一世を風靡した靴を再び 職人出身の小笠原シューズ3代目が描く戦略
小笠原シューズ(東京都西東京市)は1955年に創業した手製靴工房です。著名なブランドやストアを相手に一世を風靡したのもいまは昔。職人のひとりだった根岸貴之さん(50)が後継ぎに名乗りをあげて十余年、業績は悪くなる一方でした。満を持してオリジナルブランド「シナンド」を立ち上げるも歯止めはかかりません。根岸さんはこの苦難を乗り越えるべく、価格交渉、取引先の拡大、そして手業の継承をテーマにあらたな一歩を踏み出しました。
小笠原シューズ(東京都西東京市)は1955年に創業した手製靴工房です。著名なブランドやストアを相手に一世を風靡したのもいまは昔。職人のひとりだった根岸貴之さん(50)が後継ぎに名乗りをあげて十余年、業績は悪くなる一方でした。満を持してオリジナルブランド「シナンド」を立ち上げるも歯止めはかかりません。根岸さんはこの苦難を乗り越えるべく、価格交渉、取引先の拡大、そして手業の継承をテーマにあらたな一歩を踏み出しました。
「昨年(2022年)は本当に苦しく、つらい1年でした。病院で診てもらったら適応障害と診断されました」
スニーカーの台頭で革靴の業界は縮小の一途をたどっていましたが、クールビズに象徴されるビジネスシーンのカジュアル化とコロナ禍のテレワークがそこに追い打ちをかけます。業界に閉塞感が漂うなか、小笠原シューズにはさらなる試練が訪れました。立ち退きの話が持ち上がったのです。
「代表になってからは正直なところ、こんなにしんどい仕事からはいっそ足を洗ったほうがいいかも知れないと思うようになっていました。けれど、ここを出れば廃業するしかないし、手製靴への情熱を失ったわけではありませんでした」
このふたつの思いがせめぎ合っていたという根岸さんは、重い腰をあげて地元の商工会に足を運びます。
「先代の時代から加入していたのですが、訪れたのはこのときがはじめてでした。経営のイロハの“イ”も知らなかったぼくは目が開かれる思いでした。なんとかなるかも知れない。ぼくは指導員のすすめに従い、金融公庫からお金を借りてビルを買い取りました」
「革の値段が年々あがっていくなか、小笠原シューズの工賃(下請け代金)はずっと据え置きでした。値上げは喫緊の課題でしたが、価格交渉なんてしたことがありません。やはり頼ったのは、商工会。見直すにしたっていくらが妥当かさえわからない有り様でしたからね」
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根岸さんの切実な声は取引先に届きました。しかしそれも当然です。小笠原シューズは銀座や日本橋の名店と取引を重ねてきた、日本有数の手製靴工房。おいそれと代わりの工房がみつかるものではないのです。
一息ついた根岸さんのもとに新規取引の話が舞い込みました。「たいへんありがたいお話なのですが、二つ返事で取引先を増やすわけにはいきません。片手で足りる小所帯ですからね。いまの態勢で体力をつけて、徐々に広げていければ」
その過程で、根岸さんがなるべく早くかたちにしたいと語るのは、賃金体系の見直しです。
「製造屋はいまも昔も(業務委託の)工賃制。一足つくってなんぼの世界です。戦後の職人は家族を養うことも車を買うことも子どもを大学にいかせることもできましたが、それはつくればつくっただけ売れた時代だからです。右肩下がりのいま、工賃制ではやっていけません。現に小笠原シューズも優秀な若手が何人も去っていきました。まずは工賃アップからですが、いずれは給料制へ移行したい」
根岸さんがこれまでなんとかやってこられたのは修業時代から生活をともにするパートナーがいたからです。同棲を経て、ふたりは結婚しました。
小笠原製靴(現小笠原シューズ)は小笠原光雄さんが1955年に創業しました。宮城で生まれ育った光雄さんは活況に沸く靴業界を目指して上京。当時、三大手製靴メーカーとうたわれた一社、ワタナベで研鑽を積みました。
