目次

  1. 家業が倒産…母の苦労を見て育つ
  2. 母が塗料会社を立ち上げる
  3. 中学卒業後、アメリカへ
  4. 休職し、父親を助けにタイに向かう
  5. やりがいを感じた塗料販売
  6. 光触媒を使った遮熱断熱塗料の開発
  7. 産官学連携で自社製品を開発
  8. 「新商品を自社で売る」と販売会社オプティマスを立ち上げる
  9. 10年経って変わったこと
  10. さまざまな取り組みに挑戦
  11. 女性経営者としての母娘

 高尾さんの父は、堺市で自転車部品を製造する鉄工所の2代目でした。わりと大きな自転車メーカーで、一人っ子の高尾さんは両親にやりたいことをやらせてもらいながら、裕福に育ちました。従業員たちからも可愛がってもらい、後を継ぐことについて両親と話をしたことはなかったといいます。

 しかし中学2年生の頃、家業の倒産を機に、環境が一変します。家がなくなり、自家用車は小さくなりました。さらに父が脳溢血で倒れてしまいます。一人で困る母を、「大変そうやな」と見守ることしかできませんでした。

 自転車の部品作りの次の工程は、塗装です。そのため、塗装会社とは以前から付き合いがありました。周りからのアドバイスもあり、「路頭に迷うわけにはいかない」と母は塗料会社「宝榮産業」を立ち上げます。

 「父が倒れて結構すぐに母一人で会社を立ち上げたので、すごい女性だと思いますね」

高尾さんの母が立ち上げた塗料の製造会社「宝榮産業」(オプティマス提供)

 中学を卒業した高尾さんはアメリカにわたり、叔母の元で高校、大学時代を過ごしました。現地での就職活動中、日本のあるIT関連会社の社長と出会います。

 「社長のすごく人間味のあるところに惹かれて、入社を決めました。母の会社を継ごうとは、全く思いませんでしたね。母も『工場を継がせたくない』と思っていたと、後から聞きました。父も含め、家族はみんな“今”を大事にするタイプなので、あまりシリアスには考えていませんでした」

 帰国した高尾さんは、その社長の会社に東京で就職。営業職として外資系企業を担当し、活躍します。成績も良く、充実した日々を過ごしました。

 就職して5年が経った頃、リハビリを終え元気になった父が、元々好きだったタイで、自動車部品を製造する中古工作機械の販売会社を立ち上げようと動き始めました。

 しかし立ち上げがうまくいかず、母から高尾さんに「英語ができるあなたが行って手伝ってきて」と声がかかりました。

 苦労している姿を見てきたため、母の言うことは聞く高尾さん。勤め先の社長に相談すると「1年だけ休職して、また帰ってこい」と、給料をもらいながら休職するという破格の条件でタイに送り出してもらえました。

 タイに到着した高尾さんは、流暢な英語力を生かし、父とともに会社を立ち上げます。当時のタイは日系の自動車メーカーや下請け企業が次々と進出し、とても盛り上がっていた面白い時期でした。1年ほど経ち、会社がうまく回るようになった頃、高尾さんは当時のパートナーに出会います。

 彼は日本人とオランダ人の間に生まれ、日系工作機械メーカーのアメリカ子会社の社長をしていました。すっかり意気投合し、タイで一緒に新しいビジネスを始めることになりました。

タイで働いていたころの高尾さん(上段中央、同社提供)

 その頃、大阪・堺の母の会社は、遮熱断熱塗料をメインに製造していました。企業からのOEM注文も多くあったといいます。2人で何をしようか考えていたところ、知り合いの社長から「お母さんの塗料をやったら?」とアドバイスをもらいました。

 当時、タイで遮熱断熱塗料を取り扱っている企業は2社ほどありましたが、市場にはそこまで出回っておらず、まだ誰も知らない状況でした。「売れそう」と思い、母の作る塗料を販売することに決めました。

