「ハニーハンター」が勝ち取った信頼 金市商店3代目が足で開拓した商品
全国各地から集めた蜂蜜を販売する金市(かねいち)商店(京都市中京区)は、ほぼ輸入品だった蜂蜜の多くを国産に切り替え、売り上げを伸ばしました。3代目の市川拓三郎さん(39)が一から仕入れ先を開拓。「ハニーハンター」を名乗り、今も自らトラックを運転して全国の養蜂家を訪ね、年間100トンの蜂蜜を仕入れています。自社直営店では用途別の蜂蜜などを次々と発売。国産の蜂蜜酒のブランドも立ち上げるなど、新たなニーズを掘り起こしています。
全国各地から集めた蜂蜜を販売する金市(かねいち)商店(京都市中京区)は、ほぼ輸入品だった蜂蜜の多くを国産に切り替え、売り上げを伸ばしました。3代目の市川拓三郎さん(39)が一から仕入れ先を開拓。「ハニーハンター」を名乗り、今も自らトラックを運転して全国の養蜂家を訪ね、年間100トンの蜂蜜を仕入れています。自社直営店では用途別の蜂蜜などを次々と発売。国産の蜂蜜酒のブランドも立ち上げるなど、新たなニーズを掘り起こしています。
目次
「日本の蜂蜜は世界トップクラスだと思っています。地形が南北に長く、四季折々の花が咲き、アカシア、レンゲ、みかん、りんごの花など植生ごとに蜂蜜を採集できます。蜂蜜の種類がこれほどバラエティーに富む国はありません」
市川さんはそう力を込めます。
金市商店が扱うアイテム数は年間で180を超え、そのすべてが蜂蜜が原料の商品です。看板の「シングルオリジンハニー」(蜜源、場所、時期別に補充してナンバリングした純正蜂蜜)のほか、ミード(蜂蜜酒)、フルーツの蜂蜜漬け、キャンディー、ローヤルゼリーなどを販売しています。
年商は5億円で正社員は9人、従業員(パート・アルバイトを含む)は約50人の規模になります。
金市商店が扱う蜂蜜は8割が国産です。20都道府県以上の養蜂家約50軒と直接取引し、国内で年間100トンを仕入れています(蜂蜜の採れ高による)。ご当地の蜂蜜をここまで網羅する専門店は珍しいそうです。
「国内外問わず、私がすべて養蜂家を訪ね、直接蜂蜜を買い付けています」。市川さん自ら2トントラックのハンドルを握り、養蜂の現場へ赴くのが信条です。
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「社長の私自身が買い付けに行く最大の理由は、その場で値段交渉をして決済しなければならないからです。目の前に優れた蜂蜜があるのに『上司と相談します』などと悠長に構えていたら、すぐに別の買い手が現れてしまう。1千万円超の取引を即決するには、決裁権を持つ私が直接行く必要があるのです」
養蜂家に認められなければ、翌年からは取引してもらえません。スピーディーな決済で絆をさらに強くするため、市川さんは覚悟をもって交渉しています。
市川さんが年間に試食する蜂蜜は300種類以上。海外も含めた総移動距離は約5万2千キロを超えます。開花に合わせて、4~5月は九州・近畿、5~6月は信州・東北。7~8月は北海道へと北上。仕入れの期間は会社に戻れず、LINEやオンラインツールで社員に指示を出します。
手に入れた蜂蜜は京都の自社工場に送り、検査や品質チェックなど経て、瓶詰めして商品化します。
「いい蜂蜜がある」と耳にすれば、必ず自分の目で確かめる。そんな市川さんは2020年春から公式に「ハニーハンター」と名乗り始めます。スーパーのバイヤーから「市川さんはまるで蜂蜜のハンターですね」と言われたのがきっかけでした。
「それまで『自分は裏方』と思っていましたが、ハニーハンターというキャラクターを得て、蜂蜜の魅力をさらに伝えられるようになると、ブランディングが一気に進みました」
