妥協しないくさや作りを補う戦略 池太商店3代目が島で育てたビジネス
東京都新島村の池太商店3代目・池村遼太さん(40)は、新島特産のくさやの製造を引っ張る一人です。25歳で帰島し、先代の父が倒れて家業を継ぎました。くさやの生産数を減らした分、質を高めてバリエーションを増やし、真空パックにしたすり身の販売やゲストハウスなども展開。くさや製造が下り坂になる中、売り上げを10年間で大幅に伸ばし、仲間と島の活性化にも取り組みます。
東京都新島村の池太商店3代目・池村遼太さん(40)は、新島特産のくさやの製造を引っ張る一人です。25歳で帰島し、先代の父が倒れて家業を継ぎました。くさやの生産数を減らした分、質を高めてバリエーションを増やし、真空パックにしたすり身の販売やゲストハウスなども展開。くさや製造が下り坂になる中、売り上げを10年間で大幅に伸ばし、仲間と島の活性化にも取り組みます。
目次
新島は本土から南に約160キロ。ミルキーブルーの海が特徴的で、2052人(2022年時点)が暮らしています。
独特なにおいで知られるくさやは、新島が発祥の地という説が有力で、江戸時代からの伝統があります。味の出し方や塩分濃度の調整方法は店によって異なり、門外不出とされています。
くさやは東京の市場に卸すほか、観光客のおみやげとしても人気でした。しかし、ピーク時は年間10万人以上が訪れた新島も、今は約2万人。高齢化で漁獲量も年々減り、昭和初期には100店舗あったといわれるくさや屋も23年には5店舗になりました。
それでも、池村さんは1952年創業の池太商店の担い手として迷わず手を挙げました。
池村さんは子どものころから、新島のくさや産業は縮小に向かうと感じていました。当時はくさや屋が30店ほどありましたが「同年代の後継ぎ候補は継がないと公言していました」と振り返ります。
「自分は昔からくさやが好きで、むしろライバルが減るからチャンスと思い、継ごうと心に決めていました」
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新島高校を出て、静岡県の大学の海洋学部に進学。その後、首都圏で魚屋を展開する吉川水産に入社し、横浜市の店で働きました。マグロの解体からカニのさばき方まで魚介類の扱いを習得して3年目の夏に退職。08年に帰島しました。
池太商店は漁師だった池村さんの祖父と曽祖父が、漁で取った魚をくさやにして販売したのが始まりです。
「青魚をそのまま市場に卸すのと比べ、くさやにすれば3倍の値がつき、冷凍保存すれば賞味期限も8カ月ほど保つため販売しやすい。祖父と曽祖父はそこに目をつけたのでしょう」
池太商店は、約6種類の魚を中心にくさやを展開。売れ筋の青むろのほか、飛び魚、まあじ、むろあじなどもくさやにしています。
池村さんが帰島したときは、2代目の父・健一さん(70)を筆頭に祖母と母親、1〜2人の従業員と店を切り盛りしていました。それまで「好きに生きなさい」と言い続けていた健一さんから、帰島する直前「継いでくれたら楽だな」と言われ、池村さんは家業を継ぐ気持ちを固めました。
「父からまず言われたのは、自分の給料は自分で稼ぐことでした。給料が月30万円だとすると、その分をどうやって稼ぐか考えてみろと言われました」
池村さんが思いついたのは塩干物の製造です。健一さんの代から塩干物作りは手がけていたものの、人手不足もあり本格稼働はしていませんでした。設備はあったため、お土産用として作り始めました。
「くさやは好き嫌いが分かれますが、塩干物は万人受けします。くさや好きのお客さんの同伴者が塩干物を購入するかもしれないと考えました」
池村さんはインターネット販売のほか島の土産屋に商品を卸し、他のくさや屋と東京の物産展で売り込みなどを強化しました。帰島直後は3500万円だった店の売り上げは、5年で4100万円になりました。
池村さんはくさやの種類も増やし、今では6〜7種類になりました。それまで味が単一で食感が固い商品が一般的でしたが、食感が柔らかいものや味が濃いものを作りました。
食感が柔らかいものは乾燥の日数が短く、味が濃いものもくさや液に2日間漬けなければならないため、手間は増えましたが、11年ごろから製造を始めてみて、とても評判が良く店の定番商品となりました。
しかし、13年に健一さんが脳梗塞で倒れ、働けなくなってしまいました。「父から『全部任せるよ』と言われ、私が店を継ぎました」
3代目となった池村さんは、素材の目利きや味付け、塩分調整、商品の品質管理なども一人で任されるようになりました。
代替わりを機に、先代から長年許可を得られなかった、くさやの品質向上に取り組みます。
「先代が作っていたくさやは品質として問題はありませんでしたが、さらに磨きをかけたいと思っていました。自分は魚屋に勤めていたので、くさやにする魚の状態をチェックする基準が厳しいんです。せっかく買ってくれるのなら良いものを、と思うと妥協はできない。一方、自分の厳しい基準では製造数が減ってしまい、売り上げを落とす原因にもなります」
魚の開きが10枚あれば、先代は5枚開きで販売し、残りは焼きクサヤにしてましたが、3代目の基準では3枚しか開きで販売しなくなるほど厳しいものでした。
品質を上げるため、くさや液から取り出した魚を洗う工程を増やしたことで、においのもととなる雑菌が取れました。くさやがよりまろやかで、多くの人が食べられる味に変化したのです。
