村山さんは、釘などの金具を一切使わず木材同士を組み合わせて調度品を作る木工職人「指物師(さしものし)」です。額縁専門の工房を営む木工職人の両親のもとに生まれましたが、幼いころは「貧しかった」と言います。
高校卒業後、あこがれだった音楽の道を目指しますが、職人気質の父から勘当を言い渡されてしまいました。「厳しい父で、出ていけと言われまして(笑)。僕は京都を拠点に毎月東京へライブをしに行くなど一生懸命やっていましたが、だんだん現実も考えるようになってきました」
そのころの村山さんは、家業に携わることにさほど抵抗はありませんでした。幼いころから父を手伝い、物づくりそのものが好きだったこともあり、家族の力になりたいと考えたのです。
多彩な木工技術を磨く
ただし、経営については「どうにかして変えていかなあかんな」とぼんやり思っていたものの、具体案はまだありませんでした。当時は自身の技術を磨き、知識を増やすのが先決と考えていました。
父の手ほどきを受けながら、伝統工芸の古い文献を読みあさり、博物館では何日もかけて名工の制作風景をアーカイブで観察。染色や陶芸、漆芸にまで好奇心を広げました。
28歳のころから、皇室のひな人形「有職雛(ゆうそくびな)」を手がける京都の老舗人形店「丸平大木人形店」の調度品や飾り物、伊勢神宮の御神宝、茶道具などを制作するようになります。
ろくろで木の鉢や椀をつくる「挽物(ひきもの)」、薄い板を曲げてつくる「曲物(まげもの)」、木材を小刀でくりぬき、形を削り出す「刳物(くりもの)」など多彩な技術を磨きました。
仕事が増えるうちに工房が手狭となり、村山さんは33歳で独立。京都の名産・北山杉の里である京都市右京区の京北町に工房を構えます。さらに腕を磨く村山さんに、ターニングポイントとなる依頼が舞い込んだのは2011年のことでした。
1年半かけてできた「立体組子」
話を持ってきたのは、知人の着物作家・斉藤上太郎さんで、「パレスホテル東京の神殿(式場)を木工で作れへんか?」と声をかけられました。
斉藤さんは外資系ホテルのロビーで使われる長椅子の生地を着物で手がけるなどして活躍。パレスホテル東京の内装も引き受けましたが、木工は専門外だったため、村山さんに相談を持ちかけたのです。
村山さんへのオーダーは神殿を組子で覆いつくすこと。実現するには高度な技術が必要でした。組子とは飛鳥時代から受け継がれた技術で、木片を組み合わせて麻の葉や亀甲など様々な紋様を表現する木工細工の一つです。
立体的に陰影を付けた組子を作るという、前代未聞の仕事ではありましたが世の中にまだ無いものを作りたいという思いで村山さんは快諾。約1年半かけて、斉藤さんが描いた美しい和柄の図案を立体的に実現しました。
「斉藤さんは着物のデザイナーさんなので『それを木でどうやったら作れるの?』という図案を出してくるんです(笑)。でも、それを拒絶せず『ここは段差をつけて陰影をつけたら、絵のように表現できる』など、今まで習得した技術をかけ合わせ、一つずつ応えたことで『立体組子』が誕生しました」
仕事は1人でまかないきれる量ではありません。仲間に手伝ってもらったものの、自身と同じ熱量で取り組んでもらえるよう、思いを伝えることに苦心したそうです。
新規の大型案件ゆえ、既存クライアントである「丸平大木人形店」の仕事が受けられなくなる可能性もありました。同店の主人に正直に打ち明けたところ「挑戦してみろ」と二つ返事で背中を押してくれた、と村山さんはいいます。
高級施設の内装依頼が舞い込む
この技術は唯一無二の強みになっただけではなく、建築業界にも革新的だったと村山さんは胸を張ります。
「空間デザイナーさんの頭には理想のデザインがありますが、現実は色々な制約があり、どこかで妥協せざるを得ません。そんな中で新しい組子の事例を作ったことで、デザイナーさんにとって『自分が考えていることも実現できるかも』という新しい扉が開いたわけです」
パレスホテル東京の神殿を見た人たちから、内装の依頼が舞い込むようになり、その後、パークハイアット京都やザ・リッツ・カールトン京都などのラグジュアリーホテルや高級レストランの内装工芸品も手がけるようになります。業界で評判となり、広告宣伝費をかけずに成果を出すことができました。
その後、曲面でも組子が細工できる技術も生み出し、21年に特許として認められました。村山木工はこうした技術を「京組子」と名づけて、広めていきます。
工程に優先順位をつける
内装工芸品への進出で売り上げは上がったものの、木工芸品とは比べものにならないほどコストも増えました。
内装工芸品は予算も工期も限られる中で、より商業的なビジネス感覚が求められます。木工芸品のみ制作していた時とは違い、「収益を確保しながら芸術性も担保するには人件費がカギになる」と、村山さんはいいます。
