その際に意識したこと、注意したことはありますか。
子どもの頃から、母親に態度や言葉遣いなどを厳しくしつけられたのが大きかったと思います。今はSNSの時代で、どこで態度を見られているか分からないし、切り取られた情報が流れてしまいます。もし、間違ったことをしても、すぐ謝る素直な姿勢が大切だとも考えています。
広告塔である私に何かミスがあると、社員やホッピーを扱っているお客様すべてに迷惑をかけるので、そこは意識して先頭に立って心を磨き続けています。
――仕事と両立して、早稲田大学と慶応大学の大学院で学ばれています。その経験は、実業にどのように生きていますか。
授業を聞いていて、ふとした教えがぱっと自分の課題と結びつくことがありました。また、学校では単なる学生です。社長をやっていると怒られることはめったにないけど、研究発表の場では、だめなものはだめだし、たじたじなわけですよ。私が怒られる場は、すごくありがたいですね。知的刺激が好きなので、色々な方の話を聞いたり、本を読んだりすることで、経営とは違った脳みそを使っています。
ーー新型コロナウイルスの感染拡大による影響はありましたか。
影響は大きいです。初めてのことですし、本当のことを言うと、どんな手を打てばいいのか、どうやってお役に立てるかは分かりません。社員は社員、私は私、それぞれの立場から、何が求められているか、飲食店の皆様と対話を繰り返しています。
――コロナ時代における「飲食」のあり方は変わっていくのでしょうか。
終戦直後に発売されたホッピーは、敗戦国の日本の復興に関わった人たちの心を支えたのが始まりでした。今、コロナの影響で、会いたい人に会えず、行きたいところにも行けない状況になりました。その中で、ホッピーが再び人と人とをつなぐ役割を果たすことができると思っています。
皆さんが元気になれる色々なプロジェクトを考えています。オンライン飲みという新しい飲み方も定着しつつあります。これまでの飲み会に加えて新たな選択肢が増えたととらえており、千載一遇のチャンスという側面もあると思っています。
ーー経営者としての意思決定で、一番重視していることは何でしょうか。
やってはいけないというラインをいくつか持っています。銀行がノーと言ったら、設備投資は行いません。それ以外の部分では、自分の心にうそをつかないということですね。自分が気が乗らないと思えば、いくらいい話でも、判断しません。
昨年、ニューヨークに拠点を作ろうと物件を探していましたが、いい条件を提示されても何となく気が進まなかったところに、新型コロナウイルスが広がりました。もしあの時、契約していれば、拠点を開設できないまま、毎月固定費が出ていく状況が続いていたでしょう。無理してイエスと言わなくてよかったと感じています。
自信を持って決めたことがうまくいかなければ、素直に謝れますが、後ろめたい気持ちのまま進むと、失敗したときにごめんなさいと言いにくくなります。努めて王道を歩けるよう、自分自身を磨き続けたいと考えています。
――同じ後継ぎの人たちへのメッセージをお願いします。
私が最初に経営の指南を受けた、経営コンサルタントの小山昇さんに「大企業とホッピー。規模は違うけど、どちらも社長は1人しかいない」と言われました。事業承継者という立場で生まれる人は、ある意味で選ばれています。だからプラチナチケットをつかんだと思って、人生を謳歌してもらいたいです。後継ぎは、なりたくてなれるものではありませんから。
経営の責任は重いし、想像のつかないことだらけですが、会社を司るのは醍醐味があります。事業を通じて、祖父や父とずっとつながり、それを次の世代につなげる喜びもあります。先に歩いている者として、後を継いだらすごくお得な人生になるよと伝えたいです。
――後を継ぐかどうか、迷っている人は多いと思います。先行き不透明な状況を楽しむことが大切なのでしょうか。
新型コロナみたいなことが起こるので、不透明な状況が不安なのはよく分かります。でも、せっかく生きているのだから、楽しまなければ損じゃないですか。
皆さんに「ホッピーでハッピー」と言っているのに、社長が苦虫をかみつぶしたような顔をしていたら、ホッピーがまずくなりそうで、お客さんにも申し訳ありません。昨年度からは、社員の心身における健康のため、会社に「健康経営」を採り入れました。社員がこの会社にいて良かったと思えるように、経営していきたいと思っています。
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