 タイは一年中暑く、夏場になると気温が40度くらいまで上がる日もあります。

 高尾さんは1トントラックに乗り、日系企業の工場を回りながら営業活動を続けました。何万平米という広さの自動車工場では、屋根に遮熱断熱塗料を塗ることで、エアコン代が大きく削減されます。そのため、ホンダの現地工場や日系企業の工場など、多くの企業に採用されました。

 「時代的にもマーケット的にも、当時のタイは私たちの製品にとって最適な場所だったと思います」

 導入した会社の社長はもちろん、工場で働く従業員たちも「涼しくなる」と喜んでくれました。その姿を見て、従業員たちの働く環境も良くできていることを実感し、やりがいを感じていました。

オプティマスの塗料が塗られた屋根(同社提供)

 当時のタイの工場地帯は、真っ黒な煙がもくもくとあがり、空気がとても汚れていました。屋根に塗った白い塗料が、半年や1年後にはグレーに変わってしまうほど。汚れを気にしていた高尾さんに、取引のあった現地の日系ゼネコンの副社長がすすめてくれたのが「光触媒」でした。

 光触媒とは、太陽光や蛍光灯などから出る紫外線が当たることで表面に反応を起こし、においや汚れを分解する素材のことです。

 試しに自社の遮熱断熱塗料の上から光触媒を塗ってみたところ、塗った部分が汚れなくなりました。しかし、透明な光触媒を広い範囲にムラなく塗るのは、とても難しい作業でした。時間が経つと、塗っているところと塗っていないところが顕著にあらわれ、シマウマのようになってしまったのです。自社の遮熱断熱塗料と光触媒を混ぜてもみましたが、塗料が劣化してしまい、うまくいきませんでした。

 「遮熱断熱塗料と光触媒を混ぜ込んで一液にし、1回きりの塗装でも大丈夫な製品が作れないか?」と考えた高尾さん。しかし、タイでは思いついたアイデアを商品化できません。そこで、母に相談しました。

 「普段出入りしていた堺商工会議所の職員に母が相談したところ、大阪府立大学で光触媒の研究をされていた教授を紹介してもらい、話がつながりました。こうして母の『宝榮産業』と『堺市』、『大阪府立大学』による産官学連携が成り立ち、共同研究開発が始まったのです」

 1年後、研究室レベルで高尾さんのアイデアが現実化しました。しかし、アイデアの実現と塗料製品として大量に製造することは、また別の話。1年かけて内装塗料を、さらに3年かけて外装塗料を改良し、それぞれ特許を取得しました。こうして、光触媒の次世代塗料「オプティマス」シリーズが誕生しました。

高尾さんが作成したロゴが人目を引く特殊塗料「オプティマス」シリーズ

 「オプティマス」の特徴は、汚れを防止し、白さが長続きすることです。また、セルフクリーニングの働きがあり掃除の必要がありません。遮熱断熱性にも優れています。体にも地球にも優しい、エコな水性塗料であることも、魅力のひとつです。

 「光触媒の技術は、日本の素晴らしい技術です。それを生かし、『オプティマス』をグローバルに誰もが知っている塗料にするのが、今後の目標です」と高尾さんは話します。

 高尾さんが8年過ごしたタイから引き上げ、次世代塗料オプティマスを販売するための会社「オプティマス」を大阪市で立ち上げたのは、2012年のことでした。

 「ブランディングと販売をやっていきたいと思っていました。堺にある母の工場ではなく、自分のチームを作っていくために、大阪市内に販売会社を立ち上げました」

特殊塗料の販売会社「オプティマス」を立ち上げた高尾一美さん

 母からの反対はなく、話は自然に進んだといいます。

 「母には『娘に羽ばたいてもらいたい』という思いが常にあるので、私に足かせをしようとしたことは一度もありません。私はその思いを常に感じているので、結婚もせず、夢にむかってがんばっている感じですよね。母が苦労している姿を見てきたので、私も母への思いはとても強いと思います」

