食欲をそそる香ばしいニンニクの香りが店の外にまで立ちこめていました。筆者が取材で訪れた23年1月、ブエノチキンの店舗はランチタイムを過ぎたにもかかわらず、テイクアウトでチキンを買いに来る客が絶えませんでした。
値段は1羽(3~4人分)で2千円です。浅野さんは「ECサイトの販売分を含めて1日約300羽を焼いています。クリスマスシーズンは1日500羽くらいになります」と話します。
ブエノチキンは、自然が多く残る沖縄北部の「やんばる(山里)」にある指定農場で育てられた「やんばる若鶏」を使っています。秘伝のタレに2日間漬け込み、ニンニクをたっぷり詰め込んで、ロースターでじっくり焼き上げます。
焼きたてをほおばるとジューシーな肉汁がにじみ出し、柔らかい鶏肉のうまみが口いっぱいに広がります。ハーフサイズ(1~2人分、税込み千円)でもかなりのボリュームですが、後味を引くニンニクの香りとお酢のさっぱりとした味わいで、1人で完食してしまいました。
ブエノチキンは浅野さんの誕生と同じ1982年の創業です。自営で食品販売をしていた父・幸喜孝英さんが自分の店を持ちたいと考えていたところ、売りに出されていたローストチキンの店を買い取りました。
味付けは昭和初期に沖縄からアルゼンチンに移住して戻ってきた人々が持ち帰ったローストチキンを孝英さんの前のオーナーが再現。アルゼンチンの首都ブエノスアイレスをイメージし、「ブエノチキン」と名付けました。
当時の顧客は地元の主婦層が中心で、夕飯のおかずやおつまみとして購入。浅野さんの両親が1日20羽ほどを焼いて販売していたそうです。
両親とも毎日働きづめで、浅野さんは「家族で食卓を囲んだ記憶がない」と振り返ります。小学校から下校した後は祖母の家で過ごし、夜10時ごろに両親が迎えに来て寝ている浅野さんをおぶって帰宅する日々でした。
「深夜になっても両親はずっとチキンに詰め込むニンニクをむく作業をしたり、帳簿を付けたりしていました。2人ともニンニクで手荒れが激しく、『この仕事を私がやるのは嫌だな』とずっと考えていました」
広告会社でコピーライターに
学生のころは公務員や地元の電力会社への就職を志望していました。母幸子さんからも「安定した仕事に就きなさい」と再三言われたそうです。電力会社には最終面接まで残りましたが、内定は得られませんでした。
浅野さんが就職したのは沖縄県では大手の広告会社でした。著名なクリエーティブディレクターの佐藤可士和さんに影響を受けたといいます。
浅野さんはコピーライターやCMプランナーとして活躍しました。沖縄県出身のお笑いタレント・ガレッジセールを起用した「紅芋タルト」のテレビCMなど、県内で話題となった作品も多く手がけました。
仕事はやりがいのあるものばかりでしたが、どこかで「いい作品をつくっても、それはあくまでクライアントのもの。自分の作品にはならない」とも感じていました。
父の持病悪化を機に家業へ
転機は2011年のクリスマスの前でした。父・孝英さんの足の持病が悪化し、長時間の立ち仕事ができなくなったのです。
「一年で一番のかき入れ時なのに、今年はいつものように焼けそうにないな」。ある夜、孝英さんがそう嘆いていたのを、別の部屋にいた浅野さんは聞いてしまいました。
「これは私の出番だ」。浅野さんは休暇を取って両親を手伝うことに。その年のクリスマスは店を休むことなく乗り切ることができました。
そして年末の忙しさが一段落した後に数日悩んだ末、会社を辞めて本格的に店を手伝いたいと両親に告げます。しかし2人は大反対。「あんたに払う給料はないよ」と幸子さんに言われましたが、浅野さんは「給料は安くていい」などと伝えて納得してもらい、家業入りしたのです。12年3月、浅野さんが30歳の時でした。
通販や真空パックを展開
ブエノチキンは当時、クリスマス前以外は1日60羽ほど売れればいい方で、月の売上高は平均200万円ほど。仕入れ代や家賃、税金などを除いた利益は「家族3人が何とか食べていける程度」(浅野さん)でした。
クリスマスや母の日など以外は客が少なく、1日の大半をテレビを見ながら暇つぶしする状況だったといいます。たまに想定以上に客が多い時もありましたが、ブエノチキンは90分ほどじっくり焼き上げる必要があり、売り切れた後すぐに提供できず、結果的に機会損失を生んでいました。かといって多めに焼いても、余ったらフードロスになります。
「安定的にチキンを焼いて、ずっと売れる状況にしたい」。浅野さんはブエノチキンの通信販売を強化することにしました。前職時代に1万円ほどで試験的に開いていたウェブサイトを改修し、注文に応じて発送できるように整え、ウェブデザイナーに依頼して常に更新し続けてきました。ただ、当初の売上高は月5千円程度でした。
16年には焼き上がったブエノチキンを直ちに真空パックして冷蔵保存できるよう、約100万円を投じて専用の機材も導入。多めに焼いたチキンを無駄にせず、店舗にも通販にも提供できる体制をつくりました。
