工場の壁を破って変えた組織風土 山本精工3代目の「何でも言って」改革
金属加工を手掛ける山本精工(大阪市)の3代目社長・山本正人さんは、 受け身がちだった従業員からアイデアを募るため、「なんでも言って委員会」なる会議を立ち上げました。コミュニケーションを続けるうちに、「工場の壁を抜いてほしい」という大胆な提案を受けます。これを思い切って実現したことで、会社の風土が大きく変化。従業員が自発的に効率化を進める組織作りに成功し、着実に利益を伸ばしています。
金属加工を手掛ける山本精工(大阪市)の3代目社長・山本正人さんは、 受け身がちだった従業員からアイデアを募るため、「なんでも言って委員会」なる会議を立ち上げました。コミュニケーションを続けるうちに、「工場の壁を抜いてほしい」という大胆な提案を受けます。これを思い切って実現したことで、会社の風土が大きく変化。従業員が自発的に効率化を進める組織作りに成功し、着実に利益を伸ばしています。
目次
山本精工は山本さんの祖父・正一さんが1955年に創業し、主に工作機械に使われる金属部品の加工を手掛けてきました。手掛けた部品は、自動車やおにぎりを生産する機械のほか、有名テーマパークのアトラクションなど、幅広い分野で使われています。従業員数は70人。近年は、顧客に届ける部品の約9割を外部から調達するなど、「技術商社」としての側面も大きくなっています。
山本さんの幼少期、先代の父・正夫さんは仕事にかかりっきりで、家にいないことがほとんどでした。代わりに工場の従業員が、キャッチボールなどの遊び相手になってくれたといいます。父からは家業を継ぐように言われたことはありませんでしたが、「継いでほしい、という雰囲気は周囲からなんとなく感じていました。工場の油のにおいも、僕にとっては懐かしいにおいで、嫌いじゃなかった。高校生になるころには、自分は継ぐものだとすんなり考えていました」。
大学を卒業した山本さんは、家業に入るまえに「外の世界で飯を食えるようになろう」と考え、ベアリング販売などをてがける東京の専門商社に入社。営業の担当となりました。顧客のニーズを見越した見積もりの提示で、着々と受注を増やしていきます。トップクラスの営業成績となり、大きく自信を付けましたが、この経験が家業では裏目に出ました。
2008年。父の病気をきっかけに、山本さんは2年勤めた会社をやめて家業に入りました。いち従業員として、営業担当からのスタート。前の会社での実績から、自信を持ってのぞんだものの、「山本精工での営業成績は最下位でした」。
大きくつまずいた理由として、山本さんは「社長の息子という見栄が邪魔をした」と振り返ります。
「金属加工の知識について、知ったかぶりをしてしまいました。前の会社なら、わからないことは素直に聞けたんですけど、家業ではわからないことが恥ずかしいと思ってしまって。前の会社で自信をつけていたこともあって、余計に意地を張っていました」
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「わからないままだと、取引先とのやりとりで『この部品は研磨が必要か』などと聞かれたときに生返事しかできないんです。向こうからしたら信用できない営業担当だし、そんな状態では受注は増やせないですよね」
山本さんは営業成績があがらないまま、3年ほどくすぶり続けました。周囲の視線も厳しくなり、「いつになったらできるのか」「この子が次期社長で大丈夫か」と陰でささやかれていました。
挽回のきっかけは、祖母の一言でした。仕事の会合後に寄った祖母の自宅で、「お前、ちゃんとせえよ」と仕事ぶりをたしなめられたのです。
「祖母は僕の仕事ぶりを知らないはずでした。おそらく父などから様子を聞き、心を鬼にして言ってくれたんだと思います。優しい祖母にそこまでさせてしまったことを、本当に申し訳なく思いました」
山本さんはそこから営業に関する本を読みあさり、書いてあるノウハウを実践していきました。「販路を増やすにはエリアを変えろ」という教えにそって、これまで営業をしていないかった愛知県に進出したところ、ブルーオーシャンのエリアを発見。勉強の成果もあり、次々と新規の受注が決まりました。
営業が軌道にのって結果を出したことで、山本さんはようやく社内で認められていきます。同じころに気づいたのが、先代の父のすごさでした。
「とにかく人に対する観察力、そして先見の明がある経営者でした」。山本さんは、父の正夫さんについてそう評します。
オフィスでの正夫さんは、自分の仕事をしながら、従業員の電話のやりとりにも常に注意を払っていました。取引先との会話に違和感があったら、「いまの、ちょっとおかしいんちゃうか」などとすぐに指摘。そこからトラブル回避につながったことがたびたびあったそうです。
2008年のリーマン・ショック後には、多くの製造業が検品などを担う間接部門のリストラを進める中で、あえて間接部門の採用を強化。景気の回復期に、間接部門の力が他社より強くなっていたことで、検品などを要する高精度な仕事が多く入るようになりました。この時の取り組みは、現在の稼ぐ力にもつながっているといいます。
「父が言った通りにすれば会社もうまくいくので、従業員が受け身になって誰も反論をしなくなっていました。強権的だったわけではないですが、結果的にトップダウン経営になっていたと思います。私には、とても父のような経営はできない。このままの体制では、自分が継いでも会社を成長させることができないと危機感を覚えました」
父と違う自分の長所はなにか。山本さんは、「自分が馬鹿だと自覚できていること」という答えに至ります。
「社長が一人で会社をひっぱっていくのではなく、みんなの知恵を借りて会社を成長させる『ボトムアップ型』の組織を作ろうと考えました」
組織の風土を変えるため、山本さんはある取り組みを始めました。週一回、従業員をローテーションで6人ほど集めて自由におしゃべりをしてもらう「なんでも言って委員会」の開催です。
