「人事制度改革は最低10年」聖護院八ッ橋総本店の後継ぎが時間をかける理由
1689年(元禄2年)から八ッ橋を作り続け、京都のお土産の代表格となった聖護院八ッ橋総本店(京都市)。後継ぎの専務・鈴鹿可奈子さんは、米国で学んだ経験をいかして、家業の人事制度を改革していきました。老舗ならではの改革の難しさをどう乗り越えていったのでしょうか?
1689年(元禄2年)から八ッ橋を作り続け、京都のお土産の代表格となった聖護院八ッ橋総本店(京都市)。後継ぎの専務・鈴鹿可奈子さんは、米国で学んだ経験をいかして、家業の人事制度を改革していきました。老舗ならではの改革の難しさをどう乗り越えていったのでしょうか?
――小さな頃は、家業にどんなイメージを持っていたんですか?
当たり前のように生活の中に家業がありました。今ほど衛生面も厳しくなかったですから、遊びにいってお菓子をつまませてもらっていました。
当時、父がかなり忙しかったので、朝だけが一緒にいられる時間でした。一緒にご飯を食べて、当時は朝礼が7時20分だったので、それに一緒に出て、学校まで送ってくれました。そのついでにお菓子をもらったりして(笑)
また、弊社は新年会など社員全員での行事が年5回ほどあります。日帰りの行事には、小学校に入る前から参加していました。
――当たり前のようにお菓子があって、家業があって、という存在だったんですね。
私は兄弟がおりませんでしたので、みんなが自然と後継ぎのように扱ってくれて、意識することもなく、会社の中に入っていったのかなと思います。将来、私は八ッ橋の仕事をするんだろうと思っていました。
はっきりと父に「八ッ橋をやりたい」と口にしたのは、小学校高学年の頃。受験をする子は「お医者さんになる」とか、周りの友人たちも進路のことを考え始めていて、私は「父の仕事を継ぐんだ」という自覚をしたという感じでした。
――お父様はなんておっしゃっていたんですか?
「無理やりやらなくていいよ。それだけが道とは思わなくていいよ」と言ってくれました。でも後から母に聞くと、父は大変喜んでいたようです。
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――京大在学中にアメリカへ留学し、2004年、米カリフォルニア大学サンディエゴ校でpre-MBA(英語での議論の仕方や課題の取り組み方などを学ぶ、MBA〔経営学修士〕の準備プログラム)を受講されます。
留学中に学んだpre-MBAでは、将来社長になる方、起業する方、社会人のクラスメートがほとんどでした。国籍も業種もランダムで、新鮮な話ばかりを聞いて、視野が広がりました。
――大学卒業後に、まず家業の外、信用調査会社で働いたのはなぜだったのでしょうか?
社会人としての基本的なことを学ぶ機会を家業の外で作った方がいいという父の意向でした。社員の皆さんは当時、私のことを「かなちゃん」と呼んでいたので、甘やかされてしまうんじゃないかという危惧もあったようです。
総務部に配属されて、郵便物を他部署に配りにいくことから始まりました。
はじめは「雑用だな~」と思うこともありました。そういう気持ちを感じたのか、上司がよくお昼に連れていってくださって、会社の中で総務という基盤がどのぐらい必要なのかを話して下さいました。
また、関西支社への就職で、採用関係のことは先輩と二人でやらせて頂きました。
自社に戻ってきて今思うのは、うちの会社ではこの採用の仕組みがちゃんとしていませんでした。面接をした方から話を聞く機会があってためになりました。
――家業に戻ったきっかけはあったのでしょうか。
その会社に3~4年いるつもりだったんですが、その前の年に祖母が亡くなり、「親族の役員を」という話が出て、家に戻ることになりました。
――入社して半年間は工場での研修、その後は新設の経営企画室長となり、人事制度の改革に着手したとうかがいました。
もともと会社の規模が小さかったので、評価にもやや主観が入っていました。みんなをすべて見られている昔はそれでよかったのですが、今は200人近くになってきました。
私が感じたのは、声の大きい人だけ意見が通りやすいのかな、ということでした。
おそらく50人ぐらいまでだったら声の小さい人のことも見えたと思いますが、それを超えてくると、皆さんの本当の姿が見えなくなります。
「人と人とを大事にする」を掲げる父は、社員の家族構成まで今でも把握しています。ですが、それだけでは実際の仕事能力は見えてこないところもあります。そうなると、頑張っているけれど、主張が強くない方のモチベーションが保てないと思ったんです。
――そこで留学の際に学んだことが生かされたんですね。
留学中に(多面的にその人を評価する)360度評価といった人事制度を習ってきました。また、前の会社では総務で人事や採用のことがよく見えましたし、私自身も点数で評価をされ、面談で「ここがいいよ」「悪いよ」と言われたのがすごく分かりやすかったんですね。
「なぜか分からないけれど評価が下がっている」ということがないように、もっと社員に分かりやすい評価へ変えようと思いました。
――この人事制度改革はどれぐらいかけて変えていったんですか?
