畑や田んぼが広がる山間部を車で走っていると、サツマイモをイメージさせる紫色の巨大な貯蔵庫とクリーム色に彩られたモダンなデザインの社屋など、最新鋭の施設群が現れました。
敷地中央に位置するのは集出荷場です。自社農場や契約農家から仕入れたサツマイモを洗浄し、乾燥させた後に袋詰めにする工程では、数十人の従業員が流れるように作業をこなしていました。1袋あたりの重さが均等になるよう音声で知らせてくれる計量器など、効率性を高める機器も各工程で導入されています。
数袋入りの段ボール箱はベルトコンベヤーに載せられた後、出荷先ごとにバーコードで自動で分類されます。トラックに積み込む直前までほぼ機械で自動制御され、短時間で当日分の出荷作業が完了する仕組みです。
集出荷場に隣接する倉庫はサツマイモ約250トンを貯蔵でき、収穫時の微細な傷をサツマイモ自らの力で治癒する「キュアリング」を促すよう、高温多湿の状態に保つことができる最新設備です。キュアリングによって、傷口から菌などが入ることによる腐敗を防ぐのです。
故郷にいるのが「窮屈だった」
九州南部は“赤ほや”と呼ばれる火山灰が積もった土壌が広がり、水はけがよく、天敵となる線虫が少ないことから、日本有数のサツマイモの産地となっています。
池田さんの実家も祖父の代からこの地でサツマイモやコメなどを育てる農家でした。ただ、池田さんの幼少期の記憶に残るのは、収入が少ないため他の仕事とかけ持ちしながら休みなく働く父・康啓さんの姿。主に日中に畑作業をしていた母・ツヤ子さんと康啓さんが仕事の進め方などをめぐってよくけんかする姿を目の当たりにして、「農業は人々を不幸にする、過酷な仕事だ」と感じていました。
池田さんが子どものころは人口が3万人いた串間市(23年3月は約1万6千人)の風土にも、当時から思うところがありました。
「ここは保守的な地域で、かつては地元の有力者の“権力”が承継されていくようなところでした。郷土愛も芽生えにくく、多くの農家が自分の仕事に誇りを持てないでいました。その中でも貧しかった私の実家は地元で“下”の方と見られていて、この地にいることが窮屈で仕方がありませんでした」
両親から農業を継ぐように言われることもなく、池田さんは早く故郷から離れたいと思っていました。
志半ばで逝った父の後を継ぐ
池田さんは高校卒業後に地元を飛び出し、大阪などで働き始めます。時代はバブルの末期。地元より高い収入が得られることも理由の一つでした。
しかし、21歳のとき、康啓さんが末期がんに侵されていると聞いて帰省します。意識がもうろうとした状態で康啓さんは池田さんに「あとは頼む」と伝え、亡くなりました。52歳でした。
3人の子育てが一段落したころから、康啓さんは徐々に農業の規模を拡大し始めていました。農地を買い増して設備投資も行い、「さあ、これから」というタイミングでした。
「志半ばで逝った父の最期の言葉に心を動かされ、家業を継ぐことを決めました。地元の同い年の友人もすでに農業で生計を立てていたので、私も何とかなるかな、と思ったのです」
「どうせやるなら地域で一番になりたい」と、池田さんは拡大路線を引き継ぎました。継いだ当時の農地は借地を含めて計約3ヘクタール。そこから他の農家から土地を借りたり農作業を請け負ったりして、30歳前後には約37ヘクタール(農作業を受託した農地などを含む)にまで拡大しました。
地元JAの青年部に所属していた三十数人の中でも10番前後の規模・売上高になり、青年部の役員も務めました。一方で、農業の生産性の低さや地元の保守性などについていつも愚痴を漏らし、「周りからクレーマーのように見られていた」と言います。
「JA依存」からの決別
30代後半になったころ、地元の親しい先輩農家3人が相次いで自ら命を絶ちました。いずれも借金から経営難に陥り、悩んだ末の悲劇だったそうです。
これを機に池田さんは「52歳で亡くなった父の年まであと十数年。自分の寿命もあと10年程度かも知れない」と考えました。
次第に、串間で誰も挑戦したことのない農業モデルを創ることこそが、自分の使命と思うようになりました。どうすればサツマイモの生産や販売が効率的になり、稼げる農業モデルに変えられるのかを考え続けました。
