「天使のはね」を背負った4代目 社員に反発されても貫いた流通改革
大ヒットした「天使のはねランドセル」を製造するセイバン(兵庫県たつの市)は、4代目社長の泉貴章さん(46)が引っ張ります。サントリーの研究開発職から家業に転身し、入社直後のピンチも乗り越え、流通や生産の仕組みを転換。顧客ニーズに応える製品づくりや生産業務の効率化につなげました。
大ヒットした「天使のはねランドセル」を製造するセイバン(兵庫県たつの市)は、4代目社長の泉貴章さん(46)が引っ張ります。サントリーの研究開発職から家業に転身し、入社直後のピンチも乗り越え、流通や生産の仕組みを転換。顧客ニーズに応える製品づくりや生産業務の効率化につなげました。
目次
――泉さんは子どものころ、家業についてどう思っていましたか。
ランドセル工場の上の階に自宅があり、会社と家庭が混在していました。3代目社長だった父は仕事一筋で、家族との時間を持つことがほぼありません。思春期のころは特に抵抗があって、「自分はこうはなりたくない」という、反面教師のような存在でした。
将来、自分が家庭を持つときには、仕事と家庭をきっちり分けて家庭を大切にしたいと思い、家業を継ぐ気は全くありませんでした。
――大阪大学大学院を修了後、2000年にサントリーに就職しました。
大学では微生物の研究をしていました。大阪もビールも好きだったので、サントリーは意中の会社でした。酵母の基礎研究職を経て、入社2年目からはビールテイスト飲料の商品開発に携わりました。
「やってみなはれ」精神が根付いているサントリーは、年齢に関係なく、多くのチャレンジをさせてくれます。麦を使わずにビールテイストに近づけていくための試行錯誤を経て、3年後に新商品を送り出すことができました。
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――サントリー在職時に経営学修士(MBA)も取得しました。きっかけは何だったのでしょうか。
新商品のヒットでやりがいを感じる一方、当時は研究開発のことしか知らなかったので、「経営を学びたい」と思いました。
06年、社内の国内留学制度に手を挙げ、早稲田大学のビジネススクールに入学しました。入学当時はサントリーでキャリアアップしたいと考えていて、家業を継ぐつもりはありませんでした。
当時、研究開発職がビジネススクールで学ぶのは少数派だったと思います。製造業だけでなく、さまざまな業界や職種の人たちと知り合えたのが、大きな財産になりました。同級生とは今でも連絡を取り合い、刺激を受けています。
自分の研究テーマは「ビールのマーケティングと商品開発について」でした。商品開発だけでなく、企画や営業など全体の流れを見た上で弱点を改善していくのが必要、という思考が身に付きました。MBAの学びによって経営に対する見方そのものが変わり、それまで継ぐ気がなかった家業の経営にも関心が出てきたのです。
――家業の後を継ぐことは、いつごろ決意したのでしょうか。
同じころ、肝臓がんを発症し、闘病中だった父から「後を継いでくれないか」と言われました。
少し前の03年、「天使のはね」(肩ベルトの付け根部分に、羽のかたちの樹脂パーツを内蔵。肩ベルトを根元から立ち上げることで、肩と背中に密着させ、負担を軽減するランドセル)が大ヒットして、会社の業績が急拡大し、従業員も増えていました。
とても迷いましたが、最終的にはMBAの学びが背中を押してくれました。後を継ぐ決意をしてサントリーを退職し、10年10月に取締役としてセイバンに入社しました。
――入社して、最初に取り組んだことは何ですか。
生産現場を理解しようと、工場に3カ月間泊まり込みました。それまでは父も、平日は工場で寝泊まりして、週末に帰宅するという生活でした。
現場を見た第一印象は「人と在庫が多い」です。前職のビール工場はボタン一つで装置が動き、生産ラインに人はあまりいません。しかし、ランドセル工場は手作業の工程が多く、人がたくさんいました。加えて、工程と工程の間にある製造途中の商品、いわゆる「仕掛品」がたくさんあると感じました。
