マッチ老舗の日東社、4代目社長が事業の一部譲渡で見せた「スパッと判断」
創業123年のマッチメーカー「日東社」(兵庫県姫路市)は、2023年夏、祖業であるマッチ事業などは残しつつ、価格競争などで赤字に陥った紙おしぼり事業など年間売上高約8割を譲渡しました。目まぐるしく変わる事業環境に合わせて素早い事業譲渡を判断できたのはなぜなのか、4代目社長の大西雅之さんに聞きました。
創業123年のマッチメーカー「日東社」(兵庫県姫路市)は、2023年夏、祖業であるマッチ事業などは残しつつ、価格競争などで赤字に陥った紙おしぼり事業など年間売上高約8割を譲渡しました。目まぐるしく変わる事業環境に合わせて素早い事業譲渡を判断できたのはなぜなのか、4代目社長の大西雅之さんに聞きました。
目次
マッチが日本に入ってきたのは、1800年代後半だと言われています。各地で製造が盛んになりますが、中でも兵庫県姫路市は雨が少なく温暖な瀬戸内海性気候が、乾燥工程の多いマッチの製造に適していたこと、神戸港も近く原材料の輸入や製品の輸出に有利だったことから、次第にマッチ生産の一大拠点に成長していきます。
初代の大西廣松さんが日東社を創業したころはマッチすべての製造ではなく、マッチ箱の製造に特化していました。素材も現在のように紙ではなく、木地(薄い木)で作られており、表面に印刷した紙をラベルとして貼り付けるものでした。
しばらくすると中身のマッチも作るようになります。2代目の貞三さんに代替わりすると、大量生産しやすい紙箱にシフト。加えて、表面のラベルを広告とする、オーダーマッチの製造に日本で初めて着手します。
3代目の壬(あきら)さんになると、事業の多角化を進めます。
理由は、マッチ産業の斜陽化でした。1973年をピークに、需要も生産量も下降していたのです。
そこで、取引先である、銀行、保険会社、外食産業、ホテルなどで利用が見込まれる商材を検討。ポケットティッシュ、紙おしぼり、ライター、カイロなどを手がけるようになります。
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大阪、名古屋、九州、東京などにも事業所を展開。売上は25億円ほどまでに成長します。
ただし、マッチ産業の縮小は止まることなく、ますます顕著になっていきます。
「もともとは全国に90社ほどのマッチ事業者がありました。しかし、毎年1割ほど生産量が落ちていき、現在の市場規模はピーク時の100分の1以下にまでなっています。
当然、経営が厳しい会社も出てきました。中でも大きな影響を受けたのが、オーダーマッチではなく、既製品のマッチのみを扱っていた会社でした。
「実際、うちもマッチ事業は赤字でした。他の事業がなかったら厳しかったと思います」
実は日東社では、マッチ事業の縮小で生まれた工場跡地をテニスコートにし、テニススクールを運営する事業にも着手していました。テニススクールは時流の波に乗ったこともあり、業績は好調です。
そうしたなか、マッチ事業の同業者から「事業を畳もうと思っている、引き継いでくれないか」との話を、もらうようになります。
そして、2012~2017年に、同業4社から事業を譲り受けました。
「当時はM&A専業会社が今ほど活発ではありませんでしたから、両社のトップ同士が腹を割って話し合い、条件面などを詰めていきました」
工場を持たない同業社には、販売先の営業権ならびに、これまで生産を委託していたOEM先を日東社に移す契約を結びました。製造部門も持つ同業社に対しては生産ならびにこれまで工場で働いていた従業員、さらには得意先を受け入れるような契約も結びました。
そんななか、赤字が続いていたマッチ事業に光明が差します。業界の再編が進み、製造を手がけるのは2社だけとなり、規模的には日東社がトップとなりました。その結果、これまでネックとなっていた価格を黒字に見合うところまで交渉できるようになったのです。
ところが今度は逆に、売上高の約5割を占めていた紙おしぼりが価格競争の対象となり、赤字に転換する事態になります。さらにはコロナ禍の影響で、紙おしぼりの需要そのものも激減。ポケットティッシュも同様でした。
「コロナ禍で飲食店がまず削る経費が、紙おしぼりでした。値段もドン底まで落ち込んでいたので、これはさすがにまずいと思うようになっていきました」
当初は現場の担当者や営業などに状況を伝え、なんとか黒字化を目指すような努力を続けますが、思ったような打開策がなかなか見つかりません。
「いくら頑張っても結果が出ませんでしたから、これはさすがに限界やな、と。自社の力だけでは事業再建は難しいと考えるようになりました」
5代目候補であり、現在役員を務める息子の潤さん、もうひとりの幹部の3人で話し合い、祖業であるマッチ・ライター・のぼり事業のみを残し、他の事業はすべての売却・譲渡を決めます。
マッチ事業を残した決断について、もちろんマッチ事業が黒字に転換していたことも、事業継続を決めた理由のひとつでしょう。それに加え、大西さんは、祖業への愛着があり、これまで事業を継続してきた先人たちへの配慮があったとも話します。
「父親は他界していましたから、特に反対する人はいませんでした。しかし、さすがにマッチ事業まで売却したら、天国の父親から怒られるだろうと」
事業規模は売上で25億円から5億円に、従業員数は150人から40人に縮小することになりました。このほか、グループ会社であるテニススクール事業は70億~80億円の売上があるといいます。
事業譲渡について、大西さんは周りからの目や声は一切気にしなかったそうです。「既存事業への執着やこだわりがあるばかりに、親から継いだ会社を潰してしまった経営者を何人も見てきた」経験があるからです。
たとえば現状、10億円の資産がある。一方で、毎年1億円の赤字を出し続けている。かつ、打開策を打ち出せずにいる会社があったとします。数年で自分には改善が無理だと気づき売却すれば、すべての資産を失うことはありません。
しかし、経営者を辞める恥ずかしさやプライドが仇となれば、結果として無一文になってしまうこともあるのです。
私はそのようになりたくない、だから英断した、と。改めて大西さんは今回の決断を振り返ります。
「自分にできないことは頑張らない。ある程度努力して無理だと分かったら、スパッと判断することが重要だと考えています」
事業譲渡に関してはM&Aを専門に手がける事業者に依頼。3つの条件を提示しました。
細かな調整はあったそうですが、譲渡先の企業はこの3つの条件をすべて受託。そのため話し合いから締結までも7ヵ月ほどとスムーズだったそうです。
従業員への告知は、事業譲渡が執行される2カ月前に、社長の口から直接伝えました。一部の従業員からは、日東社という会社のブランドが好きで働いていた、との不満の声が聞かれましたが、辞めた人は1人もいませんでした。
一方、譲渡先企業のトップは現場上がりの人物で、過去に赤字を立て直した経験があるといいます。
大西さんは「この人、この会社であればきっと立て直してくれると思いました」と話します。
実際、事業譲渡後すぐに、大西さんも以前からネックだと捉えていた東京営業所の移転により、家賃経費を4分の1に削減したとの報告を受けます。
「東京営業所の家賃が高いのは、以前から分かっていました。でも、社内にいると従業員との関係性が深くなることなどで、厳しい判断が難しくなったり、鈍ったりすることがあるんです。そのような観点からも、今回の事業譲渡は正しい判断だったと思っています」
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