絵の具(490円〜)、筆(1100円〜)、ペインティングナイフ(2900円〜)、スケッチブック(440円〜)……。ラインアップは数千点にのぼりますが、月光荘の顔となる絵の具はもちろん、そのすべてがオリジナルです。
「月光荘は創業時より顧客とともに商品をつくりあげてきました。(画家の)猪熊弦一郎さんのリクエストをかたちにした『チタンホワイト(油彩絵の具)』や『筆洗器』、(パナソニック創業者の)松下幸之助さんの肝いりで考案された『ウス点(スケッチブック)』は好例です」
特筆すべきは、大量生産とは正反対のものづくりが行われている点です。たとえばペインティングナイフは鍜治屋が一本一本、鋼を研磨していって仕上げていますし、木炭は一から育てた柳の木を炭職人がじっくり焼いています。
「この業界はデジタル化のあおりを受けて斜陽の一途。鍛冶屋さんや炭職人さんは例外的存在であり、職人さんは年々、減っています。筆の職人さんも80代を迎え、引退を決意されました。お子さんが3人いらっしゃいましたが、後は継がせたくないという。このままではその技はついえてしまいます。わたしはスタッフに2年、通ってもらいました。そうして工具もろもろを譲っていただき、工房機能をまるごと銀座に移管することができました」
2011年にまっち絵の具(長野県)を吸収合併し、18年に春蔵絵具(埼玉県)と事業提携を結びました。まっち絵の具は1962年創業の水彩絵の具の名門、春蔵絵具は日本ではじめて油絵の具を製造した、大正の時代にまでさかのぼれる老舗です。
それは使命だったと語る日比さんはさらに踏み込んだ一手も模索しています。
「アニメのセル画も例に漏れず衰退しています。セル画復活を掲げて傘下工場のリソースを使った商品開発を行っている最中です。(と、スマホをのぞき込んで)あぁ、悔しいな。また失敗だ。みてください。気泡が入ってしまったようです」
原資となったのは、先代で実母のななせさんがこつこつと蓄えてくれたものでした。
「おかげさまでプールにためた水はきれいさっぱりはき出しました。はき出してしまったけれど、やるべきことはぎりぎりのところでやりきることができました。これからは投資を回収するフェーズに入ります」
工場の働き手もそのまま引き継いだ月光荘の社員数は、3倍強の21人にまで膨らみました。「売り上げはトントンと書いていただいても、カツカツと書いていただいても構いません」。来たるフェーズでは、まずはあらゆるモノ、コトをシステム化して利益の出る態勢を築いていきたいといいます。
アートファンが集う飲食店を経営
ものづくりの現場をテコ入れするかたわら、力を注いできたのが飲食業です。13年に生演奏とクレオール料理を売りにする「月のはなれ」(銀座)を、21年に“アートの公民館”をうたう「月光荘ファルべ」(埼玉県)をオープンしました。前者はもとは倉庫だったフロアを、後者は絵の具工場を改装したものです。
「モンマルトルやトキワ荘を考えてもらえばわかりやすいと思うんですけれど、文化は人が、すなわち才能が集まるところに生まれます。微力ながら、そういう空気が醸成される場がつくりたかった。文化は我々が拠って立つところですから」
「月のはなれ」は採算がとれるようになり、「月光荘フェルべ」も黒字化がみえるところまできました。
「『月のはなれ』は雑居ビルの屋上にあり、58段の階段をのぼらなければなりません。これがいわゆるにじり口となって、その世界観を愛する人々が集まってくださるようになりました。入りにくい店は認知されるまでに時間がかかります。立ち上げて2年は途方にくれました。絶対うまくいかないと忠告した友人の言葉が身にしみたものです。4ページにわたって特集してくれた情報誌が表舞台に立たせてくれました」
「月光荘ファルべ」は地元の主婦を中心とした働き手で運営しています。
「当初は銀座からスタッフを送ったりしたけれど、すぐにやめました。そこに暮らす人々が普段使いできる、“ケ”のコミュニティーを築こうと思ったんです」
思わず舌を巻いたのが、“ケ”に紛れ込ませる“ハレ”の演出です。
食器からなにまでとことんこだわっていますが、圧巻は店の奥と入り口にそれぞれ2台ずつ置いたスピーカー。外にこぼれる心地よい音に導かれるように足を踏み入れると、違和感を覚えます。ほんらいなら断絶する音がシームレスに鼓膜に届くのです。なんでも入り口のスピーカーの音を千分の3秒遅らせることで可能となるトリックだそうです。
ミュージシャンを目指したが…
日比さんはじつは音楽の世界で食べていこうと思っていました。
幼少時にバイオリンに親しんだ日比さんは長じてブルースの世界にひきつけられます。ミュージシャンとしてやっていきたいと考えた日比さんは19歳の年、94年にニューオーリンズへ(「月のはなれ」の看板メニューであるクレオールはニューオーリンズ発祥の料理でした)。
その才は高く評価され、事務所への所属が決まります。しかし気の強い日比さんは大人の指示どおりに動くことができません。「結局、2年でリリースされました」
「母がのれんを託されて30年。年老いてハンドリングできることも少なくなっていった。99年に帰国してからはいわれるまでもなく店に立つように。わたしは小さなころから店を手伝っていました。絵の具づくりから納品書の作成、店番まで。3代目というポジションは地続きの未来でした」
