環境省の調査によると、2020年における日本の産業廃棄物の総排出量は3億7382万トン。うちリサイクルされるのは53%で、残りの47%は減量化されるか、埋め立て処分されています。産廃処理は爆発性や毒性、感染性など危険が伴うこともあり、古いイメージや慣習などがイノベーションを妨げてきた面もありました。
これは、丸商が廃棄物を処理したいクライアントの要望を聞き取り、そのニーズに合った収集運搬業者や処理業者との間を取り持ち、処理方法の確認や価格交渉も担う仕組みです。丸商は日本有数の工業地帯・四日市市にあり、扱う廃棄物はプラスチックや汚泥、廃油、紙や木のくずなど多岐にわたり、法令順守やコスト低減への提案も行います。
河本さんは、鉄のリサイクルを生業とする小さなスクラップ工場の家に生まれました。子どものころは進んで家業を手伝ったといいます。「夏休みなどは必ず父の工場を手伝いました。働く父は力強く、何もかもがキラキラ輝いて見えたんです」
しかし、両親から誘われると、高校卒業後、別の会社を経て悩んだ末に入社しました。しかし、まもなく父子の立場の違いが鮮明になったといいます。
「父が祖父から事業を引き継いだ40年前、日本はリサイクルという概念すら一般的ではありませんでした。が、90年代になると容器包装リサイクル法や、家電リサイクル法などが次々と整備されていきます」
「でも、私が入社した2000年ごろは、環境意識の高まりから、なるべくコストをかけずにリサイクルしてほしい人、環境を優先してもっといい方法を考えてほしい人などニーズが多様化していきました。家業のリサイクルだけでいいのかとジレンマを抱えるようになったんです」
しかし、父親に想いをぶつけると猛反発されます。それは、変えたいと思ってもなかなか進まない事情があったからです。
環境省によると、日本の産廃業界は今でも従業員が10人以下の中小零細が約8割。収集運搬、中間処理、リサイクルまでトータルで扱う企業は多くありません。多様なニーズに応えたくても限界があるのです。
親子の意見対立はエスカレート。河本さんは「もうここにはいられない」と思うほど追い詰められ、2013年に丸商を起業しました。
「何もないこと」がメリットに
起業当初、父親とは絶縁状態だったといいます。援助も処理工場も一切ありません。産業廃棄物を運ぶドライバーと妻のほかはゼロからのスタートでした。
マッチングのアイデアを思いついたのは、起業して2年目のことです。「何も持たなくてもできることはないか」と考え抜いた末でした。
「何も持っていない、というのはメリットでもあります。全国レベルで工場を探せば、自社でやるよりもいい処理方法が見つかるからです。全国の工場とごみをマッチングさせるアイデアを思いつきました」
たとえば、中身が分からない薬品や、特殊な化学物質を含むケースは、処理できる工場が限られます。各企業の担当者が工場を探そうとすると、1件1件電話をかけ、現場を確認しなければなりません。自治体ごとに異なる規制にのっとっているかどうかも見極める必要もあります。
不法投棄を防ぐため、法改正のたびに排出事業者の責任も厳しくなってきています。よく知らない業者に頼んで問題が起きたら、企業の信頼は失墜しかねません。
そこに商機があると、河本さんは考えました。
「専門の調査部隊を設け、全国のどこに自治体認定を受けた工場があるか、どんな設備や処理能力を持っているかなど、細かく情報収集しました。そして有望な処理工場があれば、1社1社電話をかけたり、現地に足を運んだりしてきました。これまで見つけた協力工場の数は200社ほど。独自の強みがあるか、法令順守しているか、SDGsに積極的かなどを重視して厳選しています」
ただ、県外を越えて産業廃棄物の取引が発生するケースはめったにありません。相手(工場)になかなか信用してもらえず、苦労したこともあったとか。「何か探ろうとしているのでは?」、「そんな仕事あるわけない」と、断られることも多かったそうです。それでも河本さんは熱心に説得を続けました。
「『この仕事はあなたの工場なら出来るはず』と、相手の長所を挙げ、口説き続けました。最終的にうまくいかなくても、理由をきちんと説明してフォローも行いました。丁寧なコミュニケーションが、徐々に信頼と実績につながっていきました」
ハードルを乗り越えたネット営業
しかし、この構想を顧客に提案した当初、もう一つの壁にぶつかります。「今のやり方を変えたくない」と抵抗されたのです。
「産業廃棄物は事業と密接な関わりがあります。強い動機やトップダウンがない限り、担当者レベルでそうそう仕組みは変えられません。アイデアはいいけれど『今は間に合っています』と言われてしまうことが多くて。(ニーズとの)タイミングを合わせるのは至難の業だと痛感させられました」
