しょうゆづくりは身近ではなかった

――日本丸天醤油は、全国に約1300社あるしょうゆメーカーでも老舗の部類に入ります。いつごろから家業の「後継ぎ」を意識しましたか。

 大学3回生で、就職活動を始める前です。子どものころは祖父が社長で、父は大阪の営業所に勤務しており、兵庫県西宮市に住んでいました。家業のことはよく知らず、正月に祖父母の家に行くとき「おじいちゃんはしょうゆをつくっている」と感じる程度でした。

 父は、初めから私が継ぐと思っていたようですが、私は若いうちは外でチャレンジしたかったので断りました。半ば母に説得され、「いつかは継ぐことを考える」と言って、就職活動を始めました。子どものころから庭に畑をつくって野菜を育てるなど、「ものづくり」が好きだったので製造業に絞り、2004年、キヤノンに入社しました。

かつての日本丸天醤油の工場(時代不詳)(同社提供)

キヤノンで教わったこと

――入社後は、人事部門に配属されたそうですね。

 開発・製造拠点の人事部門に配属されました。基本的に、人事は社内の風当たりが強いところです。同期からは給与や評価内容を知っていると思われるし、給与体系や福利厚生の見直しなどで、会社と従業員双方の矢面に立つこともあります。しんどいこともありますが、「嫌われるところまでが仕事」と割り切れる私には、適性があったと思います。

 社内のあらゆる人たちと関われるし、きちんと仕事をしていれば、いざという時に頼ってもらえ、「人の役に立っている」という実感もあります。気骨のある上司や先輩にも恵まれ、多くのことを教えてもらいました。

 ただ、後輩を育てられなかったという苦い経験もあります。当時の私は、自分が心がけていた「できるだけ現場に足を運んでコミュニケーションをとる」、「ルールを盾に仕事を進めるだけでなく、問題の本質を解決できるように考えて行動する」といったことを人にも求め、「なぜできないのか」と問い詰めていました。

 間に入った上司は後輩に、同じことを何度も指導していました。私が2009年に退職した時、その上司から「教育はがまんだ」という言葉をいただきました。これが、後の経営に生きることになります。

入社直後に父が亡くなる

――家業の後継ぎを見据えつつ、お世話になった上司の定年を見送ってから、キヤノンを退職。2009年4月に日本丸天醤油に入社しましたが、「実際に継ぐのはまだ先だ」と思っていたそうですね。

 父はその10年前からリンパ節腫を発症していて、抗がん剤治療をしていました。しかし、父は病状の深刻さを自分ひとりで抱え、家族にも会社にも共有していませんでした。

揖保川沿いにある日本丸天醤油の本社

 入社直後に父の容体が急変し、8月に亡くなりました。当時私はまだ29歳。「後継ぎ」を真剣に考える必要に迫られましたが、会社も承継の準備ができておらず、いろいろな経営判断が先送りされていました。混乱を収めることが最優先。役員の叔父が「しばらくの間なら」と社長を引き受けてくれました。

「NO」と言ってくれる仲間

――2014年に神戸大学で経営学修士(MBA)を取得しました。進学したきっかけは。

 入社して2年ほどで「このままでは自分の成長が止まる」と不安になりました。後継ぎになることを見据えて2010年に取締役に就任し、会社の事業を勉強中だったものの、いわゆる現場での担当がありませんでした。友人に相談すると「MBAに行ってみたら」とアドバイスされ、2013年に神戸大大学院の門をたたきました。

 神戸大のMBAはスパルタでした。研究したマーケティングをはじめ、あらゆる分野で膨大な量の課題が出ます。文献を読みながら寝落ちすることもしばしばでした。理論と具体的な事例の両方を重視する教授陣が多く、「論理的に考える力」と、わからないことがあった時に答えを見つける「引き出しを探す力」が身につきました。

 ハードな学びを通して、異業種で幅広い年代の仲間ができました。仕事の話でも遠慮なく「それは違うのでは」と指摘してくれます。後継ぎの私に、社内でNOと言ってくれる人は減る一方という危機感を持っていたので、とても大切な人たちです。中小企業の後継ぎこそMBAで力をつけ、仲間を作るべきだと思います。

「多品種少量生産」にかじ

――2015年に社長に就任し、「しょうゆを優先させなくていい」と宣言したそうですね。

 就任まで考え抜き、経営方針を大きく変えました。歴代の社長は戦略が乏しく、経営が出たとこ勝負で、行き当たりばったりだと感じていました。商品がしょうゆしかないと、「どこで売るか」「いくらで売るか」という話にしかなりません。伝統があって味がよくても、お客様に認めてもらえなければ単なる自己満足です。「伝統=価値」という発想を捨てないと、生き残れないと思いました。

 人口減少社会が予想されるなか、しょうゆのマーケットは下降傾向で、製造量とコスト面では、大手にかないません。お客様の好みも、どんどん多様化しています。大手が手を出しにくい領域で、中小の競合他社からまねされないビジネスモデルを作ればいい。

 祖父と父が新しいもの好きで、当時からしょうゆ以外の商品に少しずつ手を出していました。幸い、うちには「つゆ」「たれ」「ポン酢」という商品群や、「粉末」「小袋」という商品形態もあります。一つひとつの規模は小さくても、それを逆手にとって、多くの種類のものを少しずつ作る「多品種少量生産」を強みにしようと考えました。それまではお客様の依頼に対応するのみで計画性がなく、社内では「手間がかかるだけの事業」と思われていたのです。

日本丸天醬油では、しょうゆのほかにもさまざまな商品を製造しています(同社提供)

「御用聞き」から提案型営業へ

――「多品種少量生産」という新しい経営方針に対し、ベテラン社員たちの反応はいかがでしたか。

 「多品種少量生産」も多少は取り組んでいました。方針を変えるといっても、それまでの経営を否定するのではなく、やってきたことを「強み」と認識してもらうところから始まりました。

 開発や製造部門は、比較的スムーズに理解してくれました。もともと「味を調える」技術力は高く、技術職なので筋目を通して説明して、腹落ちすれば動いてくれます。前職では開発・製造拠点の人事部門にいたので、技術職への接し方にも慣れていました。

 大きな変化が必要だったのは、営業部門です。それまでは、スーパー向けに「前年よりも2%増でお願いします」と頼むような、前年踏襲型の商談をしていました。いわば、前年実績ありきの「御用聞き」です。景気がいい時は良くても、いったん売り上げが減ると、そのままずるずると落ちていくし、実際にそうなっていました。

 「御用聞き」の商習慣を、「提案型の営業」に変えてもらうようお願いしました。ベテランほど、大変だったと思いますし、変化への対応を難しいと感じた人は、退職していきました。残念ではありましたが、若いメンバーはついてきてくれました。

 開発、製造、営業の各部門に向けて「やる覚悟はありますか」と対話し、社内のベクトルを合わせました。キヤノンの人事で経験した「根回し」が役に立ったのです。

 ※後編では、「多品種少量生産」をどのように実現したかや、従業員の技術を高めるマネジメント、新商品のジェラート開発に迫ります。