ウイスキーだけでなく「文化」を造る 若鶴酒造5代目の挑戦
北陸で唯一、ウイスキーを製造する若鶴酒造(富山県砺波市三郎丸)。5代目の稲垣貴彦さん(34)は、「なんとなく」続けられていたウイスキー造りを立て直し、赤字状態を解消しました。地元でも知られていなかった若鶴のウイスキーは、「三郎丸」として今では愛好家から注目される存在にまで成長。ウイスキーを造るだけでなく、樽(たる)造り・蒸留器造りを通じて、ジャパニーズウイスキーの文化を豊かにしようとしています。
北陸で唯一、ウイスキーを製造する若鶴酒造(富山県砺波市三郎丸)。5代目の稲垣貴彦さん(34)は、「なんとなく」続けられていたウイスキー造りを立て直し、赤字状態を解消しました。地元でも知られていなかった若鶴のウイスキーは、「三郎丸」として今では愛好家から注目される存在にまで成長。ウイスキーを造るだけでなく、樽(たる)造り・蒸留器造りを通じて、ジャパニーズウイスキーの文化を豊かにしようとしています。
目次
1862年に創業した若鶴酒造5代目の稲垣貴彦さんは幼少期から、3人兄弟の長男である自分が家業を継ぐものと思い育ちました。「富山県の場合、長男が継ぐのが宿命みたいなもの」という感覚があるといいます。子供のころから蔵に出入りし、家業が身近な存在であることも大きな要因でした。
ウイスキーと最初に出会ったのは、富山の高校から大阪の大学に進学したときのことです。
子供のころから渓流釣りが好きだった稲垣さんは、大学で釣部に入りました。沢登りをして渓流釣りをする山での合宿の際に「酒蔵の息子ですから、若鶴の(日本酒の)一升瓶を持って行ったんですが、重すぎました」と、アルコール度数が高く軽いウイスキーを持ち運びするようになります。
ただその時に持っていったのは若鶴酒蔵のウイスキーでなく、他社メーカーの物でした。当時の若鶴酒蔵はウイスキー造りに「誰も力を入れてなかったから」だといいます。
大学卒業後は、外資系メーカーに入社。稲垣さんの父親と同じように別の会社からキャリアをスタートさせたのは、「外の飯を食わないと、自分の会社の常識がずれているかどうか分からなくなるから」という理由からでした。3年半後、実家のグループ再編があり、2015年に家業に入ることになりました。
実は若鶴酒造は、北陸コカ・コーラボトリングの前身である北陸飲料を1962年に立ち上げた企業でもあります。曾祖父にあたる2代目・稲垣小太郎氏が、1952年のウイスキー製造から10年後に興した事業でした。2022年現在、若鶴酒造は北陸コカ・コーラと経営を同じくする企業グループを構成しています。
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その関係で稲垣さんはまず、2015年に北陸コカ・コーラに監査として入社。その後に経営企画室へと異動し、一貫して若鶴酒造を含めた子会社の数字を見る仕事をしました。そして、2016年に祖業である若鶴酒造に関わることになります。
この頃の若鶴酒造は赤字会社で、1万8千石の日本酒を製造していたピーク時からずっと下降を続けていました。売り上げのほとんどは日本酒が占めており、1952年から製造してきたウイスキーが占める割合はわずか10%程度。地元の人からも富山弁で「まだ若鶴でウイスキーつくっとたがけ?」と聞かれるほど、ひっそりとした存在でした。
そこから約6年。2022年現在、若鶴酒造の売り上げにおけるウイスキーの比率は、10%から50%超へと劇的に増えました。結果的に全体の売り上げも大きく伸び、黒字化を達成。ウイスキーが原動力になり、若鶴酒造は復活を遂げたのです。
