目次

  1. 「継ぐのが宿命」という感覚
  2. 忘れられていたウイスキーが復活の原動力に
  3. 最初は「ゴムが焼けたような臭い」だった
  4. 「衝撃が走った」曽祖父からの贈り物
  5. クラファンで設備を一新
  6. 鋳造製の蒸留器を世界で初めて開発
  7. 樽の再生も地元で
  8. 日本初のボトラーズ事業を立ち上げ
  9. 地域を巻き込んだビジネスづくり

 1862年に創業した若鶴酒造5代目の稲垣貴彦さんは幼少期から、3人兄弟の長男である自分が家業を継ぐものと思い育ちました。「富山県の場合、長男が継ぐのが宿命みたいなもの」という感覚があるといいます。子供のころから蔵に出入りし、家業が身近な存在であることも大きな要因でした。

 ウイスキーと最初に出会ったのは、富山の高校から大阪の大学に進学したときのことです。

 子供のころから渓流釣りが好きだった稲垣さんは、大学で釣部に入りました。沢登りをして渓流釣りをする山での合宿の際に「酒蔵の息子ですから、若鶴の(日本酒の)一升瓶を持って行ったんですが、重すぎました」と、アルコール度数が高く軽いウイスキーを持ち運びするようになります。

 ただその時に持っていったのは若鶴酒蔵のウイスキーでなく、他社メーカーの物でした。当時の若鶴酒蔵はウイスキー造りに「誰も力を入れてなかったから」だといいます。

 大学卒業後は、外資系メーカーに入社。稲垣さんの父親と同じように別の会社からキャリアをスタートさせたのは、「外の飯を食わないと、自分の会社の常識がずれているかどうか分からなくなるから」という理由からでした。3年半後、実家のグループ再編があり、2015年に家業に入ることになりました。

ウイスキー造りが行われている三郎丸蒸留所

 実は若鶴酒造は、北陸コカ・コーラボトリングの前身である北陸飲料を1962年に立ち上げた企業でもあります。曾祖父にあたる2代目・稲垣小太郎氏が、1952年のウイスキー製造から10年後に興した事業でした。2022年現在、若鶴酒造は北陸コカ・コーラと経営を同じくする企業グループを構成しています。

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