「おのざき」の4代目・小野崎雄一さんは姉2人を持つ末っ子長男。周囲から跡取りと言われることが多く「いつか自分が継ぐのだろう」と意識して育ってきたそうです。店はいつも活気にあふれ、従業員もお客さんも笑顔。幼心に家業を誇らしく感じてきました。
「中央線沿いにある西荻窪は魅力的な個人店が多くて、町の人みんなが知り合いのような雰囲気なんです。人情味があって、居心地がよくて、この町が持つ空気感が全国に広がれば、世の中はもっと良くなるんじゃないかと思ったことが今につながる原体験です」
当時アルバイトをしていたカレーバーでは、お客さん同士が仲良くなることもしばしば。いつか自分も店を持って起業し、街を彩るような存在になりたいと思うようになったそうです。
成城石井で学んだ「基本」の大切さ
今後、個人店を営んで生き残っていくために「高くても売れる力」が必要だと考えた雄一さんは、高級スーパー「成城石井」に就職。利益率の高い小売店で、商品価格が高くても売れる仕組みを学ぼうと考えました。
ところが、成城石井には想像していたような「売る」ために必要な複雑なシステムはありませんでした。ただひたすら「4つの基本」を貫くだけだったのです。
「とにかく『挨拶・クリンリネス・欠品防止・鮮度管理』の基本の徹底でした。当たり前のことを当たり前にやる。何事も土台は基本にあるという学びは、現在、おのざきの店舗運営にもいかされています」
東京で仕事を続けるなか、故郷・いわき市への思いも膨らみはじめます。「地元は何もない」と口々に言う同郷の仲間を見るたびに、悔しい気持ちが芽生えてきたのです。
「自分も『何もない』と思って上京したんですけど、東京に住んでみたからこそ海や山に恵まれたいわきの良さを感じるようになりました。当時は若気のいたりもあり、東京の巨大なマーケットの中で動かされているような感覚があって、都会に埋もれるより、いわきで『面白いことを作る側になろう!』と考えたんです」
雄一さんは目標であった自分の店を開くために、成城石井を入社2年目で退職。新たなチャレンジのため、23歳でいわき市へUターンを決意しました。
「会社が危ない、戻ってきてくれ」
いわきへ戻ると早速、自分の店をオープンするための準備に取り掛かります。店は、カレーと台湾スイーツ、古着屋の複合ショップ。西荻窪で培った経験と台湾出身の母の味、自分自身が好きな古着を掛け合わせた新しい試みです。
運よく好立地のお店が見つかり、内装工事も順調に進んでオープンまであと少し。そんな矢先、代表取締役社長の父・幸雄さんから連絡が入ります。
「会社が危ない。戻ってきてくれないか」
まさかと思いつつも、急いで決算書を見せてもらうと赤字続きで、会社は倒産寸前。東日本大震災後に福島県沖の水揚げ量が極端に減った影響や、風評被害による魚の買い控えも、会社に大きなダメージを与えていました。
「自分が入って業績を立て直せるかはわからないけど、このままだと100人の従業員が路頭に迷ってしまうかもしれない。お客さんにも迷惑をかけてしまう。後悔はしたくないと思いました」
雄一さんはオープン間際だった店を諦め、家業に入ることを決意。当時の心境はとにかく「必死」だったと振り返ります。
経営理念は「街をもっと多彩に、もっと面白く」
2020年1月に会社に入ってまず初めにおこなったことは経営理念を作ることでした。
というのも、祖父や父は常に現場主義で突き進んできたため、会社の指針となるような経営理念がなかったのです。
「経営理念がないとはいえ、100年続いてきた理由があるはず」だと考えた雄一さんは、意思決定してきた一貫性を言語化するために、創業家全員を集めます。ホワイトボードに過去100年の歴史を書き出して、「このときはなぜこの判断をくだしたのか?」「このときはどう思った?」など、祖父や父に一つひとつ尋ねていきました。
そうして見えてきたのは、カツオを箱で贈る文化を根付かせたり、当時としては珍しく鮮魚店が寿司屋を出店したりと、さまざまな挑戦を通して「おのざき」が街を彩ってきた歴史です。
いわき市は、初夏になれば初ガツオの水揚げで町中が活気づき、秋にはサンマ、冬にはカレイやアンコウなど、四季を通して魚を楽しむ食文化があります。この食文化は街の個性そのもの。そして、魚屋である自分たちがそれを支えてきた誇りがある。
改めて「おのざき」は街にとって欠かせない存在であったことを認識した雄一さんは、先代たちが築き上げてきたものを大切にしながら、自分が作りたい世界観を加え「街をもっと多彩に、もっと面白く」と経営理念を掲げました。
家業に入って見えた課題は「1000個以上」
「会社に入って見えた課題は1000個以上あるかもしれません」
老舗企業として伝統を守り、独自の文化を築いてきた一方で、新しい価値観や試みをとり入れてこなかったことに着目した雄一さんは、新しい改革を次々ととり入れていきました。
採用は長い期間行われてこなかったため、従業員の中心は50〜60代。優秀なベテランスタッフがいる一方で、若い人材が確保できず、世代交代がうまく進んでいませんでした。
