「問い合わせフォームといえばクレームが来るものとばかり思っていたから驚きました。そこには感謝の言葉があふれていたんです。わざわざ手紙を寄越してくれるお客さまもいらっしゃるんですよ。言葉を受けとるたび、スタッフともども胸がいっぱいに。みな一様に感謝していると口をそろえられるのですが、むしろわたしどものほうが感謝しています」
23年7月に「シャンヴルマキ」を立ち上げると、ほどなくNHKの情報番組で取り上げられます。ホームページをオープンしただけのひっそりとした幕開けでしたが、おかげで現場が混乱するほどの注文が入りました。
同じく肌触りを考えてスベリを排除。スベリとはフィット感を高めるための裏地のパーツです。代わりにぐるりと巻いたテープやSMLのサイズ展開で対応できるようにしました。
なによりもデザインに目を奪われます。ラインアップはシーン、スタイルに応じた全18モデル。クラシックなデザインをベースにしたシャンヴルマキは、みなが待ち望んでいたものでした。
それまで患者用帽子といえばニット帽と相場は決まっていました。
注力したのが「脱がなくていい帽子」と銘打ったコレクションです。室内でもそのままかぶっていられるようツバを排除しました。やわらかな素材や色をベースとし、コットンパールやリボンをあしらったたたずまいはエレガントのひと言。ドレープが美しく入ったその帽子は帽子というよりも頭に巻きつけた一切れの布のようです。
プライスレンジは6930円〜1万4300円。ニット帽の平均単価は3千〜4千円ですから、倍以上の値付けです。にもかかわらず幸先良いスタートを切ることができたのは、シャンヴルマキには脱毛を隠すのみならず、 おしゃれ心を満たすデザインがあったから。ニット帽は競合のようにみえて競合ではなかったのです。
「街に出かけると、決まって気になったのがニット帽の人々。一目みて闘病されているのがわかりました。せっかくのおしゃれも台無しです。頭のてっぺんまでおしゃれをしたい――。そんな彼女たちのための帽子をつくりたかった」
三越や伊勢丹に胸を張って買い物にいける帽子が裏テーマだそうです。
震災で経営が悪化した家業へ
佐藤さんは大学を卒業すると富士フイルムに入社します。みずから営業を志願した佐藤さんはみなからかわいがられました。印刷関連機器や資材の営業で5年。そのがんばりが認められると、かねてあこがれていた化粧品ブランドに配属されます。
順風満帆な会社員生活を送っていた佐藤さんでしたが、そんなおり、父でサトー3代目の清さんが体調不良に陥ります。飯舘村に構える自社工場が東日本大震災による原発事故の影響で閉鎖したのです。同業者からは「サトーは終わった」といわれました。3億円強あった売り上げは激減しました。
母のみゆきさんから事の顛末を聞かされて半年後、佐藤さんは富士フイルムを退社して家業入りします。13年4月のことでした。
「たいへん充実した毎日でしたから、未練がないといえばうそになりますが、居ても立ってもいられない気持ちでした。それに富士フイルムはわたしひとりがいなくても困りません。両親は戸惑っていましたが、決めたからには引き下がれません」
「父はやるんだったら別の商売を考えてみたらどうかといいました。それまで無借金経営でやってきたから、融資も受けやすいだろうと。わたしははなから相手にしませんでした。代々続けてきた帽子製造業を続ける。これがなにより大切だと思ったからです」
営業を任されて売り上げを回復
営業を任された佐藤さんはぐんぐん業績を伸ばします。
「はじめての営業は勇んで帽子をかぶっていったのですが、後ろ前が反対でした。それほど帽子のことを知りませんでした。みなさん親切なかたで、手取り足取り教えてくださいました」
帽子の知識はともかく、営業に不安はなかったといいます。
「扱う商材が違うだけで、やることは(富士フイルムの時代と)一緒ですから。営業に求められるのは取引先が望んでいるものをいかに用意するか。サトーは国内外に協力工場がありましたが、その引き出しを増やしました。1社しかなかった中国の工場は4〜5社に」
それまで行われていた展示会形式の注文をやめたのも佐藤さんです。取引先それぞれにサンプルをつくって商談に臨む形式に切り替えました。ひざを突き合わせることでものづくりの精度は向上し、信頼関係も確固たるものになりました。これも富士フイルムで学んだスタイルでした。
売り上げは毎年2ケタ増で伸びて、最盛期に迫る勢いでした。
その営業スタイルは自身の企画力をあげることにもつながります。「いまだにUFOのような帽子しか描けない」と笑う佐藤さんですが、ニーズをくみ取り、デザイン画を描き、サンプルをつくるそのスタイルはデザイナーとしてのキャリア形成に寄与しました。
もちろんそれは、シャンヴルマキにも大いに発揮されることになります。ラインアップした帽子は1点を除いてまんべんなく売れているそうです。売れていない1点も不出来だったわけではありません。中折れのその帽子はむしろファッション感度が高すぎたのです。
迎え入れた社員が離職
