かわいがってくれた職人と衝突しても 石川べっ甲製作所7代目の改革
1802年創業の石川べっ甲製作所は東京都江東区に工場と直営店を構え、べっ甲製品の製造販売を手がけています。7代目の石川浩太郎さん(44)は、家業の立て直しを図るべく商社マンから転身。ベテラン職人との衝突や経営危機を乗り越え、2011年には直営店をオープン。卸売りから小売りへとビジネスを転換して家業を軌道に乗せました。
1802年創業の石川べっ甲製作所は東京都江東区に工場と直営店を構え、べっ甲製品の製造販売を手がけています。7代目の石川浩太郎さん(44)は、家業の立て直しを図るべく商社マンから転身。ベテラン職人との衝突や経営危機を乗り越え、2011年には直営店をオープン。卸売りから小売りへとビジネスを転換して家業を軌道に乗せました。
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独特なあめ色が美しいべっ甲製品は、熱帯の海に生息するタイマイというカメの甲羅を熱と水と圧力だけで張り合わせて作られます。石川べっ甲製作所は創業以来220年もの間、べっ甲製品の製造を担ってきました。
7代目の石川さんも職人のひとりで、現在は8人の従業員と江戸べっ甲の技術を生かし、腕時計やネックレス、ピアスなど多彩な商品を生み出しています。2021年度の年商は8千万円です。
べっ甲製品といえば、かんざしや帯留め、眼鏡が有名ですが、同社の主力商品は腕時計です。
「腕時計だけで20種類以上ありますが、べっ甲の柄には一つとして同じものはないので、どれも唯一無二の品です。べっ甲は素材としても優秀で、身につけているうちに体温で曲がり、自然と体になじみます。天然素材のため金属アレルギーの心配もありません」
汗や水に弱いのがべっ甲の欠点でしたが、現在はコーティング技術が発達し、長時間の着用も問題ないそうです。「時計は眼鏡のように度数も関係ありません。男女問わず身につけられるので、お子さんやお孫さんに受け継ぐこともできます」
情熱があふれる語り口に反し、石川さんは「(子供のころは)家業を継ぐ気は全くありませんでした」と笑います。
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かつては石川さんの自宅1階に同社の作業場があり、小学校から帰ると作業場に直行するのが日課でした。
「1階ではおやじと職人たちが肩を並べて働いていました。手仕事を経て何ができあがるのか、ながめるのが好きだったんです。大人たちが黙々とべっ甲に向き合っている景色は、学校にはない大人の世界でした。ベテラン職人さんに『お前、触るなよ』『邪魔すんなコノヤロー!』『ちょっとは手伝えよ』って言われたな(笑)」
キツい口調ながらも江戸っ子の職人たちにかわいがられた石川さんは「かっこいい大人の職人から、(子供扱いでなく)人間として扱われているようでうれしかった」と振り返ります。
当時、同社には約25人の従業員がいました。石川さんの父で先代の英雄さんが率いた最盛期はバブル崩壊前で、作れば作るほど売れたといいます。
しかし先代は「お前も好きなことをやれ」という方針でした。石川さんは「継ぐよう強制されたことはありませんし、べっ甲が何なのかすら教わりませんでした」。
石川さんが中学1年生のころ、同社は大きなピンチに見舞われました。1990年代前半のバブル崩壊です。
「それまで商売は順調そのもの。おやじは銀行から融資を受け、設備投資に充てていましたが、バブル崩壊で返済が滞るようになりました」
流通システムも大きな打撃を受けました。従来はべっ甲メーカーの商品を問屋が買い上げ、小売店へ卸していました。しかし、バブル崩壊で小売店からの注文が激減。問屋もメーカーを抱えられなくなりました。
「当時うちの売り先は問屋だけでしたが、注文が目に見えて減りました。おやじも初めての経験に頭を抱えていました」
同社を襲ったピンチはこれだけではありません。92年にワシントン条約でべっ甲製品に使われるタイマイの輸出入が全面禁止になったのです。
今はそれ以前に輸入したタイマイを使っています。石川さんは「自分の代の分の素材は確保している」としながらも「家業に大きな影を落とした事件であることには違いない」といいます。
職人の一部を外注に切り替え急場をしのぎましたが「売り上げが大きく落ち込み、素材が入らない不安もある。おやじからは『経営なんてしないほうがいい』と言われました」。
石川さんは専門学校卒業後、経済を学びに米ロサンゼルスの大学に留学。根底には家業の役に立ちたいという思いがありました。
「いつか商社を興し、ビジネスを通じてタイマイの輸出入禁止を内部から変えるきっかけづくりができるのではないかと思ったんです」
大学卒業後、帰国した石川さんは小さな商社で時計の輸入に関わりました。「社長との距離が近い会社なら、経営のイロハを近くで学べると思いました」
バイヤーとしてドイツと日本を行き来する中で、胸をつかれたのが取引先のドイツ人の言葉でした。
「なぜ実家が特殊なものづくりをしているのに継がないんだ。バイヤーはお前以外にもできる。でも老舗べっ甲屋の仕事はお前じゃないとできない。自分にしかできない仕事がある奴は、それをやるべきだ」
欧州ではビジネスの観点とは別に、歴史や文化を大切にする考え方が根付いていました。「お金だけでなく、仕事そのものに対して価値を感じる心がある」。石川さんはハッとしました。
同社は2003年にも危機に陥りました。バブル崩壊以降も売り上げは低迷。人件費を削ってやりくりしても好転しません。石川さんは家業を手伝っていた姉から説得されて同年に1年間の期間限定で入社し、立て直しを図りました。