そして40歳になった11年、JAへの出荷をやめることを決断したのです。
「どれだけ良いサツマイモをつくったとしても、他の農家のイモと混ぜて出荷されるので消費者の反応がわからないし、努力した農家へ利益が適正に還元されない仕組みなんです。いくら創意工夫をしても、流通をJAに任せている限り、『売れないのはJAのせいだ』と言い訳にしてしまう。だったら、退路を断って自分の責任で生産から販売までやろうと思ったのです」
スーパーへの直接営業で販路拡大
母・ツヤ子さんや親族からは「地元農家らとの関係が悪くなる」などと猛反対されました。が、池田さんは意思を曲げず、商社やスーパーなどに一軒一軒「どぶ板営業のように」(池田さん)訪ねて直接営業を始めました。
12年からはコメやゴボウなど他の作物の生産をやめ、青果用サツマイモに絞って売り込むことにしました。
「北陸や東北などに比べて串間のコメに競争優位性があると思えなかったのです。でも串間産のサツマイモは栽培技術のレベルが高く、南九州の他の産地より品質に自信がありましたし、全国どこでも勝てるブランドにできると考えていました」
「お試し」で和歌山県を中心に展開するスーパーに置かせてもらった池田さんのサツマイモは評判もよく、次第に宮崎県や隣の鹿児島県、福岡県のスーパーとの本格的な取引へと広がりました。流通の中間業者を挟まないことで、JA経由より安く販売でき、売り上げも増えていきました。
ただ販売代金の回収などの事務作業には慣れず、池田さんは「JAは煩雑な作業を全て請け負ってくれていたんだな」と改めて感謝の気持ちを持ったといいます。それでも「退路を断たないと、『楽だから』とまたJA依存に戻ってしまう」と直接販売路線を続けました。
利益率の改善へ自ら輸出を開始
直接販売が軌道に乗ってきたころ、取引があった商社の関係者から、串間産のサツマイモが香港の高級スーパーで1袋800円前後で売られていると知らされました。
串間のJAは04年ごろからサツマイモの輸出を日本で初めて開始。出荷量は少ないものの人気で、香港だけでなくシンガポールや台湾にも販路を拡大していました。
ただ地元のサツマイモ農家の手取りは諸経費を差し引くと1袋あたり50円程度。池田さんが調べたところ、輸出の場合はJAだけでなく物流関係など5者ほどの中間業者を経由するため、農家の利益率は低くなっていたといいます。
「これはおかしい」と思った池田さん。自分たちが直接輸出すれば串間の農家の手取りが上がり、中間コストの削減で海外の消費者もサツマイモが安く手に入ると考えました。
池田さんは、輸出商社と連携して販路の開拓を始め、地元のサツマイモ農家や親類の農家に呼びかけて、賛同者からイモを高めに買い取るなどして出荷量の拡大を図りました。
そして12年、シンガポールへの輸出を初めて実現。翌年から香港への輸出も始めました。「甘くてほくほくしておいしい」とすぐに評判になりました。
家族経営から法人化へ
12年ごろ、池田さんの事業収入は約5千万円にまで拡大。妻ゆかりさんと母ツヤ子さん、長男啓人さんの家族4人だけで、国内での直接販売も輸出も担っていました。
一方で、これ以上の成長には限界も感じ始めていました。栽培から袋詰め、出荷、営業までをこなすには4人では足りず、輸出開始に伴う事務作業も膨大でした。
「地元ではまだ『JAに敵対して変なことをやっている』と見る人が多く、ただ規模を拡大するだけではもっとあつれきを生むだけだと考えました。そんな彼らといずれ対等に商売をするために、一つの作物だけでも大きなシェアを持つことを意識しました。とはいえサツマイモの生産量日本一は直ちには難しいので、輸出で日本一をめざそうと決めました」
そのための手段の一つとして池田さんが選んだのが法人化でした。家族経営から脱却し、人も設備も増やして出荷量を拡大しようという戦略です。そして13年12月、農業法人「くしまアオイファーム」を設立したのです。
※後編では、くしまアオイファームがわずか5年で目標の輸出量日本一を達成したプロセスと、その過程でどのような工夫で会社を拡大していったのかを解き明かします。