両親を説得してイートインも
家業に入って3年後の15年には、それまでテイクアウト専門だったブエノチキンの店舗の隣にイートインスペースを設けることを両親に提案しました。
「家業に入ってから初めて焼きたてのアチコーコー(熱々)のブエノチキンの味見をすることがあって、そのおいしさが衝撃的だったんです。それをお客さんにも味わってもらいたいと、ずっと考えていました」
店の隣にあった古着店に話を持ちかけ、快くスペースを譲ってくれることに。しかし両親から「絶対失敗する」「お客さんが入るわけがない」と猛反対されます。
そこで浅野さんは紙に「なぜイートインが必要なのか」という説明を手書きの紙で、両親に論理的に説明しました。これは古着店のアルバイトで、当時浅野さんと交際中だった夫・太輝さんのアドバイスを受けたものです。
「テイクアウトだけでは取り逃がしているお客さんがいる」「私と一緒に働く次世代の人材育成にもなる」「父と母にもっと楽をしてほしい」「経費は意外とかからない」「一度焼きたてを食べてもらえれば、ブエノチキンのファンになってくれるはず」……。
そんな言葉を紙にしたためた熱いプレゼンと、自分の預金を使うので迷惑はかけないという説得に、両親も渋々応じてくれました。
自らを広告塔にPR戦略
通販の注文や来店客を増やすため、浅野さんはツイッターなどのSNS発信や、一度注文した客へのメール配信などを積極的に進めました。
SNSでは「チキン」や「沖縄」などのキーワードを含む投稿を1日に何度も発信したり、沖縄に何度も訪れている観光客のアカウントを次々とフォローしたりしました。メールは丁寧ながらもフレンドリーな文面で「前々から知っている間柄」のような関係づくりを心がけました。
発信する際は、浅野さん自身を「近所によくいる陽気なお姉ちゃん」のイメージに設定。「チキン野郎」の文字が躍るTシャツを着たり、「ブエノチキン」にちなんで「ブエコ」というニックネームを自分に付けたりして、「広告塔」としてのキャラクターづくりも工夫しました。
これらは浅野さんがCMプランナーやコピーライターだった時のノウハウを生かした工夫です。
「日々意識しているのは、商品の売りを一言で言えるようにすることです。私は誰かに『どんなお店か』と尋ねられるとすかさず『世界一おいしいチキンの丸焼き屋です』と伝えています。長い話をしなくても単刀直入に覚えてもらえますよね」
「どこでも誰でも自分たちをPRすることも意識しています。『ブエコ』というニックネームも覚えてもらいやすいし、いつも『チキン野郎』というTシャツを着るのも、アップルのスティーブ・ジョブズ(元CEO、故人)がいつも黒のタートルネックとTシャツを着ていたように、見た目の印象で覚えてもらいやすくなります」
露出効果で売り上げが急伸
浅野さんはメディアが取り上げたくなるように、楽しそうな写真付きの投稿を続けてきました。地道な発信を続けるうち、SNSなどを端緒に、テレビ番組などで「沖縄のソウルフード」として取り上げられる機会が増えてきました。広告会社時代に仕事をしたガレッジセールの2人も浅野さんを覚えてくれていて、19年に人気番組の「秘密のケンミンSHOW」でブエノチキンを推薦してくれたそうです。
露出効果でブエノチキンの注文数や来店客は徐々に増加。このころ、コストに見合う利益を取れるよう通販価格を1羽3500円から4500円(送料込み)に上げたところ利益率が向上。売り上げも減らず、17年に法人化した「世界のブエノチキン合同会社」の20年9月期の売上高は1億円を超えました。
「脂肪が少なくヘルシー」と鶏ムネ肉を使ったサラダチキンがブームになったのに合わせ、19年4月から「沖縄ファミリーマート」とのコラボで「サラダチキン ブエノチキン味」を販売して大ヒット。同年5月から全国のファミマでも販売し、売り切れが続出しました。「本物を味わいたい」と、通販の注文数や実店舗の訪問者も増えました。
22年9月には現在の場所に店舗を移転し、製造スペースは3倍に。SNSを通じて求人したり人づてで紹介してもらったりして、従業員(パート・アルバイトを含む)は家業に入ったころの3人から28人にまで増え、1日200羽を販売できるようになりました。22年9月期の売上高は約1億5千万円でした。
「沖縄のソウルフード」を目指して
家業に入ったころ、浅野さんは母から「電力会社に入っていればよかったのに」と毎日のように言われたそうです。でもここ数年は「あんたがいなかったら、今でも小さな店のまま苦労していたわ」と言ってくれるようになったとか。
浅野さんには15年に結婚した太輝さんとの間に7歳の長女と5歳の長男がいます。「好きなことをやってほしいと思っているし、後継ぎについてもまだ何も考えていません」
当面はブエノチキンを沖縄県内外にも広め、「本当の『沖縄のソウルフード』と認めてもらえるよう、認知を高めていきたい」と話しています。