市川さんが厳選した蜂蜜は、京都・三条にある金市商店の直営店「ミールミィ」で販売しています。棚には多数の「シングルオリジンハニー」が並び、自分好みの蜂蜜に出会えます。「LIP HONEY LAB.」という商品は「携帯できる蜂蜜」として、唇に塗って保湿したり、液体キャンディーの感覚で味わったりできます。
店内には蜂蜜の量り売りサービスも展開しています。店の奥には蜂蜜カフェも構え、ハニートーストなどが人気です。京都や大阪の百貨店にも支店を構え、金市商店の蜂蜜は関西の土産物としても定着しています。
金市商店は1930(昭和5)年、市川さんの祖父・末吉さんが青果などを扱う個人商店として開業しました。第2次世界大戦中に不足した砂糖の代用品として滋賀県から蜂蜜を仕入れ、京都の和菓子文化をつなぐ役割を果たします。
55年に法人化し、市川さんの父・長三郎さん(現会長)が2代目に。長三郎さんは食料品全般の店から、蜂蜜関連商品の小売り強化へとビジネスモデルを転換します。
幼少期から蜂蜜に囲まれた市川さんは、幼稚園から帰ると量り売りの蜂蜜がおやつでした。幼稚園の卒園文集に「はちみつやになりたい」と書くほどで、中学時代から瓶詰などを手伝いました。
関西大学進学後も、豪州やニュージーランドなどの養蜂家を訪ね、卒業旅行も米国やブルガリアの養蜂の現場を回るほど。蜂蜜漬けの青春でした。
「父は蜂蜜の輸入に熱心で、現地の様子を知るべきだと考えました。父から『会社を継げ』とは言われませんでしたが、私の方が蜂蜜に夢中になっていたんですね」
市川さんは大学卒業後、父から「一度は家を出て社会勉強した方がいい」と勧められ、大阪の食品輸入会社に就職。しかし、入社3年が経った頃、祖母が要介護認定を受けます。「交代で祖母の世話ができるように家族が一つになるべきだ」と考え、市川さんは10年に26歳で金市商店へ入社しました。
当時の年商は3億円。市川さんは各地から蜂蜜を集めて商品化する製造責任者を務めます。
この時期、蜂蜜を取り巻く環境は激変していました。きっかけは08年に起きた中国製冷凍ギョーザの薬物中毒事件です。日本の消費者が中国からの輸入食品を避ける傾向が強くなり、蜂蜜も例外ではありませんでした。
当時は金市商店も含め、蜂蜜の多くを中国から輸入していたといいます。「ところが事件をきっかけに『安全な国産の蜂蜜が欲しい』というお客様が急増。経営を土台から見直さなければならなくなりました」
しかし、そう簡単には転向できません。中国の大規模養蜂と違い、日本は家族経営や小規模の養蜂家が多数を占めます。養蜂家との信頼関係がなければ蜂蜜は手に入らないのです。
「養蜂家に電話をすれば配達してくれる時代ではなくなっていました。現地へ赴き、礼を尽くさないと蜂蜜を分けてもらえません。自分でトラックを運転し、養蜂家を訪ねる生活が始まりました。森の奥でエンジンが止まったり脱輪したり、なかなか慣れませんでした」
現地を訪ねても、初対面の若者には蜂蜜をすぐに売ってもらえません。市川さんは重い荷物を運んだり、採蜜を手伝ったりしながら、少しずつ養蜂家との距離を縮めました。
「防護服を着て、20キロもある巣箱を運ぶ経験は初めてでした。なまりが強い方も多く、指示を理解できずに立ち往生した日もあります。作業を手伝っているつもりでも『邪魔をするのなら帰ってくれ!』と怒られる。養蜂家さんたちと仲良くなりたくて必死でした」
そうしてコツコツと信用を得た市川さん。国内の仕入れ先は着々と増え、それまで蜂蜜の97%を輸入に頼っていた金市商店は、18年には80%が国産という国内随一の専門店になったのです。
