58年前の1964年4月28日、週刊誌「平凡パンチ」が平凡出版社(現在のマガジンハウス)から創刊されました。 

若者雑誌の草分けとされ、男性向けのおしゃれのテクニック、恋愛術、車の性能テスト、ヌードグラビアなどを掲載。 

創刊から2年で発行部数は100万部を超え、いわゆる全共闘世代から絶大な支持を得ました。

1967年4月7日の朝日新聞夕刊(東京本社版)で、山田宗睦・桃山学院大助教授(当時)は読者調査の数字を元に「日本の先進ベルト地帯の高校卒青年の週刊誌」と分析しています。 

警視庁が平凡パンチの出版元に警告したことを報じる1971年4月19日付朝日新聞朝刊(東京本社版)の記事

1971年4月には、パンチの記事をめぐって警視庁が平凡出版社に警告したとの記事が載りました。 

記事によると、新宿駅で補導された宇都宮市の少年(当時17)のポケットから「こうすれば華麗な<家出>にゼッタイ成功する!」というパンチの特集記事が見つかったそうです。

記事にある通りの持ち物を所持していたといい、影響力の大きさが伝わります。 

人気低迷を受け平凡パンチが表紙や中身を一新する背景を探った1983年7月20日付朝日新聞朝刊(東京本社版)の記事

しかし、1980年代に入る頃から低迷が始まり、当時の朝日新聞でも様々な理由が論じられました。 

・「ぴあ」などの情報誌のほか、ファッションやスポーツの専門誌が出て、先鋭的な役割を奪われたから 

・編集部が高齢化して身軽さやエネルギーが落ちたから 

・昔は人と同じ雑誌を手にしているのが格好良かったが、今は人と違う方が好まれるから――。

マガジンハウス社長(当時)の木滑良久氏。1960年代に平凡パンチの編集長を務め、80年代にも再登板した=1989年、東京都中央区、朝日新聞社

数度のリニューアルで復活を期しましたが、部数は大きく上向かず、結局1988年に休刊となりました。 

1985年9月の朝日新聞記事には、若者を相手にする編集者たちの一致した声として、次のような記述があります。 

「自分の知らない世界や自分と違う生き方をしている人間に、皆あまり興味を示さなくなった」 

現代にも通じる見方に思えますが、いつの時代も若者はそう言われるのでしょうか。 

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年4月28日に公開した記事を転載しました)