「大リーグ最古の球場」をワクチン会場に スタートアップの危機対応力
新型コロナウイルスワクチンの接種が進む米国では、2020年に誕生した「CICヘルス」というスタートアップ企業が、スタジアムなどで大規模接種会場を運営し、100万回の接種を実現しました。日本通でもある同社の創設者に、非常時に事業をゼロから飛躍させたプロセスを伺い、日本の中小企業経営にも生かせるヒントを探りました。
新型コロナウイルスワクチンの接種が進む米国では、2020年に誕生した「CICヘルス」というスタートアップ企業が、スタジアムなどで大規模接種会場を運営し、100万回の接種を実現しました。日本通でもある同社の創設者に、非常時に事業をゼロから飛躍させたプロセスを伺い、日本の中小企業経営にも生かせるヒントを探りました。
大リーグのボストン・レッドソックスの本拠地で、現存する大リーグの球場では最古の「フェンウェイ・パーク」が2021年1月、新型コロナウイルスワクチンの接種会場と化しました(現在は終了)。地元マサチューセッツ州政府と契約して、この施設を運営したのが、CICヘルスです。同社は他にも、NFLニューイングランド・ペイトリオッツの本拠地・ジレットスタジアムや州内のコンベンションセンターなど、1日に数千人のワクチンを投与できる大規模接種会場も運営しています。
同社はヘルス業界に参入して日が浅いですが、精力的に接種会場を運営してきました。現在は1日7千人まで対応可能なボストン市街のコンベンションセンターなど、三つの会場を運営中で、海外進出を目指すまでになっています。急成長の背景には、同社の母体であるコワーキング施設運営会社「CIC」が、長年培ってきた実績や人脈がありました。
「重要なのは『信頼』です。これは日本ではよく理解されていることです」と語るのは、CICとCICヘルスの共同創設者・CEOのティム・ロウさんです。ロウさんは、1990年代に三菱総合研究所に勤務し、東京に住んでいた日本通でもあります。
CICは1999年にマサチューセッツ工科大学(MIT)のキャンパスの裏手にあるケンダル・スクエアに、「ケンブリッジ・イノベーション・センター」の名前で開設されたコーワキング施設です。ハブスポットをはじめとする数々の有名テック企業を生み出した場として知られています。
同センターは、機関投資家や研究者グループ、行政機関を1カ所に集め、スタートアップのイノベーションを促進する「エコシステム」を創るのが目的でした。ロウさんの狙い通り、革新的な技術を持つスタートアップに惹かれたテック大手も入居し、CICを中心に、人や企業の輪が拡大していきました。
CICは今ではマイアミ、フィラデルフィア、東京、ロッテルダムなど世界9都市に拠点を置くグローバルな組織になりました。エコシステムで長年培った人の輪を、どのようにコロナ禍でのスタートアップにつなげたのでしょうか。
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ロウさんがコロナ禍で立ち上げたCICヘルスは、元々はケンダル・スクエアで働く人たちにPCR検査を提供する「小さなビジネス」にする予定でした。
20年、州政府の非常事態宣言でオフィスワークが禁じられていた時、CICがケンダル・スクエアで運営する「LabCentral」では、複数のテナントがコロナ関連などのリサーチを続けるため、建物に出入りできる特別許可をもらっていたそうです。
CICは、テナントが簡単にPCR検査を受けられる仕組みを作ろうと、ウイルス検出作業のノウハウを持つ研究機関「ブロードインスティテュート」や、学生・教員の検査を行っていたMITに協力を求めました。その中で、企業や学校などが、自治体と契約を結ぶ救急車の運営会社に、PCR検査を行う救急医療スタッフの派遣を依頼するケースが多いことを知りました。
ロウさんは「自粛で交通事故が減り、救急医療スタッフは手持ちぶさたでした。運営会社は検査のために喜んでスタッフを派遣したというわけです」と話します。
当初、ロウさんのチームは、PCR検査の需要と供給を「イーベイやアリババのように」結び付けるコマースサイトを立ち上げるつもりでした。しかし、顧客層の教育機関などは、単にウイルスを検出するだけでなく、検体の採取やその他のサービスも必要ということがわかったそうです。
そこで、ブロードインスティテュートや医師、ソフトウェア会社、救急車の運営会社などとチームを作り、各顧客のニーズに合わせた検査サービスをカスタマイズして提供することにしました。
そんな時にロウさんは、CICのクライアントからの紹介で、世界的な公衆衛生の権威のアトゥール・ガワンデ博士と出会いました。博士は、CICが考える検査サービスへの需要がいかに高いかを説明してくれたそうです。
「それを聞いて、これはグローバルビジネスとして展開できる可能性があると気づいたのです」
CICヘルスはコロナが深刻化して間もない2020年6月、ガワンデ博士が共同創設者となり法人化されました、翌7月には最初の顧客となった教育機関に、検査サービスを提供しました。その後、CICのネットワークを通じてサービス内容を告知したところ、続々と問い合わせがあったそうです。
「8月末には50校以上の教育機関が私たちの検査サービスを利用し、そこから顧客の数が増え続けていきました」