手筋を重んじる業界でワタナベに勝る肩書はありません。
虎ノ門に工房を構えた小笠原製靴は名だたる取引先を抱えます。顧客リストには銀座ヨシノヤや日本橋高島屋、その閉店をファンが惜しんだ神田の平和堂靴店が名を連ねました。
光雄さんが1988年に亡くなると、弟の茂好さんが後を継ぎます。茂好さんはまた別の工房で働いていましたが、光雄さんの独立を機に合流し、小笠原製靴を支えてきました。
茂好さんは社長就任を機に社名を変え、西東京に移ります。
それからの20年あまりでよかった時期はほんのいっとき。取引先はくしの歯が欠けるように減っていきました。茂好さんが廃業を意識したそのとき、待ったをかけたのが根岸さん。2012年に事業を引き継ぎました。
「まだまだやりようがあると思ったんです。しかしふたを開けてみれば文字通りの自転車操業でした」
根岸さんは地元長野の農協を経て02年、靴づくりの世界へ足を踏み入れました。きっかけは一冊の雑誌。ページをめくると、銀座ヨシノヤが特集されていました。
「その特集は製造現場にもページを割いていた。衝撃でした。21世紀を目前に控えた時代に手でつくられていたんです。行動力があるほうじゃないんですけれどね。なにかに突き動かされるようにヨシノヤに電話を入れ、(製造元である)小笠原シューズにたどり着きました」
「昭和のまま時をとめてしまったかのような古ぼけた工房、乱雑に置かれた材料や道具、ドアを開けた瞬間に鼻をついた接着剤の匂い。すべてに圧倒されましたが、何といっても職人のしぐさがしびれるくらい格好良かった。革を切り、縫い、叩く、背中を丸めて黙々と作業する姿。ジャムかなにかの空き瓶にお茶を注いで飲むたびふたを閉める姿も記憶に残っています。ふたがないとほこりが入っちゃうからです」
生まれてはじめての工房に文字どおり心を奪われてしまった根岸さん。その場で弟子入りを志願するも認められませんでした。かつては住み込みで技術を身につけていくものでしたが、もはや若手を養うだけの余力はなかったのでしょう。靴づくりに興味があるなら学校で学んでみてはどうかと諭された根岸さんはこれを実行に移します。
「長野に戻るなり上司に退職届を出し、両親にもその旨を伝えました。大反対に遭いました。彼らはみな、翻意させようと懇々と説得します。そのうちに不安になってきた。靴づくりなんかで飯が食っていけるのか。願書の締め切り直前まで悩んでその年は断念しました。迷う自分がいる以上、ここはいったん足踏みしようと思ったんです」
いっときの熱情にかられているわけではないことを自らに納得させるため、根岸さんは地元のレザークラフト教室に通います。「子ども時分から手先は器用。コツコツやるのも性に合っていたんでしょう。とても楽しかった」。そうして2年。ある程度の生活費も蓄えられた根岸さんはあらためて退職届を書きました。根岸さんの思いは、伝わりました。
授業とバイトに明け暮れた学生時代は充実した毎日だったようです。一枚の革が立体になっていくそのさまに魅せられた――というのは靴職人が修業を振り返って異口同音に漏らす感慨ですが、根岸さんに言わせれば「工程一つひとつが面白かった」。
靴づくりを学び始めて3年目。小笠原シューズに欠員が出たことを知った根岸さんはふたたびその門を叩き、学生と見習いの二足のわらじをスタートさせました。
「浅草にあった学校に通うために東向島に住んでいたから工房まで片道2時間。しかし現実の問題を前にすれば移動時間なんて取るに足らないものでした。学校ではそこそこやれていましたが、これがまったく歯に立たない。すべての基本である包丁研ぎができない、(職人用の)低い椅子に座っていられない、無駄な力が入っているから仕事終わりは体がカチコチで、握った手のひらが開かない。体を慣らすのに半年はかかりましたね」