――仕掛品の他に、ランドセルの完成品の在庫も多かったのでしょうか。
在庫はたくさんありました。理由は大きく二つです。一つ目は、当時の販売形態によるものでした。ランドセルは、10社ほどの卸問屋を通して販売しており、注文がきたらすぐに出荷できるよう、常に在庫を持って備えていました。
卸問屋の立場は強く、注文後も「そのうち引き取るから、しばらく置いておいて」と、なかなか引き取ってくれないこともありました。
当時は、生産計画の立て方も極端でした。効率を重視するあまり、「男子は黒、女子は赤」と決め、まとめて生産していたのです。その影響で、黒と赤以外のカラーの注文を受けてもすぐに対応できず、納期が遅れることもありました。
――二つ目の理由は何でしょうか。
看板商品だった「天使のはね」が、販売不振に陥っていました。競合他社が10年に、「A4サイズのクリアファイルがまっすぐ入る」という触れ込みのランドセルを出して大ヒットし、それよりもサイズが小さい「天使のはね」が、急激に売れなくなったのです。
卸問屋も小売業者も在庫過多になり、値下げ競争が起きました。最終的にネット通販で安売りされ、ひどい時は市場価格の10分の1で売られていました。これまで育ててきた「天使のはね」ブランドが失墜してしまうと思いました。これが、セイバン入社1年目の状況です。
――苦境の中で、11年1月に先代のお父様が亡くなりました。
父の急逝に伴い、入社3カ月で社長に就任しました。すぐに着手したのが、生産数の調整です。「天使のはね」で成功体験があるベテラン従業員たちからは、かなり抵抗されました。
父からは「できる限り多く作って」と言われていたのに、私の代になって「作りすぎないで」と言われて混乱したと思います。
生産数をそれまでの半数に絞りました。幹部たちからは「会社をつぶす気か」と言われました。でも、需要を超える量を作って安売りされて、ブランド価値が下がってしまうと、それこそ会社がつぶれてしまうと思い、譲りませんでした。
――続いて取り組んだことは何でしょうか。
流通ルートの見直しです。安売りされるのを防ぐべく、卸問屋との取引を少しずつ減らしていきました。
――長年続く業界の商習慣を考えると、思い切った改革のように思います。
大変でした。当時はメーカーが最も弱い立場だったこともあり、「生意気だ」とみなされました。約5年かけて、卸問屋との取引を減らしていきました。
並行して販売会社を設立。小売業者との取引を始め、自社の直営店も立ち上げて、店舗数を増やしていきました。お客様とのダイレクトな接点を持つことで、製品づくりに生かせると考えたからです。
実際、「子どもは気に入っているけれど、6年間使う物だし、もう少し落ち着いたカラーだと良い」、「とにかく軽いランドセルが欲しい」といった声を、製品に反映していきました。
思い切った施策ができたのは、父や長年勤務してきた従業員たちが「天使のはね」という財産を残してくれたことが大きいと思います。
自社で販売を手掛けることで、生産数や在庫をコントロールできるし、何よりもブランドの価値が維持できます。ランドセルは前職のビールとは全く違うものづくりでした。製品の単価も違うし、お客様にとってランドセルは一生に一度の買い物だからです。
――社内に理解者はいましたか。
最初はほとんどいませんでした。未経験のことをやってもらうには、意識改革が必要です。私のよりどころもMBAの学びが大半だったので、そこで学んだトヨタの生産方式「ジャストインタイム」を知ってもらおうと、幹部に研修を受けてもらい、少しずつ理解を得ていきました。
リードタイム(セイバンの場合はランドセルの生産指示から箱詰めまで)の短縮や、在庫の削減など、「必要なものを、必要な時に、必要なだけ作る」ための手法を、ランドセルづくりにも取り入れていったのです。改善を重ね、14年は100日かかっていたリードタイムを、18年には5日に短縮できました。
※後編では、泉さんが手掛けた組織改革の全容や、他社とのコラボ事業、SDGsの取り組みなどに迫ります。
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