若鶴に戻った直後の稲垣さんは、「経費を抑えるぐらいでは、赤字状態を建て直せない」と感じていました。根本的な解決策としては売り上げを上げるしかありませんが、「日本酒のマーケットが落ちる中で、何か新しいことをしないと良くならない」状況でした。そこで稲垣さんは、曾祖父のはじめた半世紀以上の歴史をもつウイスキーで戦うことを考え始めます。
NHKのドラマ・マッサンの影響で、ウイスキーはわずかに上向いている状況ではありました。しかし当時の若鶴のウイスキーはゴムの焼けたような臭いが強く、おいしいウイスキーとは遠い状況。稲垣さんも「なんでこんな味なんだろう」と感じていました。従業員も「言われた通りに造っています」と言うばかりで、どうしたらおいしくなるか、考えて作る人はいなかったといいます。
そんな時、曽祖父が1960年に蒸留した、55年前のウイスキーの原酒が偶然見つかります。「こんな古いもの売れないでしょ」と従業員が思い、放置されていたものでした。それを飲んだ稲垣さんは、「衝撃が走った」といいます。50年以上熟成された積み重ねがないと出せない味わいで、その当時若鶴で造られていたウイスキーと明らかな違いがありました。
後からわかった話ですが、創業当時は銅製だった蒸留器が、ステンレス製に変わったことで、味に違いが出ていました。それ以外の部分でも、創業当時と造り方が異なっていることが明らかになっていきます。
「曽祖父のように自分も半世紀後に残せるものが造れるのだろうか」。衝撃を受けた55年熟成ウイスキーの味をきっかけに、稲垣さんはウイスキー造りへと邁進していくことになります。「半世紀後に残せるもの」という言葉は、稲垣さんのウイスキー造りのスタンスを示すもの。地ウイスキーであった若鶴のウイスキーをクラフトウイスキー「三郎丸」として生まれ変わらせる過程で、ウイスキー文化を支える様々なプロジェクトを次々と生み出していくことになります。
曽祖父の味を経験して以降、「なぜ今のウイスキーは、こんな味になっていたんだろう?」と研究が始まりました。
他の蒸留所を訪れたり、試験用の小型蒸留器を購入したり、濾過(ろか)により硫黄を除去をしたりと、色々と実験を繰り返します。「なぜか緑色やピンクになってしまった」ことも。試行錯誤のすえ、銅製の蒸留器の新設や、原材料であるモルト(麦)の粉砕機の導入を決めていきました。
設備だけでなく、蒸留所自体も古かったため、雨漏りなどの問題が発生していました。そこで、蒸留所の名前を「三郎丸蒸留所」に変更。その修繕と、おいしいウイスキーを造る設備導入をするため、クラウドファンディングにチャレンジします。
その資金で蒸留所の修繕ができ、隣町・高岡市の高岡銅器の技術を使って銅板金製の蒸留器を作り、粉砕機を購入することができました。求める味に必要な設備が、徐々に整い始めていったのです。
稲垣さんは、物事を考えるスパンが長く、文化自体を作り出そうとする独自の視点をもった経営者です。よりおいしいウイスキーを造るのと同時に、ウイスキー造りを持続的にする事業へ投資して、ウイスキー文化自体が豊かになる活動をしています。その結果、近隣地域にもビジネスを創りだしました。
その一つが、富山県高岡市の伝統工芸・高岡銅器の技術を使い、鋳造技術で作り出した世界初の鋳造製蒸留器 ZEMON(ゼモン)です。
クラウドファンディングを行った際には、高岡銅器の技術を使って、板金による銅製の蒸留器を作っていた稲垣さん。板金は金属の素材をたたいて伸ばして作る方法で、多くの蒸留所で使われている一般的な方法です。
しかし稲垣さんはこのとき、「鋳造(型に金属を流し込んで作る方法)でも作り上げることが出来るのではないか?」と考えました。鋳造で作ることが出来れば、従来の板金の蒸留器よりも「肉厚になって耐用年数が長くなる」と考えました。
研究の末、2019年に世界初の鋳造製銅錫(すず)合金蒸留器 ZEMON(ゼモン)が生まれます。