体力的にも精神的にも辛い時期でしたが、「これが修業というものなんだ」とワクワクする気持ちが勝っていたと言います。根岸さんはメキメキ腕をあげていきました。
「靴の世界にどっぷり漬かって、小笠原シューズのすごみを知りました。たとえば釣り込み。アッパー(足の甲を覆う革のこと)を木型に沿わせる工程ですが、うちではいまも手釣りです。手で釣り込めば抑揚のあるシルエットを忠実に再現することができます。その靴は足にフィットするだけでなく、造形物としても美しい」
穴飾りや目付け(靴底の縁=コバにつける凹凸模様のこと)もすべて手作業です。「金型がつくれるだけの注文が入らないから」と笑いますが、目見当で穴を開けていく作業はよどみなく、惚れ惚れするほどです。
根岸さんは代表に納まる少し前、2010年にオリジナルブランドの「シナンド」を立ち上げました。
「製造屋にはエンドユーザーの顔がみえません。彼らに会いたかったから『シナンド』と名づけました。ギリシャ語で“出会う”の意となります」
先代は根岸さんの思いを快く受けとめてくれました。
「(先代の時代は)製造屋が自社ブランドに手を出すのはご法度でした。古い業界ですからね。しかし若い世代がやりたいんだったら、それはやってみたらいいと言ってくれました」
言い出しっぺの根岸さんは物置になっていた2階を改装し、接客スペースにしました。必要な什器や設備の費用もみずから捻出したそうです。
「シナンド」はユーザーの注文を受けてつくる、昔ながらのあつらえのスタイルを採っています。このスタイルは多様化する価値観に応えられます。靴は服と違ってセンシティブなフィッティングが求められるプロダクトですが、この点においてもアドバンテージがあります。
オリジナルブランドの展開は経営の観点からみても利点が大きいと考えました。
「この商売はつねに受け身です。オリジナルなら主体的に動けるし、利幅も大きい。取引先の予算にとらわれることがないので職人技も惜しみなく注ぐことができます」
ホームページに加え、仲間とともに開催してきた合同展でユーザーとの接点をつくった「シナンド」はファッション誌にも取り上げられ、目の肥えた人々をうならせました。
「卸販売がしたいという話もありましたが、お断りしました。利幅が下がることよりもユーザーとの距離が遠くなってしまうのがいやだったからです」
BtoCにこだわったからこその果実もありました。色鮮やかなベロア(起毛革)をつかったモデルがそれです。オンオフの境界線があいまいになったライフスタイルへの提案でした。ユーザーの声がそのニーズに気づかせてくれたのです。
「『シナンド』はリピーターもつき、知名度向上に役立ちましたが、あらたな注文はとっていません。いまある仕事で手いっぱいだからです。ようやく光明もみえましたので、生産現場を充実させた暁には再スタートを切りたい」
リローンチにあたり、ブランド名をあらためる予定です。あらたなブランド名は創業時の社名だった「小笠原製靴」。思いはもちろん、原点回帰にあります。
「靴づくりには伝統工芸に勝るとも劣らない職人技が詰まっています。しかし日本古来のものではないから、一段低くみられていたところがあると思う。微力ながら、この評価を見直す機運につなげたい」
人間国宝が生まれたりしたら周りのみる目はがらりと変わるでしょうね、と水を向けると破顔一笑しました。
小笠原シューズに在籍する職人は現在、70歳を超える大ベテランふたりに根岸さんの同期、根岸さんの4人。先代も午前中は顔を出してくれます。
「ベテランが元気なうちに技をつないでいきたい。そしていずれは、海外へ。小笠原シューズのものづくりは世界でも通用すると信じています。実際、声がかかったこともあったんですよ」
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