芸術家に活躍の場も提供
「月のはなれ」の舞台にあがるミュージシャンはすべてオーディションで選ばれています。
「ホールスタッフは面接するし、仕入れる酒は試飲してから決めますよね。それとおんなじです」
そのギャラは観客のおひねりといいます。
「海外は歩合制がポピュラーです。盛り上がれば自分たちの実入りにつながりますから演奏にも力が入る。その考え方に倣ったものです。最低価格保証を設けていますが、(おひねりが保証価格を下回ることはないので)もう何年も使っていませんね。舞台のスケジュールは半年先まで埋まっていたことも」
月光荘の主たる客である芸術家の活躍の場も用意しています。そこかしこに飾られる絵画などの作品は、やはりオーディションを通過した芸術家の手によるもの。彼らの取り分は、売り上げの70%。年に500万円が動くビジネスになっているというから侮れません。
月光荘ブランドのTシャツも販売
本業のほうではここ数年、月光荘ブランドの品ぞろえを広げています。売り場には画材道具とともに、Tシャツやコートが並びます。
「そのTシャツはバックプリントに沿ってハサミを入れればウエスになります。ウエスとは画家が使う雑巾がわりの布きれのこと。アトリエコートは文字どおり絵描きのためのコートで、筆が差せるポケットやギャザーの袖を特徴とします。職人仕事と画材道具という軸はぶらさず、現代のライフスタイルに溶け込むデザインを探求しているところがポイントです」
日比さんの話を聞いていて頭に浮かんだのはエルメスでした。馬具メーカーだったエルメスは3代目のエミール・エルメスが飛躍させました。馬車から自動車へとインフラが変わった時代に、バッグなどのレザーグッズをラインアップしていったのです。
「エルメスになれるのか、それとも3代目が食いつぶす、という江戸の川柳を生きることになるのか。たとえ食いつぶすことになったとしても、ここで動かなかったら違うと思いました」
創業者の生きざまをなぞっていた
「代表に就任した年にこれまでの月光荘をまとめた本を出版しました。『人生で大切なことは月光荘おじさんから学んだ』(産業編集センター刊)がそれです。あらためて歴史を振り返って驚きました。わたしがこれまでにしてきたことはことごとく祖父・兵蔵の半生をなぞるようなものだったのです」
月光荘は橋本兵蔵さんが1917年に創業しました。富山の農家に生まれた兵蔵さんは18歳で上京、書生としてYMCAの主事、フィッシャーさんの家に住み込みで働くことに。その向かいに住んでいたのがかねて憧れていた与謝野鉄幹・晶子夫妻でした。勇を鼓して門をたたいた兵蔵さんはあたたかく迎えられます。
君は色に対する感性があるからその方面の仕事をしてみてはどうか――。親交を深めるなか、そのようにアドバイスされた兵蔵さんは一念発起して新宿に店を構えます。月光荘という名とトレードマークのホルンは二人からの贈り物でした。店舗設計は藤田嗣治。パリの街がどからそのまま移築したようなしゃれたその店は映画の舞台にもなりました。
1940年には日本ではじめて純国産絵の具を完成させます。戦争により輸入が絶たれた日本にとって絵の具の開発は火急の課題であり、国を挙げて取り組みましたが、これを成し遂げたのが兵蔵さんでした。多くの戦争絵画は月光荘の絵の具で描かれました。のちに兵蔵さんは「悲しくも輝ける歴史なんだな」と語っています。
店につくったサロンは文化人が集まる拠点になりました。藤田嗣治をはじめ、梅原龍三郎、猪熊弦一郎、脇田和などそうそうたる面々が夜な夜な月光荘を訪れ、談論風発しました。
東京大空襲で街が灰燼に帰すと、裸一貫で銀座に移り、わずか3坪の店を開きます。その名をあらためて知らしめたのはやはり絵の具でした。1971年の世界油絵具コンクールで1位を獲得、フランスのルモンド紙は“フランス以外の国で生まれた奇跡”と称賛しました。
兵蔵さんは芸術家の卵への愛も惜しみませんでした。10銭分だけコーヒーを飲ませてくれというリクエストにも快く応じ、釣り銭をくすねる学生も見て見ぬふりをしたそうです。
画材に囲まれた幸せな生活は晩年も晩年、音を立てて崩れました。
「存命の方もおられるので詳細は伏せますが、月光荘は1989年に倒産します。兵蔵のあずかり知らぬところで手広く事業を展開した末に国際的なスキャンダルを起こしたのです。兵蔵は最後の力を振り絞り、本業の画材部門を残すべく奔走しました」
再建の道をつけた兵蔵さんは翌90年、96歳の生涯を閉じます。以後、与謝野晶子が書いたという月光荘の看板を守り続けてきたのが娘のななせさんでした。
自前のファームを持つ構想も
花を咲かせる時期にきたといいつつ、さらなる種まきも行動に移そうとしています。自前のファームをもつ、というのがそれです。
「芸術を突き詰めれば最後は自然にたどり着きます。自然の営みを辛抱強く観察することが、あらゆる表現活動の土台となるのです。ひよこを育て、絞めて、鍋をつくる。そんな場を切り開きたい。ところがこれも兵蔵が考えていたことでした」
兵蔵さんが残した手紙には、自給自足できる村づくりが人生最後の挑戦、と書いてあったそうです。
「あの世でじいさんにようやったといわれたら、それでいいかなと思っています」