最低10年はかかっていますね。まずは皆さんの意識の面から、ゆっくりゆっくり変えていきました。
数字の導入をすると、部署によって甘い人と厳しい人がいて、すりあわせが必要になります。その基準に慣れてもらいました。
昔からある企業の悩みとして、どこでもあるのではないかと思うのですが、長年勤めた人は役職のない平社員でも、役職のある若い人より給料が高いといったことが起きていたんですね。
ですが、社員の方はそれでローンを組むこともあるので、「じゃあお給料を下げましょう」ということはしませんでした。今の給与は、これまでのその人の評価なんだから、と。
2~3年前から、調整せずに、新しい評価基準で、きちんと数字で表せるようになってきました。
ただ、私がまだ道半ばだと思っているのは、部下から上司への評価です。これも私たちが把握しておかなければならないな、ということです。部長たちからも「評価してもらった方がいい」と言ってもらっているので、今後そうなっていくと思います。
評価の仕方も時代によっても変わるので、評価項目もその都度、変えていくことになると思います。流動的なものかなとある意味割り切って取り組んでいます。
――人事制度改革はお父さまから反対されませんでしたか?
社長も「このままではいけない」という思いを抱いていたようで、反対されませんでした。ただ「急な変化はしないでほしい」とだけは言われました。
おかしいと思っても、給料を下げないことと、「数字だけで見ずに、ちゃんとその人の人となり、家族構成、事情を知ってあげて」ということは言われました。
――人となりと、社員のことを見てあげようという思いが強かったのですね。
子どもの頃から社員の皆さんと付き合いがあったので、「もちろんそれはそうだな」と私も思えたことはありますね。
数字でバシッと評価することは、数式ができてしまえば割り切れます。でも、「今までの評価をなかったことにしましょう」というのは違うと思いました。
弊社の社風なのかもしれませんが、評価する側も、数字で能力を見る部分と、人となりで見る部分で分けているんですね。結構あたたかいこと書いてくださっていることが多いんです。そんな社風の中で私もそう感じているのかもしれないです。
――今は専務取締役として、人事や企画、営業など、会社全体の統括をされているとうかがっています。家族として、仕事の上司として、お父さんとの関係はいかがですか?
そこは一番最初に難しかったところですね。
ずっと実家に住んでましたので、社長として・父としてと向き合うのは、お互いにどうしたらいいのかなというのもありました。まず最初に、「会社では社長って呼びなさい。あなたのことは経営企画室長だから『室長』って呼ぶから」と話がありました。呼び方でけじめをつけようとしたんですね。
そうは言っても、家に一緒に住んでいると、帰ってからも仕事の話が出てきます。そこでちょっと険悪になることもありますし、関係性は難しくはありました。
逆に、親子だからこそ、言いたいことも言える関係でもあるのかなと思います。社員が「社長にそんなこと言えない」と悩むことでも、私なら意見できることもあります。社員の声を拾って「こういう声が出てるよ」とぶつけられるのも親子ならではかな、と思っています。
鈴鹿さんインタビュー後編【聖護院八ッ橋総本店の後継ぎ「老舗の歴史が重いのでは?と聞かれますが…」】
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