父の急死で設備会社4代目に 水上スキーの現役選手が信頼を積むまで
東京都中央区の水道設備会社「神谷設備工業」4代目の神谷晴江さん(39)は、父の急死で突然経営を担いながら、現役の水上スキー選手としても活躍しています。畑違いの業界で社員や取引先との信頼関係づくりや資金繰りに奮闘。「男性社会」という空気が根強い業界で、女性経営者として存在感を発揮しています。
東京都中央区の水道設備会社「神谷設備工業」4代目の神谷晴江さん(39)は、父の急死で突然経営を担いながら、現役の水上スキー選手としても活躍しています。畑違いの業界で社員や取引先との信頼関係づくりや資金繰りに奮闘。「男性社会」という空気が根強い業界で、女性経営者として存在感を発揮しています。
――神谷設備工業の歴史について教えて下さい。
神谷設備工業は、祖父が1933年に創業した水道設備会社です。2代目を継いだ叔父の代は東京五輪からの好景気で、各家庭に風呂や水洗トイレが普及し事業が拡大。企業の社宅や法人施設の水回りの衛生管理を手がけてきました。
3代目の父の代では、主に地元から関東近郊まで、個人ビルや飲食店などの設備修理を行っています。
――神谷さんが子どものころ、家業についてどう思っていましたか。
「男性社会の仕事」というイメージでした。7人きょうだいの6番目に生まれ、兄や姉と比べると会社との接点は少なかったです。それでも、通っていた小学校に社員が修理に訪れている姿を誇りに思っていました。
学生時代は米国に留学したり、スポーツに打ち込んだりしました。大学の部活で出会った水上スキーは、今も選手として現役を続けています。
――大学卒業後は、大手証券会社の就職を辞退。2009年に渡米して水上スキーのプロを目指したそうですね。
水上スキーの選手として、大学では思うような結果を残せませんでした。しかし、部活を引退してから日本代表に選ばれ、世界中の選手と交流する中で、マイナースポーツであるからこその親密な雰囲気と熱量にひきつけられました。
東京証券取引所の近くで育ったこともあり、証券会社への思い入れもありました。それでも水上スキーへの思いは断ち切れず、米国でスポンサーを探しながら、競技を続けることにしました。
父は「やるんだったら中途半端にやるな」と送り出してくれました。当時は家業を継ぐことは頭になく、水上スキーでプロになることに集中していました。
――水上スキーの選手として、どのようなキャリアを積みましたか。
ビザの関係で1年の半分しか滞在できず、夏場は米国でトレーニング、冬場は日本でバイトをして資金をためる生活でした。海外では5、6試合、日本では2試合ほどの実戦を積み、プロツアーに出場するためにランクを上げる日々でした。
水上スキーでは、自分で立てた目標を達成するための課題を見つけ、一つずつ着実にクリアする姿勢を身につけました。
もう一つ大切なのは、どんな環境でもベストパフォーマンスを出すために自分を整えることです。水上スキーは自然相手のスポーツなので、様々なコンディションへの備えや、冷静な状況判断などを養うことができました。
――選手生活を続ける中、帰国して家業に入ったのはどうしてだったのでしょうか。
渡米して3年目に、目標をクリアできなかったことがきっかけです。バイト先だった築地のすし店の社長に、「水上スキーだけで食っていけないならもう辞めろ」と諭されたのも後押しになりました。
両親と話し合う中で「(家業の仕事を)できるならやりたい」と伝えると、父が応えてくれて、11年、神谷設備工業に入社することになりました。
実は水上スキーを経験したことで、家業への興味が増していました。ボートや板をいじったり、コースを設営したりする作業が好きだったんですね。水道設備の仕事につながる部分もあるのではと思いました。
――家業ではどのような仕事に取り組みましたか。
事務、銀行回り、帳簿作成、倉庫整理などです。まず現場で使う道具を覚えないことには仕事になりません。しかし、配管に使う部品や工具の種類が多いうえ、正式名称と職人たちが使う通称が異なるなど複雑でした。
水道設備の専門学校で基礎から学びたかったのですが、夜間コースがありません。職人の現場に付いていき、道具を手渡すなどして手伝いながら、実地で知識を身につけていきました。
――畑違いの家業に入り、社員とのコミュニケーションをどのように重ねましたか。
社員は私が生まれる前から神谷設備工業で働いている人たちで、当時ですでに60代の大ベテランでした。敬意を持ちながらも、こちらから積極的にあいさつや世間話をして、関係性を温めていきました。
人間関係は「自分の鏡」だと思っています。私が相手に不満があるときは、必ず相手も私にそう感じています。みんなで職場の雰囲気をつくり上げることを常に意識していますね。
――そんな家業を突然、継ぐことになりました。
家業に戻って3年目のある日、元気だった父が入院し、2カ月後に他界しました。実務にようやく慣れてきたところで、突然の別れとなってしまいました。
それでも目の前に現場はあるし、社員もお客様もいて、会社を動かさなければいけません。当時、一緒に家業に携わっていた母は高齢だったため、最終的に私が経営を担うことになりました。
継承後に苦労したのは取引先との関係性づくりです。代替わりして、経験の浅い私でやっていけるか不安に思われたのでしょう。長いお付き合いの会社でも支払期限が厳しくなり、突如資金繰りに追われるようになりました。
仕事自体は減ることはなかったのですが、月末の支払いがタイトになりました。眠れない日が続き、「継ぐんじゃなかった・・・」と後悔することもありました。しかし父とは違って、ゼロから出発した私に信頼がないのは当然です。
社長としての態度や「支払い」という実績で見せていくしかないと気持ちを切り替えました。
――男性中心と言われる業界で女性社長になり、大変だったことはありましたか。
水道設備業界に男性が多いのは、現場で扱う配管などの部品が重いという物理的な理由もあります。業界のことを学ぶために、同業者のところで修業したいと思っても受け入れてもらえない、ということはありましたね。
持ち前のタフさがあるため、私自身はそこまで大変さを感じてきたわけではありません。しかし、取引先にとっては代替わりだけでも心配なのに、女性ということでさらに経営に対する不安が増した面はあったと思います。
――反対に、女性経営者で良かったと思う部分はありますか。
まわりが気づかないようなポイントを見つけて、言語化できることです。先代の父もそうでしたが、自分の仕事に対して「これはこういうもんなんだ」と、あまり言葉で説明しないところがありました。
コミュニケーションが不十分と思うとき、私は言葉をかみ砕いて社員やお客様に伝えるようにしています。
業界も女性経営者が増えてきており、私は東京都管工事工業協同組合の青年部理事をしています。全国の水道組合にも出向いて、業界の抱えている課題などについてお話しさせていただく機会も増えてきました。
※後編では、神谷さんが家業で取り組んでいる新たな顧客開拓やコロナ禍の対応、社長業と水上スキー選手との両立などについて迫ります。
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