そこで思いついたのが「インターネットを使って、タイミングを合わせる」という方法でした。「営業マンはタイミングを見計らって営業する必要がありますが、ネットなら必要とする人が必要な時に検索してくれます」
マッチングをはじめて4年目、河本さんはホームページ制作に数千万円を投じます。導入事例やコラムなど、産廃に関わる情報を次々に発信しました。
とくに重視したのはコンテンツの独自性です。自分たちが調べた情報をもとに、顧客の課題解決につながる記事の制作・発信を心がけると、ホームページ開設翌年から徐々に問い合わせが来るようになりました。
今ではネットを通じて全国から年間500件超の問い合わせが届くといいます。1日平均で1〜2件の新規相談が寄せられる計算です。記事更新は今も続けており、例えば、23年11月は「活性炭の処理方法」、「許可証の確認するポイントは?」といったコンテンツを出しています。
問い合わせ増加に伴い、商談の受け皿も整えました。
「相談が寄せられると、まず営業部隊が課題をヒアリングし、現場の状況を確認します。そして、調査部隊がどのようにごみを収集・廃棄するかリサーチし、依頼主が最適な方法を選べるよう、3〜10通りのプランを提案しています」
たとえ成約に結びつかなくても、問い合わせ内容は必ずデータベースに記録し、全社員がいつでも検索できるようにしました。後日、別の問い合わせがあった時、要望に近い案件があれば、改めて提案できるようにしたのです。地道な情報の蓄積と営業努力が、マッチング精度の向上につながっているそうです。
業績は急拡大し、起業当時3人だけだった会社は20人に増え、新社屋も完成しました。
ごみの「有価物化」にも挑戦
今は廃棄物の「有価物化」にも挑んでいます。有価物化とは、廃棄物を価値あるものとして「買い手」を見つけるアップサイクルの試みです。
例えば「食品残さ」として捨てられていたごみを、家畜の飼料に転用したケースが代表的です。
この食品メーカーの担当者は元々、「ごみとはいえ、せっかくカロリーも栄養もある食品なのにもったいない。もっと環境にいい、有効活用できる方法はないか」と課題感を持っていたといいます。
相談を受けた丸商は、食品残さを引き取ってくれる畜産農家とのマッチングを仲介しました。「そのお客様は長い間、高いお金を払って処分するしかなく、半ばあきらめ状態でした。でも、家畜飼料に有効活用し、処分費用も削減できると喜んでもらえました」
有価物化の取り組みは食品以外にも広がっています。化学工場から排出された廃油を他の材料とブレンドして燃料として再生。ほかにも鉄くずや非鉄金属、OA機器など十数品目を有価物として買い取る業者を見つけ、マッチングに成功した事例もあります。
社員全員が「辞めたい」と直訴
組織運営ではピンチもありました。起業して4年目のころ、社員全員が「会社を辞めたい」と言い出したのです。
「その時はマッチングなど事業を軌道に乗せるのに必死で、社員の不満に全く気づきませんでした。手伝ってくれていた弟にまで離れたいと言われてしまいました」
かつて、自分が親元を離れたのと同じようなことが、自身に降りかかったのです。河本さんはすぐに姿勢を改めました。
「それまでは仕事のことしか頭になく、社員との会話を楽しむ余裕は一切ありませんでした。でも、今はなるべく社員と会話したり、飲みに行ったり、交流する時間を作るようにしています。サービス残業も廃止し、働いた分だけ残業代をつける給与体系に変えました」
対話重視の姿勢に改め、社員は1人も辞めずにすみました。いまは社員教育にも力を入れ、廃棄物がどのように分別、回収、処理されるのか顧客の工場などで学ぶ機会も設けています。
業界のイメージアップにも積極的です。新社屋はグリーンや木材をふんだんに使い、フリーアドレス制にしました。23年中には自社でシステム開発を行い、SaaSによる産廃マッチングサービスも始める計画です。
「父があってこその自分」
かつて父子関係に苦労した河本さんも今は「父があってこその自分」と思っています。いまでは時々、食事をするくらいに関係も回復しました。
「全員が(丸商を)辞めたいと言った時、1人でやればいいと思ったこともありました。でも、皆で苦労しながら働く楽しさは、父の工場で学んでいます。その思い出があるから、今があるのかもしれません」
「父が変われなかったのは、父なりの事情がありました。小さな会社は、工場の稼働率を維持するだけで精いっぱいだからです。自分も工場を持っていたら、クライアントの希望より自分の都合を優先して、マッチングというアイデアは思いつかなかったでしょう。父への反骨精神があったからこそ、ここまで来られた。全てに感謝しなければならないと思います」
「産廃マッチング」の仕組みは、大手企業からも評価されるようになりました。
「未来の子どもたちのために、民間から新しいアイデアをどんどん生みだしたい。自分たちの力でより良い循環型社会に一歩でも近づけたいと願っています」