開発は、大型の釣り鐘製造を手がける老子製作所が担いました。全く新しい方法で従来の蒸留器に比べて耐用年数が長く、錫が使われている効果で高い酒質を実現したZEMON(ゼモン)は、国内特許に加えてウイスキーの本場であるイギリスでも特許を取得。老子製作所の商品として販売されており、他の蒸留所でも導入がはじまっています。
また、樽についても問題意識を持ち、手を打ち始めました。ウイスキーは原酒を樽で熟成して完成させますが、その時の樽は、他のメーカーがバーボンなどの熟成に使った樽を購入し使います。しかし世界的なウイスキーブームが起こった結果、樽が不足する事態となってしまっていたのです。また樽を焼き直して再生したり、修理したりできる企業も、独立系では日本に1社しか残っていない状況になっており、稲垣さんは危機感を覚えました。
若鶴酒造のある砺波市の隣の南砺市には、井波地区という、日本一といわれる木彫刻の街があります。人口約8,000人の小さな街に、木彫り職人が200人住み、活躍する街です。
稲垣さんは「蒸留所が増えている中で、海外から買っているだけでは必ず樽が足らなくなる」という危機感もあり、井波の木彫りの技術を使って、樽の修繕や再生が行えるのではないかと考えました。井波の木材関連企業に話を持ち込むと、井波の島田木材と山崎工務店の協力で、樽の修繕やミズナラでの樽づくりをする事が可能となりました。井波で、新しい樽産業が始まったのです。
ウイスキーの業態は、”オフィシャル”と呼ばれる「蒸留所自身で原酒づくりから熟成しボトリング(瓶詰め)までを行う業態」と、”ボトラーズ”と呼ばれる「他社から仕入れた原酒を熟成しボトリングを行う業態」に分かれています。
ボトラーズはオフィシャルと異なる樽で熟成をしたり、オフィシャルとは違う年数で熟成をしたりすることで、ユニークで希少性の高いウイスキーを産み出しています。ただ、日本のウイスキーメーカーは全てオフィシャルと呼ばれる業態で、熟成とボトリングだけを行うボトラーズ事業者は存在していませんでした。
ボトラーズ事業は、ウイスキー文化を豊かにするために欠かせないもので、この業態があるからこそ、数多くのユニークな味わいのウイスキーが生まれる上、蒸留所の経営安定にも寄与するものです。
蒸留所は原酒を作り、そこから数年の熟成期間を経てからウイスキーを販売して初めて売り上げがたつ構造です。その間収入がないなかで仕込みを続けなければならないのですが、そこにボトラーズが介在することで、熟成を待たずに原酒製造時点で入金が可能となります。ウイスキーの本場スコットランドでも、オフィシャルとボトラーズの両社が手を組むことで、ウイスキー文化が守られ、拡大してきました。
稲垣さんは、同じ富山在住のシングルモルト通販モルトヤマ店主・下野孔明氏と共に、日本初のボトラーズ事業者「T&T TOYAMA」を、2021年に立ち上げています。この活動も「ジャパニーズウイスキー文化を広げ、持続可能なもの」にするため。日本でもボトラーズ事業が広まれば、ウイスキー文化のすそ野が広がると感じているといいます。
稲垣さんは、自社のウイスキーの味を改善し、その状態を持続可能にするために、鋳造の蒸留器・ZEMONの開発を行い、木彫りの街で樽工房を立ち上げました。また、ジャパニーズウイスキーのすそ野を広げるボトラーズ事業にも取り組んでいます。一つの企業の動きが、地域全体にビジネスを作り上げた形です。全ては、「ウイスキー文化」を創るために行っています。
若鶴酒造のウイスキー造りは70年、樽を修繕する井波の木彫りの技術は250年、ZEMONをつくる高岡銅器の技術は400年続いています。そんな地域を巻き込んだウイスキービジネスは、今後長い時間をかけ、富山県をウイスキーの聖地にしていくのではないかと感じます。
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