家業の帳簿を見た石川さんは多くの問題点に気付きました。まず着手したのは、べっ甲同士を張り合わせた板状の半製品(パーツだけの在庫)を組み立てて売ることでした。同社は急な追加発注や単価ダウンに対応すべく、常に余剰分を製造していたのです。
「そのため当時は半製品をたくさん抱えていました。これらは減価償却も済んでいたので、あとは組み上げて売ればいい。問屋が買ってくれないなら、お客様に直接届けようと考えました」
石川さんは各地のデパートの催事に続々と出店。社員総出で自社製品を売り込みました。メーカーが直接商品を売れば消費者も割安に購入できます。直販に手を付けていなかった同社にとって、新たな挑戦でした。
石川さんは兄弟子への質問を重ね、時には職人の技術を見て盗み、べっ甲製品作りの技術を身につけました。そして、職人の作業効率改善にも着手しました。
まずは過去の製造実績を月次で数値化。毎月の目標値を割り出し、1人当たりが達成しなければならない製造数を見える化して、職人に「もっと効率を上げてほしい」と呼びかけました。
「でも理解してもらうのに時間がかかりました。若いやつがいきなり出てきて生意気だ、と」
大きく衝突したのは、幼いころから石川さんをかわいがってくれた職人で、「だからこそとてもキツかった」と語ります。先代になだめられつつも、石川さんの意志は揺るぎませんでした。
「企業は時代の変化に順応しなければなりません。そのためなら、職人に怒られても嫌な役回りになっても構わない。きちんと結果で示し、将来的に理解してくれればという思いでした」
石川さんは徹底的に無駄を省きました。職人が作業に取りかかるより先に自らサンプル品を作成。職人がサンプル品を見ながら作業できるようにしました。これによって職人の作業効率が上がっただけでなく、大切な材料を無駄にすることもなくなりました。また生産過程で職人たちの知恵やアイデアがわくなどの副産物も得られました。
気づけば入社から約5年が経っていました。催事販売を繰り返し、売り上げは徐々に回復。衝突を繰り返した職人もこの結果を見て、石川さんの方針に納得してくれました。
父英雄さんに病気が見つかったのはその矢先でした。「僕が継ぐしかない」。石川さんは腹を決め、10年に同社の代表取締役に就任しました。
就任翌年の11年、石川さんは東京・亀戸に直営店の「江戸鼈甲屋」をオープンしました。以前衝突した職人も「お前がやるなら成功するんじゃないか」と賛成してくれました。
石川さんによると、江戸時代、隅田川周辺にはいくつもの職人長屋があり、周辺の旦那衆が「ひいきの花魁に贈りたい。他のどこにもないかんざしを作ってくれ」などと注文していたそうです。
「素材ごとに柄が異なるべっ甲はまさに唯一無二。個人の体形や用途に合わせるには、お客様の話に耳を傾けられる、職人長屋のような場所が必要だと考えました」
顧客の言葉をアイデアに商品化したものもあります。同社は20年、東京都中小企業振興公社によるプロジェクト「東京手仕事」の工房に選出。若手デザイナーと商品開発を進め、ガラスとべっ甲を組み合わせた「TOWA GLASS」をつくりました。
「デザイナーさんのデザインラフに、持ち手にべっ甲を用いたワイングラスが描かれていたんです。以前、お客様が『べっ甲のグラスがあればいいのに』と言っていたのを思い出しました。お祝いの席で使える縁起の良い品です」
石川さんはべっ甲製品のリペア(修復)も展開しています。注文件数は1週間で10件ほど。他社製品から年代物まで対応できる工房は珍しく、全国から問い合わせがあるそうです。
「家族から受け継いだ大切な品を預けてくださるお客様も多い。べっ甲製品が生まれ変わり、涙を流す方もいらっしゃいます。修復することでお客様のストーリーを次世代へつなげられる。それこそが、伝統工芸を生業にする意義だと思うんです」
石川さんが後を継ぎ、販売ルートの約8割を小売りに転換。同社の業績は回復しました。しかし、新型コロナウイルスの影響で20年以降は厳しい状況が続いているといいます。
「コロナ以前は1.2億円あった年商が約4割減少しました。催事の中止や外出自粛要請などが響いた形です。べっ甲製品のような歴史的・文化的背景のある工芸品は、作り手の話を聞いて手に取って買いたいお客様が多いですから」
22年は徐々に展示会や催事が復活しましたが「お客様がべっ甲製品のような嗜好品に目を向けるのは最後の最後。まだ油断できない」と語ります。
「きっと世の中はコロナ前と同じには戻りません。23年は新たなゴールを明確に見定めたいと思っています」
石川さんが経営とともに力を注ぐのが、タイマイの養殖プロジェクトです。東京と長崎のべっ甲組合による共同事業で、12年前に亡くなった父英雄さんが発起人になり、06年にスタートしました。石川さんも出資者のひとりとして携わっています。
沖縄・石垣島にある研究所では、すでに人工孵化を成功させ「絶滅危惧種の種の保存」にも一役買っています。
「タイマイの命をいただく以上、無駄にはできません。甲羅はべっ甲製品、革は革製品、肉は食用で使えるよう、仕組みを整えているところです」
石川さんが目指すのは、タイマイを輸出できる未来です。
「養殖のタイマイで作った、メイド・イン・ジャパンのべっ甲製品を世界に流通させるのが夢です。息子として父の遺志を継ぎ、このプロジェクトを無事完遂させて、次の世代にバトンを渡したいですね」
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