「国産蜂蜜の難しいところは、天候不良など不作の年がある点です。しかし、全国の養蜂家さんたちと手を結べたことで、『九州がだめでも北海道がある』というリスクヘッジができます。これがまねできない強みだと思います」
06年に直営店をミールミィ(現:ミール・ミィ)としてリニューアルしたのは、母洋子さんです。いかにも製菓材料専門店という堅い雰囲気だった金市商店を改修。内装や商品パッケージを柔和なデザインにして客層の若返りに成功し、観光客も集めました。
長三郎さんの体調が思わしくなく、市川さんは17年に32歳で3代目となりました。親子の努力が実り、入社時に3億円だった年商は5億円にまで伸びていました。
市川さんの本名は「拓」ですが、承継を機に長三郎さんの名前を一部引き継ぎ「拓三郎」と名乗るようになりました。「一生懸命に走り続けて会社を大きくした父にあやかりたいという想いと、『拓三郎の方が呼びやすいだろう』という二つの気持ちがありました」
3代目を継いだ市川さんはすそ野を広げるため、カフェラテ用、オートミール用など用途別に楽しめる蜂蜜を次々に開発。販売したのは17種類にのぼります。中でも17年に作った「ヨーグルトに合う蜂蜜」は大ヒットしました。
18年には「キンイロ」というクリームパンのブランドを立ち上げました。こちらは外注せず、社内にパン工房を開くほどでした。
「パンをきっかけに蜂蜜に興味を持ってほしいと考えましたが、旧来の製パンのレシピでは、甘いクリームパンはできても蜂蜜のおいしさまでは伝わりません。パン業界では常識はずれのレシピにたどり着くまで、試行錯誤しました」
市川さんが目下、力を入れるのが「国産ミード(蜂蜜酒)」の開発です。甘い味わいと香りと蜂蜜由来の酸味が特徴で、欧州では特に親しまれています。
先代の長三郎さんは05年に酒類の小売り免許を取得。ポーランドやカナダなどから輸入し、13年からは国産ミードも扱い始めました。
そんな父を見て、市川さんも「京都の良質な蜂蜜を使えば、世界に通用するミードが造れるのでは」と考え、16年に「京都ミードプロジェクト」を企画。京都府城陽市の酒造会社とオリジナルミードの試作に着手しました。
「ミードは自然のままのシンプルなお酒なので、蜂蜜の選定が何より大切です。『いい蜂蜜を仕入れてきた自分だからこそ、いい蜂蜜酒が造れるはず』と自信がありました」
事業を引き継いだ17年、希少な京都産の蜂蜜100%と、京都・木津川の伏流水で醸した「京都ミード 蜜酒」を、自社ブランドの第1弾として販売しました。
その後も、山形県のさくらんぼの蜂蜜を使った「恋紅(こいべに)」、北海道の菩提樹の蜂蜜を使用した「大地」などのミードを次々と開発。他社の国産ミードを扱った発売初年度の売り上げはわずか50万円でしたが、17年からは自社製となり、22年は680万円にまで上昇しました。
コロナ禍でも金市商店の売り上げは落ちませんでしたが、すべてが順風満帆だったわけではありません。蜂蜜のクリームパン「キンイロ」は小麦粉など原材料費の高騰にあらがえず、23年3月末日で事業を停止。クリームパン専門店「キンイロ」三条店と伊勢丹京都店を閉じました。
追い風も向かい風も受けながら、品の高い蜂蜜を求めて今日も全国を飛び回り続ける市川さん。今後の経営戦略をどう描いているのでしょうか。
「国産ミードをさらに普及させるため、自社での醸造を計画しています。酒造免許を取得して、醸造所を開きたいと考えています。蜂蜜の魅力をもっと表現できるお酒を自分の手で醸したいです」
ヒットの兆しを感じる国産ミードに賭け、「蜂蜜酒を扱う商店」から「酒造メーカー」へ。ハニーハンターは新たなステージへ進もうとしています。
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