110年前の1912年7月6日、スウェーデンのストックホルムで第5回オリンピックが開幕しました。

日本が初めて参加したオリンピックです。

ストックホルム五輪の開会式について伝える1912年7月9日付東京朝日新聞

3万人の観衆の中、わずか4人の日本選手団は10番目に入場行進しました。

選手団長は、柔道の創始者でアジア初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となった嘉納治五郎。

選手は、陸上短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三(しそう)でした。

 

三島は3種目に出場。

2種目は予選落ち、準決勝まで進んだ400メートルも疲労で棄権しました。

400メートル予選に出場し力走した三島弥彦(左)=1912年7月12日、スウェーデン・ストックホルム、朝日新聞社

一方、金栗は猛暑の中のマラソンに出場。

中盤を過ぎたあたりで倒れ、そのまま沿道の観客の家で介抱されて途中棄権となりました。

記録は「競技中に行方不明」でした。

金栗四三=1966年9月、朝日新聞社

それから55年後。

1967年、金栗のもとにスウェーデンから招待状が届きました。

「あなたは行方不明のままなので、ゴールしに来てください」

ストックホルム大会の開催55周年の記念行事でした。

「日本マラソンの父」と呼ばれた金栗は当時75歳。

ストックホルムでの行事で数十メートルを走り、思い出の競技場で念願のゴールテープを切りました。

金栗四三の「55年ぶりのゴール」を伝える朝日新聞記事

「ただいま日本の金栗選手がフィニッシュ。タイムは54年8カ月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了する」

会場では、そんな粋なアナウンスが流されたそうです。

金栗は、実に半世紀以上をかけてマラソンを“完走”しました。

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年7月6日に公開した記事を転載しました)