目次

  1. 大企業でマーケティングを担当
  2. 赤字の繊維部門立て直しへ
  3. ファクトリーブランドを立ち上げ
  4. 赤字なので何でもやるしか・・・ 
  5. 社員の発案で生まれたマスク
  6. ミレニアル世代のブランドに  
  7. レジャー事業への打撃をカバー
  8. 銀座のショールームに出店
  9. 「We'll」の成功が経験に
  10. 家業が大切にする理念との共通点

 パレ・フタバは元々、藤井さんの母方の曽祖父・深井政一さんが1947年、ニット製造卸を個人創業したのに端を発し、アパレル製品の「双葉商事」として経営していました。空前のボウリングブームだった72年には、祖父の深井喜一郎さんが大阪府吹田市に、フタバビルというボウリング場をオープン。81年に並列会社として「パレ・フタバ」を設立しました。

 祖業の繊維事業とレジャー産業の2軸経営でしたが、キャッシュフローのよい後者が、家業の主力になっていました。パレ・フタバの従業員数は、現在45人(役員を含む)です。 

パレ・フタバのもう一つの主力事業であるボウリング場

 藤井さんの父方の実家は、大阪市で150年続く藤井呉服店で、小さい頃「夢は呉服屋さん」と言っていたといいます。しかし、大学卒業後は家業を継がず、日用品メーカー大手のユニチャームに就職しました。

 ドラッグストアや大型小売店の営業を4年、マーケティング部では掃除用品やウェットティッシュを3年担当しました。

 資材を仕入れて価値を付け、流通に乗せて販売するまで、一連の流れを担っていました。例えば、5年後の増減産の予測から店頭のPOPまで、幅広く経験を積みました。

 「ブランドマネージャー」というマーケティング部門の重責を担う役職にも就きました。結果的に、この経験が異業種の家業の経営に生きるとは、当時は想像もつかなかったといいます。

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