目次

  1. 工作機械からテーマパークのアトラクションまで
  2. 「知ったかぶり」でつまずいた3年間
  3. 優しかった祖母から 「ちゃんとせえよ」
  4. 「父のようにはなれない」と危機感
  5. 従業員の「面倒くさい」は生産性向上のヒント
  6. 「工場の壁を抜く」が自走する組織の決定打に
  7. キャッチコピーは「機械加工はサービス業だ!!」
  8. 自身の経験をもとに「前を向いて」と講演も
  9. 改革を見守ってくれた父

 山本精工は山本さんの祖父・正一さんが1955年に創業し、主に工作機械に使われる金属部品の加工を手掛けてきました。手掛けた部品は、自動車やおにぎりを生産する機械のほか、有名テーマパークのアトラクションなど、幅広い分野で使われています。従業員数は70人。近年は、顧客に届ける部品の約9割を外部から調達するなど、「技術商社」としての側面も大きくなっています。

山本精工がてがける金属部品(同社提供)

 山本さんの幼少期、先代の父・正夫さんは仕事にかかりっきりで、家にいないことがほとんどでした。代わりに工場の従業員が、キャッチボールなどの遊び相手になってくれたといいます。父からは家業を継ぐように言われたことはありませんでしたが、「継いでほしい、という雰囲気は周囲からなんとなく感じていました。工場の油のにおいも、僕にとっては懐かしいにおいで、嫌いじゃなかった。高校生になるころには、自分は継ぐものだとすんなり考えていました」。

山本精工の金属加工の様子(同社提供)

 大学を卒業した山本さんは、家業に入るまえに「外の世界で飯を食えるようになろう」と考え、ベアリング販売などをてがける東京の専門商社に入社。営業の担当となりました。顧客のニーズを見越した見積もりの提示で、着々と受注を増やしていきます。トップクラスの営業成績となり、大きく自信を付けましたが、この経験が家業では裏目に出ました。

 2008年。父の病気をきっかけに、山本さんは2年勤めた会社をやめて家業に入りました。いち従業員として、営業担当からのスタート。前の会社での実績から、自信を持ってのぞんだものの、「山本精工での営業成績は最下位でした」。

 大きくつまずいた理由として、山本さんは「社長の息子という見栄が邪魔をした」と振り返ります。

 「金属加工の知識について、知ったかぶりをしてしまいました。前の会社なら、わからないことは素直に聞けたんですけど、家業ではわからないことが恥ずかしいと思ってしまって。前の会社で自信をつけていたこともあって、余計に意地を張っていました」

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