葛藤を乗り越えた印刷会社の後継ぎ兄弟 縮小する市場で狙った新規事業
長野県松本市の藤原印刷は、創業家で専務取締役の藤原隆充さん(40)、東京支社営業部の章次さん(37)兄弟が、出版社が中心だったクライアントの幅を広げ、デザイン性が高く個性あふれる印刷物を生み出しています。兄弟は家業での葛藤や失敗を重ねながら成長し、従来の印刷業の枠にとらわれずデジタル時代を乗り切るビジネスに挑んでいます。
長野県松本市の藤原印刷は、創業家で専務取締役の藤原隆充さん(40)、東京支社営業部の章次さん(37)兄弟が、出版社が中心だったクライアントの幅を広げ、デザイン性が高く個性あふれる印刷物を生み出しています。兄弟は家業での葛藤や失敗を重ねながら成長し、従来の印刷業の枠にとらわれずデジタル時代を乗り切るビジネスに挑んでいます。
――藤原印刷の沿革と事業内容を教えて下さい。
藤原隆充さん(以下、隆充):祖母の藤原輝が1955年、タイプライター1台で独立した後、自宅を改造してドイツ製の印刷機を購入し、印刷の仕事を手がけはじめました。
63年には東京に進出。参考書、専門書系の出版社との取引を広げました。今は出版印刷、商業印刷、印刷物の企画・製作・デザインなど年間約5千件の仕事を受注しています。
100人弱の従業員を抱え、長野県松本市に本社と生産工場拠点を、東京・神田に営業拠点を構えます。
――お二人は東京都国立市出身です。子どものころ、藤原印刷とどのように関わっていましたか。
隆充:子どものころ、家の近所に会社の営業所がありました。ビルの奥に駄菓子屋があり、お菓子を買って会社で食べていました。
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長い休みには、創業者の長女である母に連れられて松本に行っていました。両親が仕事をしている間、工場に行くこともありましたが、印刷業への特別な関心はありませんでした。
藤原章次さん(以下、章次):家業への意識は兄貴よりもさらに薄かったです。ただ、本を粗末に扱ったときだけ、母にひどく怒られたのを覚えています。印刷の仕事をやっている家なんだと感じました。
――創業者にはどのような思いを抱いていましたか。
隆充:初孫で特別にかわいがってもらえて大好きでした。家業への意識が変わったのも、中学3年生のときの祖母との別れがきっかけです。悲しさはもちろんありましたが、たった1人のために、葬儀に驚くほどたくさんの人が集まり、泣いているのを見た衝撃の方が大きかったんです。
「ばぁちゃんの作った会社をなくしてはいけない」と強く思いました。
章次:兄貴とは祖母への印象が違います。私が物心ついたときの祖母は、体調が悪かったこともあって厳しい人に見えました。祖母を尊敬していましたが、会社は兄に継いでもらいたいのだろうと思っていました。
――大学卒業後、兄弟はそれぞれ別企業に入りました。このころ家業を継ぐ意思はなかったのでしょうか。
隆充:意思はありましたが、すぐに家業に入る気にはなりませんでした。就職活動では経営を学ぶことを意識してコンサルティング会社に入りました。
章次:大学1年生のころから人材系のベンチャー企業で働いていました。大学時代に遊んでばかりだった兄貴が会社で苦労しているのを見ていたから、働く経験を早めに積みたかったんです。
その後、兄貴が転職した人材系ベンチャーにアルバイトとして参加しました。兄貴と一緒に家を出て、仕事をして、家に帰る生活が本当に楽しくって。自分は何をやるかより、誰とやるかが大事なんだと気づきました。
兄貴と藤原印刷を継ぎたいと思いましたが、両親からは「継ぐのは長男だけでいい」と断られました。私は昔から物事が長続きしたためしがなく、親としては心配だったのでしょう。そこで、人材系ベンチャー企業に就職しました。
――2008年、隆充さんが先に家業に入りました。
隆充:27歳だった私は2社目のITベンチャーの仕事が楽しくて、家業の優先順位が下がっていました。しかし、あるとき弟と焼き鳥屋で飲んでいて「兄貴が藤原印刷に入らないと、俺が入れないじゃないか」と詰め寄られたんです。ようやく覚悟が決まり、翌日には辞表を出しました。
家業ではまず印刷部に入りました。藤原印刷は祖母がタイピスト、父が営業、母が経理です。印刷出身の社長がいないことを残念に思っていた印刷部の部長が拾ってくれました。体を動かして働くのが楽しく、7キロやせました。
しかしSNSを見ると、東京の友人たちは昇進したり数億円の予算を動かして働いたりして、活躍ぶりがまぶしくなっていきました。
正直、松本にはダイナミックさを感じませんでした。話題が地域内に限られ、ベンチャーのときのように「日本を良くしよう」というようなスケール感で考える人との出会いがなかったからです。
松本には友達がおらず、最初の2、3年は毎週末東京に帰っていました。今思えば、東京に逃げていましたね。
――当時の藤原印刷はデジタル化の影響を受け始めていましたか。
隆充:出版社からの受注が主体であることは、祖母の代から変わりません。出版市場のピークは1990年代後半で、私たちの入社前からデジタル化の影響はずっとありました。