会議室をとり、業務時間中に1時間を確保。話をしやすいよう、参加者は役職を持たない一般の従業員に限定し、担当業務が近かったり仲が良かったりする人同士を組み合わせました。
最終的な狙いは、従業員の率直な意見を引き出して経営改善につなげることでしたが、最初はコーヒーを飲みながら「きのう何食べた?」「休みの日はなにしてんの?」などのとりとめのないおしゃべりから始めました。司会役の山本さんは「いきなり『何か提案ください』では何も出ないと思ったので、最初はお互いを知って仲良くなることを目的にしました」といいます。
「委員会」をはじめて数ヵ月がたったころ。従業員から「あの作業が面倒くさい」「この部品を探すのが面倒くさい」といった「愚痴」が出てくるようになりました。
「最初は、ただの愚痴と思ってスルーしてしまっていました。でも2回3回と愚痴が出て来るうちに、『面倒くさい=生産性が悪い』っていうことだと気づいたんです」
そこからは、会話のなかの「面倒くさい」が改善点の目印になりました。
山本さんは、ボトムアップの風土を根付かせるためには、従業員にとって「自分の提案が批判されずきちんと実現する」という経験が大事だと考えていました。部品を探しやすいようラベルを工夫したり、備品の補充ルールを統一したりと、コストがかからない小さな改善を一つ一つ実現していきました。
取り組みから1年ほどたったころ、文字通り「ブレイクスルー」となる出来事がおきました。
ある日の委員会で、寡黙な若手社員から提案が出ました。「動線をよくするために、工場の壁を抜いてほしい」というのです。
山本精工では、敷地内に三つの工場が横並びになっており、隣の工場に行くには正面の出入り口から一度外に出て移動する必要がありました。若手社員の提案は、工場の壁に穴をあけて隣同士を連絡通路でつなぐことで、回り道をせず工場を直接行き来できるようにする、というものでした。
かかるコストは計200万円ほど。それまでの小さな改善とはレベルが違います。山本さんも「そんな発想はまったくなかった」と最初はためらいましたが、最終的にゴーサインを出しました。当時社長だった父の正夫さんも理解を示し、連絡通路の設置が実現しました。
この連絡通路設置は、単なる効率化以上の効果がありました。会社側の本気度が伝わったのか、従業員からの自発的な提案が大幅に増えていったのです。
「提案の数が、体感で2倍くらいに増え、改善の質もどんどんあがっていきました。やがて、わざわざ場を設けなくても自然と改善提案が出てくるようになったので、『なんでも言って委員会』は2年ほどで役目を終えて廃止となりました。今では社内を歩いているだけで『山本さん、これどう思いますか』と声をかけられます。利益率の向上にもつながり、200万円の元手は十分にとれたと思います」
ボトムアップ型の組織作りを経て、山本さんは2016年に常務に就任。実質的に経営を任されるようになりました。重視したのは「技術よりも安心感」という方針です。
「部品の中には、高い加工技術を必要とするものもありますが、売り上げの大半を占めるのは普通の技術でできるものです。ここで差別化をはかるためには、『安心感』が必要だと考えました。普通の部品で納期を守って、不良率をさげ、何か不備があったときにすぐフォローする。アマゾンなどのECが急速に普及するのを目の当たりにしていたので、その使いやすさ、便利さが製造業でも大事だと思ったんです」
「安心」に必要な管理体制の下地はすでにできていました。父の正夫さんが、リーマン・ショック後に品質の検査要員をしっかり採用していたのです。山本さんはこの体制を強化し、検査要員を3人から11人に大幅増員。数千万円かけて新たな検査機器も導入しました。
自社ホームページには「機械加工はサービス業だ!!」というキャッチコピーを掲げ、従業員への浸透もはかりました。手厚いフォロー態勢が評価され、売り上げは着実に増加。2016年の専務就任時に8.8億円だった売上高を、3年間で12億円まで増やしました。
従業員による効率化の積み重ねも実を結びます。3~6%ほどで推移していた経常利益率は、ボトムアップ型組織への生まれ変わりを経て、10~12%ほどまで向上しました。「効率化を進めていたおかげで、電気代や原材料費の高騰にもある程度耐えることができた」と山本さん。今後も、サービス面で付加価値をつけることで、会社を着実に成長させていこうとしています。
山本さんの顔には生まれつき、「血管腫」による赤いあざがあります。小~中学生のころには顔のことで心無い言葉をかけられ、つらい思いをしましたが、高校時代に味方となる友人が増え、コンプレックスを克服していったといいます。現在はその経験をもとに、中学校など教育の場での講演活動もしています。
「講演では最初に、『僕の顔を見て気になる人はいますか?』とたずねます。すると、生徒全員が手を挙げるんですね。でも50分の講演で、僕の経験や人となりを話したあとにもう一度聞くと、手は挙がらなくなります。何も知らなければあざにばかり目がいってしまうけど、僕の人柄がわかれば、顔のあざは特長のほんの一部に変わっちゃうんですね。人の気持ちや感じ方はたかだか50分でこんなに変わる、だからコンプレックスを気にせんと前を向いて歩けよと、そんなことを伝えています」
2021年1月、山本さんは父の正夫さんと交代し、社長に就任しました。正夫さんは社長を退任後、「役職があると口出ししちゃうから」と、代表権を持たない相談役という立ち位置を選びました。
「改革を見守ってくれた父には、感謝しかありません。世間では金属加工に対しては3Kのイメージが残っていますが、会社の成長で給与をあげて雇用をふやし、そのイメージを覆していきたいですね」
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