17年、飯舘村の避難指示が解除されます(帰還困難区域をのぞく。23年に復興再生拠点が解除)。佐藤さんは父とともに6年ぶりに工場を訪れました。そこはなにもかもが当時のままでした。一度は一切合切を売り払おうと考えましたが、風評被害で買い手はつきません。佐藤さんはミシンを引き上げて本社に縫製部門を設けます。
「(縫製部門をつくるにあたり)社員を3人迎え入れました。外注工賃では東京の生活はままなりません。社員としての雇用はわたしにとって当然の選択でしたが、『縫製職人を雇うなんて聞いたことがない』と同業者からは心配されました」
当時を振り返っていると、にわかに表情がかげりました。
「あのころのわたしはなんとかして軌道に乗せなければと気ばかり焦っていました。これでは納期に間に合わない。工場として機能していないといわざるを得ない。改善策を出してください――。わたしはいつもの早口で問い詰めました。あらたに採用した社員は2年あまりでみな、辞めていきました」
憔悴する佐藤さんのもとに和歌山の協力工場から連絡が入ります。廃業の知らせでした。
「掛け値なくすばらしい工場です。はじめてお邪魔した帰りの電車では『わたしの工場をみつけた』とはしゃいだものです。だからいったんです。うちの工場になってくださいって」
話はまとまり、19年、事業譲渡が決まりました。シャンヴルマキには繊細なものづくりが求められますが、それもこれも和歌山の工場があってこそです。
コロナ禍で年商が半減
そのものづくりには母のみゆきさんの存在も欠かせません。子育てが一段落したみゆきさんは家業をもり立てるべく、パターンの仕事を覚えました。メンズから始まったサトーの売り上げは現在、レディースが9割を占めますが、新規開拓の立役者はみゆきさんです。
そんなみゆきさんも佐藤さんの注文には音をあげました。先をうながすと、佐藤さんはいたずらっ子のように肩をすくめました。
「サンプル1個つくるのに半年かかりました。通常は2カ月ですから3倍です。ここのラインを、ドレープを、と修正を加えているうちに『わたしの技術ではこれ以上できない』と泣きが入ったことも。わたしはすかさず『そんなこといわないで。もう一回だけやってみよう』となだめすかしました」
話を戻せば、生産体制を整えて一息ついたのもつかの間、コロナ禍が襲いかかります。売り上げはふたたび半減しました。サトーの取引先の6割は百貨店問屋。この注文がほとんどなくなったのです。佐藤さんは休業して雇用調整助成金を申請しました。
「家業入りを決めたときは残存者利益でやっていけると思っていました。身もふたもない言い方をすればこの業界に未来はない。未来のない業界に新規参入はありませんから、そこそこやっていけるんじゃないかと踏んでいた。なんて甘い考えだったんだろうと心から反省しました」
プロジェクト始動後、自身ががんに
二度と一人の社員も手放したくない――。進退窮まった佐藤さんの頭にひとつの考えがひらめきます。それが、シャンヴルマキでした。ひらめいたものの、日々の仕事に追われていたずらに時は過ぎていきます。尻に火がついた佐藤さんは22年の仕事始め、プロジェクトの始動を社員に宣言します。
あらたなプロジェクトが加わり、目の回る忙しさのなか、口内炎に悩まされます。診察を受けたところ、舌がんの宣告を受けました。
「絶望で崩れ落ちそうになりました。ぼうぜんとして待合室に座っていると、たくさんの患者さんがいるのに気づきました。彼らもつらい思いをしているんです。わたしも負けていられないと懸命に気持ちを切り替えました」
佐藤さんは事業再構築補助金の手続きをします。当時聞いていた採択率は25〜30%という狭き門。落ちようが落ちまいがブランドを立ち上げると決めて、入院中に分厚いマニュアルと格闘、2回目の挑戦で採択を勝ちとりました。
評価されたのはオンラインフィッティングとサブスクをそなえたホームページでした。そのサービスを打ち出しているところは少なくとも帽子の業界にはありませんでした。
順調な滑り出しをみせたシャンヴルマキは、卸の引き合いもあるそうですが、現時点では断っているそうです。
「お客さま一人ひとりと向き合い、その声を反映させていきたいから。納得いく水準に達するまでは目の届く範囲でやっていくつもりです」
サトーの社員は本社に8人、和歌山の工場に8人います。ブランドとして強固な土台を築き、彼らにきちんと利益を還元することができるようにするのが、もう一つの目標です。
名実ともに4代目に
22年には父の清さんから全権を譲り受けました。
「入社翌年に社長の肩書をもらいましたが、実権を握っているのは父でした。すべての責任を負ってこそ社長です。直談判しましたが、聞く耳をもちません。きっと娘なんかには任せられないと侮っていたんです。親娘ゲンカに割って入ってくれたのが母でした。『娘がどんな思いで家業に入ったのかわかっているの』って」
娘の力量を軽んじているというよりも、自分はまだやれるという気持ちだったのでしょう。代表の座を明け渡したばかりの清さんは「あたらしい会社をつくろうかな」と冗談とも本気ともつかない口ぶりでいっていたそうです。
ところがいざシャンヴルマキがその一歩を踏み出すと、たいへんな盛況ぶり。清さんは「ずいぶんと出荷しているんだなあ」と目を丸くしました。丸くした目には、まな娘への賛辞が込められていました。