出版市場は年々すさまじい勢いで縮小しており、対応しなければいけないという思いは常にありました。ただ幸いなことに、主力の参考書や専門書はデジタルに置き換わりにくいジャンルで、比較的売り上げが安定していました。
――危機の波を少し先延ばしできたということですね。
隆充:はい。しかし「何かしなきゃ」と無駄に焦っていましたね。社内で「できていないこと」ばかりが目に付き、親とぶつかるようになりました。
たとえば、ウェブサイトが古いことや、新卒採用の方法がハローワークのみで時代遅れだったこと、電子書籍について何のアクションも取れていないことなどです。
今振り返ると、将来のビジョンが見えていたわけでもなく、「何かする」ということがゴールになっていました。過去の文脈も踏まえず、途中から入ってきた人間に、周りが付いてこないのは当然でした。
――章次さんは後を追って、10年に入社しました。
章次:東京支店で営業を募集する話を聞き、社長になっていた母に直談判し、「1年で使いものにならなかったら辞めてもらう」という条件で入社できました。直前に印刷の専門学校に通ったもののどうしても肌に合わず、1カ月で辞めた経緯があり、母の信用を失っていたからです。
――先に入社して悪戦苦闘するお兄様の姿を見て、どのように感じましたか。
章次:私の場合はまず入社するのが目標でしたから、兄貴のように出版業界や会社の先行きを考えるより、会社に貢献できる人間であることを示すのが先でした。
学生時代はアルバイトも部活も続かず、人間関係でも合わない人とは無理に親しくしません。兄はピアノやバレーボールを10年続けて、誰に対してもオープンに付き合える、私と正反対の性格です。
中学生で不登校になったときも、浪人したときも気にかけてくれて、特に兄貴にはたくさん助けられてきました。
自分は準備して周りを調整して物事に取り組むのが苦手なため、臆することなく新しい挑戦をやりきることで、兄貴と藤原印刷を支えていこうと思いました。
0点か100点かという人間はピースがはまれば、うまくいくんです。私の場合は、兄貴と一緒に仕事をするのが面白いということが原動力でした。
――お二人は互いの得意、不得意を補いつつ、信頼し合えている印象です。
隆充:私は70点は取れても100点は取れない人間です。社会人になって何で勝負すればいいのか分からなくなった時期がありました。
一方、弟は大学1年生で社長のカバン持ちから始めて、メキメキ頭角を現していきました。実務執行能力も私より数十倍高いんです。営業経験も人材関連から再生エネルギーまで幅広く、価値を相手に伝える能力も極めて高いものを持っています。
器用貧乏な自分は一芸に秀でた人間を見いだし、モチベーターとして会社と従業員を有機的につなげる存在になることで、能力を発揮できると思うようになりました。
――「出版社の仕事が9割でモノクロ印刷一本」というビジネスの構造を変えるため、お二人は若いデザイナーに声をかけたそうですね。
章次:出版社の営業担当をしていましたが、編集者とのやり取りにおいてこちらから提案する機会が少なく、もどかしさを感じていました。
なぜなら、ベンチャー企業では、お客様の様々なニーズに対して提案する営業を経験していたからです。
「今の仕事が面白くないわけではないけど、60歳まで同じことを続けていいのか?」。そう思って、新しい仕事を自らつくりたいと考えました。
同じ業界の先輩に相談すると「本はデザイナーがいないと成立しない。その人たちに営業してはどうか」とアドバイスされました。
書店でデザイナーがたくさん掲載されている書籍を購入。主にグラフィックを手がけるデザイナーに自らメールして「ぜひ一度、お仕事でご一緒させてください」と伝えました。そのほか、大学時代の縁で親しくなったデザイナーにも仲間を紹介してもらいました。
デザイナーとの仕事が二重に広がる中で、特に「個人で本をつくる」という新しいマーケットで、デザイン性に凝った制作物を受注するようになっていきました。
使用済み段ボールを使った写真集や、本文を何カ所もくりぬいた歌集など、100人いれば100通りある個人のこだわりに印刷で応えることを目指したんです。
――従来の営業ラインにはなかったネットワークを広げたのですね。
章次:営業会議でも「出版社ではないところに営業する」と宣言していました。出版社は年間点数が決まっています。その何割かの仕事をとれば売り上げが見込めるため、競合他社も出版社に営業するんです。でも、自分はそこにはいかないと決めました。
本社のある長野県松本市でのネットワークも大きかったです。兄は土地になじめず苦労していましたが、松本から発信を続けることで受注できた新規案件もたくさんあります。
ビジネスの市場規模が大きい東京とは別に、異なる拠点を持つことも会社の個性として重要でした。
※後編では、デザインにこだわったオーダーメイドの本作り、BtoC出版ビジネスの強化、工場でのイベントなど、藤原兄弟が仕掛けたユニークな新規事業に迫ります。
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