そこで、20代のU・Iターン者や副業人材を取り入れ、マーケティングやプロモーションなどの戦略部分を強化。EC事業としてオンラインストアを立ち上げ、魚を加工したオリジナル商品の開発にも乗り出しました。
そうした改革の成果が、雄一さん主導で開発した「金曜日の煮凝(にこご)り」です。コスメのようなパッケージで女性でも手に取りやすく、今までの煮凝りのイメージを一新。アンコウなどの常磐ものを使用し、白ワインやオリーブオイルとの相性良く仕上げた逸品です。ECサイトでの販売で順調に売上を伸ばし、県外のファンも獲得しました。
さらに、自店舗での販売にも力を入れています。
2021年いわきラトブ店の店長に就任した雄一さんは、旬の魚の美味しさを伝えようとパックに手書きでメッセージを加え、陳列にも工夫を凝らしました。そうした地道な努力の積み重ねで、売り場面積が縮小された厳しい環境のなかでも、前年より売り上げをアップさせました。
また、「手軽に魚を食べてほしい」との思いから、サバサンドの販売を企画。骨を丁寧に取り除き、価格もワンコイン(500円)に抑え、普段魚を食べない人にも美味しさを伝える工夫を施しました。店頭にて販売したところ限定30個が即完売し、その反響に驚いたそうです。
新たな試みを次々と行っていくなかで、魚に秘められた可能性を確信したといいます。「日本人の『魚離れ』が叫ばれていますが、変わりゆくニーズに対応すれば、魚はまだまだ可能性がありますよ。だって魚って美味しいじゃないですか!」
おのざきの長い歴史の中で過去最大の赤字を計上した翌年に入社をした雄一さんですが、EC事業部の立ち上げや業務のデジタル化、成城石井で学んだ「基本」の徹底などによって業績を改善。ようやく13年ぶりに黒字化が見えてきたと目を輝かせます。
SNSでの情報発信も積極的におこなっています
“ふくしま”から持続可能な水産業を発信したい
水産業の抱える課題にも向き合っています。
水産庁によると、日本の漁業生産量は1984年がピークでその後ゆるやかに減少。諸外国に比べても大きく衰退し、生産量はピーク時の半分ほどになってしまいました。雄一さんは、これからの水産業を守っていくためには「限りある漁業資源を次世代に残す意識を持つことが大切」だと語ります。
2011年の東京電力福島第一原発事故の直後、原発の汚染水が海に流され、福島沿岸の漁は自粛に追い込まれました。その後は、放射性物質の検査をして安全性が確認できた魚に限って少しずつ流通させながら市場の反応をみる「試験操業」が10年間続けられてきました。
時間の経過とともに海中と魚の放射性物質はどんどん減っていき、安全性が確保されたため、2022年4月以降は通常の本格操業へとようやく移行。現在は漁の制限を段階的に減らしながら、水揚げ量の拡大に取り組んでいます。
「魚を獲らない期間が長くあったことで、いま、福島の魚は肉付きがよく、資源量も回復しています。しかし、今までのように大量に獲って安く売るやり方で資源を枯渇させてしまったら、同じことの繰り返しです。漁ができない経験をした福島だからこそ、現場から次の世代を見据えた持続可能な水産業を発信していきたいんです」
そこで雄一さんは、魚をさばく作業のなかで大量に破棄される魚の「アラ」に着目。アラを使っただし製品などができないかと、商品化に向けて動き始めました。
「現場で魚をさばくようになり、旨味も栄養も含まれている『アラ』が大量に捨てられていることに“もったいない” と感じました。そこで、アラを活用して環境に配慮した、サステイナブルな商品を作れないだろうかと考えたんです」
しかし、魚のアラを商品化するには研究開発や設備投資などたくさんの壁がありました。そこで、雄一さんはクラウドファンディングに挑戦。1カ月あまりで、目標金額の100万円を大幅に上回る163万円の支援を集めることに成功しました。現在、魚のアラを活用したプロジェクトは、新商品開発に向けて歩みを進めています。
「美味しい魚を届ける」ただそれだけ
次々と変革を行う雄一さんですが、決して順風満帆というわけではありません。
変化を志向する若手社員と、今までのやり方を重んじるベテラン従業員との壁を取りはらうための試行錯誤には苦労も多いそうです。
また、政府は2023年春に原発の処理水を海洋放出する方針を決定しました。科学的には安全とされても、他地域と競争していくうえで放出がマイナス材料になることは避けられません。福島の漁業者を取り巻く環境は、依然として厳しい現実があります。
しかし、雄一さんはこう語ります。
「おのざきは東日本大震災発生後、混乱のなか3日後には店舗を再開し、地元の人たちへ食材を提供して来ました。さらに、福島県の水産物の安全をアピールするための風評払拭活動も積極的に行って来ました。海洋放出することで、確実にまた風評被害を受けると思います。しかし、魚屋としては『美味しい魚を届ける』ことしかできません。その基本をこれからも地道に貫いていきたいです」
現状に下を向いてばかりいるのではなく、福島の水産業は持続可能な未来に向かって力強く進んでいます。「面白くて新しいことで街を彩りたい」という雄一さんの挑戦は、まだ始まったばかりです。