目次

  1. 「東雲堂の息子さん」と見られて
  2. 24歳で父が亡くなり家業へ
  3. 肩書の重さに苦労
  4. コラボの成功と課題
  5. 全自動焼き機に2千万円超を投資
  6. コロナ禍を救った山笠仲間
  7. コロナ禍で話題の商品を投入
  8. 人を大切にして喜んでもらう

 東雲堂は1906年、初代の高木喜七氏が「二〇加煎餅」を考案したのが始まりです。郷土芸能「博多にわか」で使う半面の形をした固焼きせんべいで、福岡市民に長く愛され、土産物としても根強い人気を誇ります。

 高木さんにとって、にわかせんぺいは、子どものころから身近な存在でした。周囲の大人たちからも「にわかせんぺいの東雲堂の息子さん」という、お坊ちゃんのような扱いを受けたといいます。

 「東雲堂の息子さん」で知られていた高木さんは、「福岡から離れたい」という気持ちが高まったといいます。就職活動では「福岡に拠点がない会社」、「仕事がハードそうな業種」を選び、大学卒業後、東京に本社を置く害虫駆除の大手企業に就職して福岡を離れました。

 両親から「若いころの苦労は買ってでもしなさい」と言われていたこともあり、大変そうな仕事を選びました。しかし、実態は想像以上にハードでした。

 「お宅の床下を見せてくれませんか」と家庭を訪問して、シロアリ検査のアポイントを取る仕事に従事しましたが、「一日中ご家庭をまわっても、1件もアポが取れない日もよくありました」

 「仕事は結果が全て」という世界を実感しました。

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