目次

  1. 日本で初めてオーダーマッチを製造
  2. 商材をポケットティッシュや紙おしぼりに拡大
  3. マッチ事業はピーク時の100分の1以下に
  4. 買収側から一転、売却側へ
  5. 既存事業にこだわって家業を廃業させないために
  6. 従業員の雇用と給与維持は絶対「この人なら」

 マッチが日本に入ってきたのは、1800年代後半だと言われています。各地で製造が盛んになりますが、中でも兵庫県姫路市は雨が少なく温暖な瀬戸内海性気候が、乾燥工程の多いマッチの製造に適していたこと、神戸港も近く原材料の輸入や製品の輸出に有利だったことから、次第にマッチ生産の一大拠点に成長していきます。

創業当時、木地箱に貼り付けていたマッチのラベル

 初代の大西廣松さんが日東社を創業したころはマッチすべての製造ではなく、マッチ箱の製造に特化していました。素材も現在のように紙ではなく、木地(薄い木)で作られており、表面に印刷した紙をラベルとして貼り付けるものでした。

現在製造しているマッチ

 しばらくすると中身のマッチも作るようになります。2代目の貞三さんに代替わりすると、大量生産しやすい紙箱にシフト。加えて、表面のラベルを広告とする、オーダーマッチの製造に日本で初めて着手します。

 3代目の壬(あきら)さんになると、事業の多角化を進めます。

 理由は、マッチ産業の斜陽化でした。1973年をピークに、需要も生産量も下降していたのです。

 そこで、取引先である、銀行、保険会社、外食産業、ホテルなどで利用が見込まれる商材を検討。ポケットティッシュ、紙おしぼり、ライター、カイロなどを手がけるようになります。

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