 オプティマスの設立から約10年、「塗料は簡単に売れるものではない」と高尾さんは話します。

 特殊な塗り方が必要なのに、塗装会社が説明書を読まずに塗装してしまいクレームにつながったり、現場でもめたりしたこともあったといいます。高尾さんの思いに共感して入社してくれた社員たちが、辞めていったこともありました。

 「いい商品を販売し、自分が自信を持っていればみんながついてくると思っていましたが、10年経って考えが変わってきましたね。従業員を大切に考えて、感謝の気持ちを持つことが大切だと思っています」

 決して安いわけではないオプティマスの塗料。しかし、その機能や仕上がりの美しさ、施工後の充実したフォローなどに満足し、顧客は着実に増えています。

 地道に営業活動を続けた結果、日系の大手アパレル会社の東南アジアの店舗の路面や、アメリカ系大手コーヒーチェーンの国内全店舗のトイレに、オプティマス塗料が採用されました。東京に新しくできる大型商業施設でも、オプティマス塗料を廊下に使用することが決まっています。

オプティマスの塗料が使われたトイレ(同社提供)

 新しい取り組みに積極的にチャレンジする高尾さん。2019年からは、JAXAと早稲田大学とともに、光触媒を用いた航空機用防汚塗料に関する共同研究を始めました。

 さらに、2021年には、ドバイに会社を立ち上げました。

 「ドバイはヨーロッパ、アジア、アフリカへのハブなので、そこから世界に進出していきたいです」

 高尾さんは、塗料の製造は母が経営する宝榮産業で、販売は自ら立ち上げた販売会社という形を選びました。今後は宝榮産業の社長を別に立て、オーナーとしてやっていきたいと考えています。

 「将来的には、ホールディングのような感じにしたいです。『オプティマス』を成功させて、宝榮産業の工場をIT化、オートメーション化するなど、やりたいことは色々あるので、そこまではがんばりたいと思っています」

オプティマスが塗装された室内でインタビューを受ける高尾さん

 母と二代にわたり女性経営者として活躍している高尾さんですが、女性経営者としての苦労はあるのでしょうか。

 「男性の社長は横のつながりを大切にする方が多くいますが、私は飲み会やゴルフには参加しません。もし男性で積極的にいけていたら良かったなとは思いますが、私が最後まであきらめずにやりきればいい話だと考えていますので、女性経営者だから苦労しているとは思っていないです」

 最後に、女性の後継ぎの方に向けたメッセージを伺いました。

 「今はそのまま100%継ぐという時代ではないと思います。時代にあった継ぎ方や、時代に合った目線の違う新しい事業も入れながら継いだ方が絶対にいいですよね」

 「ただ、家業を継ぐというのは、選ばれ背負ったものがあるということ。外せないですし、外さない方がいいので、私は家業があるならば継いだ方がいいと思っています」

 「女性だからできないという時代ではありません。日本の女性には『こうあるべき』という目に見えない求められる像がすごくあると思いますが、そこにとらわれずにもっと大胆に活躍してほしいと思っています。そのためにも、まずは私が成功したいですね、本当に」

 経営で一番大事にしているのは「大胆さを忘れず、ダイナミックでいること」だと話す高尾さん。「やりたいことをやることが大切」と力を込めます。

 高尾さんの会社では塗料販売に加え、オプティマス塗料を使った新築物件・リノベーション、インテリアの提案、施工を行う「オプティマスハウス」と、ヴィーガンの料理やスムージーを楽しめる「オプティマスカフェ」の3つの事業を行っています。

オプティマスカフェのテラス席からの風景。こだわりの料理やスムージーが楽しめます

 自身の強い意志や思いで動いてきたことはあまりなく、「いつも周りの人や流れに沿って運ばれてきた感じです」と笑顔を見せる高尾さん。これからも周りの人々を大切にしながら感謝を忘れず、世界を見据えて大胆に進んでいきます。