21年5月現在、CICヘルスは全米各地の検査ラボと手を組み、20州に点在する600の教育機関、および企業や個人などを対象に、1日平均7千人の検査を行っているそうです。検査の料金は、学校法人の場合は生徒1人につき5ドルから、個人の顧客は80ドルとなっています。
CICヘルスは21年から本格的に始まった、コロナウイルスのワクチン投与でも存在感を発揮しました。
米国でのワクチン投与はこれまで、病院や薬局などが中心でした。しかし、イギリスではコロナワクチンの集団接種にスタジアムやコンサート会場を利用していることを知ったロウさんは、マサチューセッツ州でも同じことができたらと考え始めました。
ガワンデ博士は、ロウさんのアイデアに賛同。知人でもあるNFLニューイングランド・ペイトリオッツのロバート・クラフト・オーナーと、レッドソックスのジョン・ヘンリー・オーナーに連絡をとりました。そして、ジレットスタジアムとフェンウェイ・パークを、ワクチン接種会場として使う同意を得ました。
次に、CICヘルスのレイチェル・ウィルソンCOOが、州政府や地域の病院に相談し、同社がスポーツチーム、州政府、病院とそれぞれ契約を結び、協力を得ながら会場を運営することになりました。
ロウさんは「私たちは、ワクチン投与を進める歯車の軸のような存在になりました」と説明します。同社が州政府から会場運営を任されたのは、ウイルスの検査で培った実績があったからです。
CICヘルスはマサチューセッツやコネティカットなど複数の州で、一般を対象とした無料の集団検査会場を運営していました。「集団検査とワクチンの集団接種会場の運営は似ています。私たちはワクチン投与を引き受けるだけの経験があると、州に話したのです」
CICがケンダル・スクエアで、20年以上、コワーキング施設の運営を続けていたことも、功を奏しました。ロウさんは「接種会場の設置を相談した人は、『どちら様ですか』ではなく、『では、話し合いましょう』と前向きでした。ビジネスにおいて信頼と長年の人間関係が大切なのは、日本も米国も同じです」と話します。
「母国をパンデミックから守るために一役買えた」。ロウさんは、大規模接種会場と化したフェンウェイ・パークと、ジレットスタジアムに足を踏み入れた時、米国人としての誇りで胸がいっぱいになったそうです。
「私たちは、ケンダル・スクエアで働く技術屋じゃないですか。その仲間たちと州政府、スポーツ界の人々、医師などが集まって、みんな一緒に取り組んだんですよ。それって、エキサイティングなことですよね」
米国の大規模接種会場は連邦政府が軍隊を使って運営しているケースが多いそうですが、マサチューセッツ州は、CICヘルスをはじめとする複数の民間業者に委託しています。
同社はワクチンが全ての人に平等にいきわたるように、人種マイノリティーが多い地域にも会場を設置しました。5月現在、ワクチン投与が終盤戦を迎えるなか、同社は会場の閉鎖を準備する一方で、感染率の高い地域に、バスなどの大型車を利用した六つの「モバイルサイト」(移動可能な会場)を設置し始めました。
CICは、パンデミック中も多くの入居者を維持できたとはいえ、コロナ禍でコワーキング施設運営事業に経済的な影響があったことは確かです。一方でCICヘルスが成功し、CICから異動したスタッフもいたそうです。
集団ワクチン投与のエキスパートとなったCICヘルスは、十分にワクチンがいきわたり、大規模接種会場の運営を必要とする国が出てくれば、進出を考えているそうです。
米国には医療費や保険料が高すぎてケアを受けられない人が大勢います。同社はコロナ以外のヘルスケアにも取り組む予定で、ロウさんは「ヘルスケアを今より安価で届けられるように、新しいテクノロジーや方法を探しています」と意気込みます。
パンデミックのような非常事態下でビジネスを育てるには、どうすればいいのでしょうか。ロウさんは、まずアイデアを実行に移すことだと強調します。そこから、さまざまな人との出会いが生まれ、ビジネスチャンスが広がっていくというわけです。ロウさんは次のように話します。
「じっとしていてはいけない。歩幅は小さくても、一歩ずつ踏み出すことが長旅につながります」
「危機に直面している時には、自分の足元しか見えません。でも、足を前に出すたびに、またもう少し先が見えてきます。コツコツと歩くことは、新しいビジネスを成長させるうえで非常に有効な方法なのです」
CICヘルスの成長の足跡をたどって感じるのは、ビジネスの成功のカギは問題解決への貪欲な意欲と行動力にあるということです。20年3月、米国各地で外出禁止令が出始めたころ、ロウさんは国内のCICの入居者にむけて、施設内の安全対策に関する情報を発信していました。そこには、新型コロナウイルスに関する詳しいリサーチや統計に関する情報が含まれ、何としても解決策を見つけたいというロウさんの意欲が見られました。
ロウさんは当時、コロナの収束に1年以上かかるとは考えてもいなかったそうです。それでもコロナを調べ尽くした好奇心と意欲が、CICヘルスというピボット事業の原点になったのではないでしょうか。
何かを「したい」から「している」に変える行動力と、アントレプレナーとしての瞬発力や粘り強さ、そしてネットワークの活用力があれば、危機をビジネスチャンスに変えることが出来るのかもしれません。
「じっとしてはいけない。そして、一歩ずつ前に進む」というロウさんの言葉に、含蓄を感じました。
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