なぜなら成果物は手仕事で作られるため、コストの8、9割を人件費が占めるからです。資材のグレードや使用量を変えたところで大きなコスト削減にはなりません。それでも単純に人減らしをすればいいわけではなく、各工程に優先順位を付けることで無駄な手間を省きました。
内装工芸品のような商業ビジネスは「見える部分」にこだわります。何メートルも離れた距離から、全体の圧倒的なスケールで見る人に感動を与えるものです。
「商業施設の仕事をするとき、職人に『離れて見るものは、全体を意識しなさい』と指導し、細かなディテールよりは全体の完成度を優先します。手元でめでる物のような精度で作っていたら途方もない時間が必要で、結果的に期限内に作れない可能性があります。工程は全部重要ですが、優先順位は変わってきます」
「全部俺がやる」からの脱却
ゼネコンなど大手企業との取引が増えたのを機に、村山さんは村山木工を17年に法人化しました。職人でありながら経営者として会社を存続させるために、地元の商工会議所のサポートを受けたといいます。
始めに行ったのは、経営革新計画の作成でした。この計画書が各都道府県や国の地方機関に承認されると、金融機関からの資金調達や地方自治体の補助金支援で有利になります。計画書に沿って経営することで、業績の向上にもつながります。
村山木工でも事業再構築補助金を受けるなど、様々な補助金が高確率で採択されているそうです。
経営者として日中に経理や書類作成、打ち合わせなどを進め、午後6時以降に職人として伝統工芸の実務にいそしんでいます。経営にリソースを割けるようになったのは、スタッフに仕事を任せられることが大きいといいます。
数年前までの村山さんは「人にうまいこと仕事を振れなかった」と振り返ります。「自分が楽になるとわかっても、任せることが怖くて『全部俺がやる』となっていました」
しかし限界を感じ、思い切ってスタッフに任せてみたそうです。「もちろん自分と同じことはできないけど、思っている以上にできていることに気が付いたんです」
スタッフに新入社員の指導も任せると、思わぬ発見がありました。「入って2年目くらいの子でも、後輩ができるとちゃんと教えているし、頼もしく見えるんですよ。成長している姿がうれしかったですね」
もちろんクオリティーの担保は、村山さん自身が行います。そして大方の部分はスタッフ同士で考えさせ、自主的に動くことを指導。このようなマインドに転換するまで、10年かかったそうです。
自社プロダクトで人材育成
村山木工の従業員数は毎年8~10人で推移し、ほとんどが未経験で入社します。伝統工芸の木工技術という特殊な業態で応募者も少ないことから、人材育成が前提の採用です。
しかし、主力事業の建築内装工芸品は案件ごとに新技術を開発したり、新しいデザインをもとに作ったりする一発勝負の仕事で、技術が未熟なスタッフには荷が重いといいます。
スタッフが学べる場面や育てる機会が少ないと感じていた村山さんは21年、曲面の組子を利用した、村山式立体組子照明シリーズ「組光(くみこう)」の開発を思いつきました。
「組光」とは、京都府内産のヒノキを使用した木製のランプシェードです。製品はフルオーダーメイドで、職人が一つずつ丁寧に作ります。
自社プロダクトを作る過程でスタッフに技術を習得させ、物作りの楽しさに触れてもらう。そして、クオリティーを担保し完成した商品を販売すれば、収益も上がる仕組みです。22年8月には、京組子や組光のショールームを兼ねたカフェ「Mushroom-office&cafe」を会社敷地内に併設しました。
「自分の技術力が上がって上手に作れたら、それだけでうれしい。ましてそれが商品として売れて、お客さんの手元に届くことは職人として最高の喜びです」
「京組子」の産地を目指して
村山さんの夢は「西陣織や清水焼のように、地元京北町を京組子の産地にすること」と言います。
「僕たちが京組子を広めて、さらに多くのオーダーを受けられるようになれば協力企業も生まれるでしょう。すると工房のまわりに京組子を作る木工所や関連会社の工場ができて、結果的に産地になっていきます」
今後の経営、そして後継者についてはどのように考えているのでしょうか。
「私たちのようなアートの領域も含まれるような職種は“後継者を育てる”こととは違うと感じています。僕の技術は誰かに継がせるものではなく、若い職人たちがいずれ継承していくものだからです」
「一方で、事業としては引き続き誰かが責任者となって、次の時代も、またその次の時代も成長していってほしいですね。そのためには、守破離を成し遂げた上で、誰もが作ったことがないものを作り出せるチャレンジ精神のある人が現れて、初めて実現できることだと思っています」