しかし、くさやの製造枚数が減ったことで売り上げが下がるのも事実です。池村さんは他に稼ぐ手段を作ろうと二つのアイデアを思いつきました。
青むろや飛び魚などくさやに使用する魚は近年、伊豆諸島近海では取れず、九州から仕入れています。しかし、全てをくさやにできるわけではありません。目利きが厳しい池村さんは、仕入れた魚の3割ほどしかクサヤの開きにしないため、残りの7割の魚に頭を悩ませていました。
そこで、前から販売していたクサヤの原料と同じ魚を使用する「たたき」(魚のすり身)の生産を強化し、真空パックにして、17年から発売しました。「たたきは島の郷土料理で、油で揚げたり、みそ汁や鍋の具にしたりしています。くさやには使わなくても品質は良い魚をたたきにしていました」
揚げたてのたたき揚げは、売れ残るとその日のうちにロスが出ます。そこで池村さんは、たたきを真空パックにしても品質が落ちないことを確認し、お土産用として売ろうとしました。
しかし、開発は容易ではありません。最初はそのままの状態で真空にしてみましたが、たたきが潰れてしまいます。また、生のまま冷凍すると油が出て、おいしさが保てませんでした。そこで、できたてをすぐに冷凍させて真空パックにしたところうまくいき、提案から完成まで半年かけて販売にこぎつけました。
現在、くさや自体の売り上げは下がっているものの、たたきの真空パックやくさやの瓶詰が売り上げを補っています。
もう一つのアイデアは、17年に店の隣に新築した「ゲストハウス IKETA」です。祖父も父も脳梗塞を患っていたため、万が一自分が倒れても家族が生きていけるように、観光業に参入したといいます。
「観光客の減少、高齢化や担い手不足などが重なり、最盛期は200軒あった宿が1年に約4軒のペースで減り、17年には30軒ほどになりました。減った4軒分の合計宿泊数を千泊と見込み、1軒建てて1年で計500泊くらい稼働できれば、1泊5千円でも年間250万円くらいの売り上げになります。ローンを組んだとしても約10年くらいで投資が回収できると思いました」
銀行から借り入れるなどして、3千万円でゲストハウスを新築した池村さん。夏は民宿が足らず宿泊難民になってキャンプをする人もいる状態だったため、集客に困らなかったといいます。
「当時、飲み屋も増えてきていたこともあり、民宿でご飯を食べるというよりは、外食や島の食材で手作り料理を楽しんだりする人たちをターゲットにしました」
アイデアが奏功し、18年はゲストハウスだけで900万円、店全体で5300万円を売り上げました。これは池村さんが帰島した10年前に比べて大幅に伸びたことになります。
順風満帆に見えた代替わりも、従業員の高齢化が課題になりました。後を継いだ時は、妻と母のほか、80代のベテラン従業員に支えられましたが、徐々に働けなくなったのです。
人手不足に悩んでいたところ、子どもが通っていた保育園の「ママ友」が手伝ってくれることになりました。「くさやはにおいがきついので敬遠されるかなと思っていましたが、島の女性は強い。くさや作りに興味をもってくれ、今では5人くらいが手伝ってくれます」
もともと池村さんを含めて5人ほどだった従業員が、18年ごろからは10人まで増えました。
しかし、思い通りにいかないのが商売です。20年の新型コロナウイルス拡大で、市場や場外の乾物屋に卸していた分の売り上げが20%ほど下がったのです。
「ただ、コロナがきっかけでインターネットでの注文が増えたんです。1枚300円で豊洲の魚市場に卸していた商品も、お客様に直接販売するネットなら400円で売れます。ECはコロナ前より170%ほど売り上げが増え、卸の減少分を補ってくれました。それまでEC決済は振り込みのみでしたが、カード決済を導入したのも追い風になりました」
20年9月には副組合長を務める新島水産加工業協同組合でも楽天市場の店舗をオープンし、EC事業が右肩上がりとなったそうです。同組合は現在、事業者5件、約10人のメンバーで運営し、各店だけではなく「新島のくさや」というブランドを島外に発信できるように力を合わせています。
池太商店は20年の売り上げは落ちたものの、21年には4900万円まで回復しました。特にゲストハウス事業は、東京都の旅行支援制度「もっとTokyo」や全国旅行支援を活用し、23年1月の売り上げは、前年同月の約3倍に跳ね上がりました。
22年には島内のくさや屋2店が閉店し、くさやの生産量は下がったといいます。島の特産が生き残るには、知名度アップが鍵を握ります。
新島水産加工業協同組合では「新島ミライプロジェクト」を立ち上げ、くさやの形をしたアルミ製洗濯バサミの制作販売を行っています。
このプロジェクトは、食文化として貴重なくさやを島の誇りとして位置づけるために始まりました。洗濯バサミをアルミ製にしたのは、プラスチックごみを減らし、持続可能な漁業を目指すというメッセージを込めています。
池太商店のくさやの売り上げは島外が8割を占めるといいます。しかし、くさやの知名度を上げるには1店舗では力が足りません。池村さんは組合の仲間と物産展などへの売り込みや、新商品開発を進めたいと考えています。
「くさやは発酵食や腸活がブームになっている現代にぴったり。一家に1枚、1年に1回くらいはクサヤの香りと味を堪能していただくことを目標に、事業を伸ばしていきたいです」
家業を担う池村さんは島のくさや事業を盛り返し、若い世代に広めることに希望を感じています。
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