目次

  1. しょうゆづくりは身近ではなかった
  2. キヤノンで教わったこと
  3. 入社直後に父が亡くなる
  4. 「NO」と言ってくれる仲間
  5. 「多品種少量生産」にかじ
  6. 「御用聞き」から提案型営業へ

――日本丸天醤油は、全国に約1300社あるしょうゆメーカーでも老舗の部類に入ります。いつごろから家業の「後継ぎ」を意識しましたか。

 大学3回生で、就職活動を始める前です。子どものころは祖父が社長で、父は大阪の営業所に勤務しており、兵庫県西宮市に住んでいました。家業のことはよく知らず、正月に祖父母の家に行くとき「おじいちゃんはしょうゆをつくっている」と感じる程度でした。

 父は、初めから私が継ぐと思っていたようですが、私は若いうちは外でチャレンジしたかったので断りました。半ば母に説得され、「いつかは継ぐことを考える」と言って、就職活動を始めました。子どものころから庭に畑をつくって野菜を育てるなど、「ものづくり」が好きだったので製造業に絞り、2004年、キヤノンに入社しました。

かつての日本丸天醤油の工場(時代不詳)(同社提供)

――入社後は、人事部門に配属されたそうですね。

 開発・製造拠点の人事部門に配属されました。基本的に、人事は社内の風当たりが強いところです。同期からは給与や評価内容を知っていると思われるし、給与体系や福利厚生の見直しなどで、会社と従業員双方の矢面に立つこともあります。しんどいこともありますが、「嫌われるところまでが仕事」と割り切れる私には、適性があったと思います。

 社内のあらゆる人たちと関われるし、きちんと仕事をしていれば、いざという時に頼ってもらえ、「人の役に立っている」という実感もあります。気骨のある上司や先輩にも恵まれ、多くのことを教えてもらいました。

(続きは会員登録で読めます)

ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。