チロルチョコ4代目が悩んだ「ムリ・ムダ・ムラ」 開発中心の組織を変革
一口サイズのロングセラー商品・チロルチョコは、定番・限定を含め40種類以上が存在します。1903年創業の松尾製菓(福岡県田川市)が製造し、2004年に立ち上げた「チロルチョコ」(東京都千代田区)が企画・販売を担います。両社の社長を務める松尾裕二さん(35)は、創業家の4代目として、「ムリ・ムダ・ムラ」を無くす組織改革や、海外展開に取り組んでいます。
一口サイズのロングセラー商品・チロルチョコは、定番・限定を含め40種類以上が存在します。1903年創業の松尾製菓(福岡県田川市)が製造し、2004年に立ち上げた「チロルチョコ」(東京都千代田区)が企画・販売を担います。両社の社長を務める松尾裕二さん(35)は、創業家の4代目として、「ムリ・ムダ・ムラ」を無くす組織改革や、海外展開に取り組んでいます。
ーー子どもの頃、家業はどのような存在でしたか。
祖父の家が工場と隣接していて、小さい頃は敷地内で遊んでいました。その頃のチロルチョコは、まだまだ全国ブランドではなかったと思いますが、九州ではある程度名の知れた会社で、子どもながらに「すごいなあ」と感じていました。
ただ、父が家にチロルチョコを持ち帰ることはあまりなく、家でチロルチョコを食べた思い出もありません。逆に、調査で購入していたのか、別のメーカーさんのお菓子は、家にたくさん置いていた記憶があります。
ーー家業を継ぐという意識はいつ頃からありましたか。
2人きょうだいの長男で、会社に入ってから言われて初めて気付きましたが、父から「会社に入れ」、「継いでほしい」と言われたことは一回もなかったです。
ただ、不思議な感覚ですが、小学生くらいの時から漠然と自分は社長になると思っていました。思い返せば、他の夢は一度も持ったことがありません。
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ーー好きなことを仕事にしようとは思いませんでしたか。
中学まではサッカー、高校、大学ではストリートダンスに打ち込みましたが、その道に進もうと思ったことはありません。上には上がいて、プロなんてまた夢のまた夢と思い知らされました。
ーー高校進学を機に、家族で福岡から東京に引っ越しました。
父が社長の時、販路とターゲット、エリアを拡大する「三拡運動」を行いました。販路はそれまでの駄菓子屋から今後伸びていくであろうコンビニに、ターゲットは子どもだけでなく大人まで、エリアは西日本から全国に拡大していきました。
04年には企画・販売部門を分社化して、「チロルチョコ」という名前の株式会社を設立しました。情報の中心地でお得意様も多い東京に会社を置いて、家族ごと移り住み、私は関東の高校に進学しました。
ーー大学卒業後は、家業ではなく、一度コンサルティング会社に就職しました。
家業に戻った時に生かせるスキルを得られるような会社はどこか、と考えて就職活動をしました。経営には会計の知識が必要になると思い、公認会計士、社会保険労務士、税理士がいる会社に入りました。
つくった資料の完成度が低いと、上司から厳しい指導を受けるなど、精神的に鍛えられたいい経験となりました。
ーー就職から2年後の11年、チロルチョコ株式会社に入社しました。お父様の反応はいかがでしたか。
本当は5年くらい勉強しようと思っていましたが、その頃、私に子どもができました。父親になる実感がわき、スキルアップも見据えて、腹を据えて家業に戻ろうと決意しました。
会社に入れてほしいと言った時、父はただ「分かったよ」と。その時にうれしかったかは、聞いたことがないので分かりません。
ーー入社してから、どのような仕事を経験しましたか。
最初は現場からということで、福岡にある管理、物流、製造の各部門を、1年間かけて回りました。印象的だったのは、私が入社してすぐに開かれた全社大会という年1度のイベントです。
「彼が次の社長だから、みんなよろしく頼む」。父が全社員の前で公言したので、驚きました。
だいたいの経営者は、後継が育たなかったときのために、逃げ道を用意するものじゃないですか。「次期社長」と公言されたことでプレッシャーを感じましたが、自覚が生まれました。
ーー入社して、家業の経営にどのような問題を感じましたか。
福岡での1年間を経て東京に戻り、営業と開発を半年ずつ経験しました。この2年間が研修期間という形でしたね。
私が感じたのは、オーナーシップの強さです。父(現会長)が開発のトップであり、開発を中心に会社が回っていました。
そのプロセスの中で、生産計画の狂いをはじめとした「ムリ・ムダ・ムラ」が発生していたのです。開発力やブランド力で伸びてきた会社なので、一概に悪いとも言えないのですが、色々なところに弊害が出ていたのは事実です。
ーー後継ぎとして、どのような改善策を図ったのでしょうか。
手を替え、品を替え取り組んだつもりです。私は意識して、バランス役を目指しました。当時は、開発から出てくる新製品の生産要求を、生産計画に落とし込んでおらず、毎年のように欠品が発生していました。欠品によって、営業が得意先に謝りに行ったり、製造もラインを組み替えたりして、物流にも無駄が発生していました。
やはり、売り上げのロスは見過ごせないですし、それが原因となって辞めていく社員も一定数いたことに、心を痛めていました。
2年間の研修が終わった後、東日本ブロックの営業の責任者を担いながら、まずは営業や製造のストレスになっていた欠品をなくすための仕事をしました。
ーー具体的には、どのような仕事に取り組みましたか。
開発が「あれもこれもしたい」と言ってきても、製造や営業、在庫状況を確認し、「今の生産計画ではこれ以上作れない」という、ディフェンス役を自分で担うことにしました。
大きなところで言うと、販売計画を生産計画に落とし込んだ上で、自社で生産する部分と外注する部分を決め、製造の生産性を向上する努力も怠りませんでした。
1年や2年で解決できる問題ではありませんでしたが、徐々に傷が浅くなりました。欠品を解消することで、利益の中身が劇的に良くなったのです。
ーーその過程でお父様と意見対立のようなものはなかったでしょうか。
会議で親子げんかのようなことはなかったです。もちろん意見を言い合うことはありますが、ずっと平行線で全員黙るという感じにはなっていません。
会長の父は芸術や建築を好むクリエーティブな人ですが、私は大人数でスポーツをやってきたタイプです。基本的な性格や考え方は全然違いますが、経営者同士、会社を良くしたいという目指すべきことは変わりません。
幸いなことに、息子だからといって、「まだまだひよっこだから黙っときなさい」という扱いはされませんでした。自分も父を立てるようにしていたつもりですが、今思えば立ててくれていたのかなとも思います。
※後編では、松尾さんが悩みながらも進めた組織改革や、力を入れようとしている海外戦略の展望などを伺います。
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