森本芭蕉堂は伊賀市のJR伊賀上野駅のそばにあります。記録に残る創業年は明治30(1897)年ですが、初代・森本金造がそれより前から和菓子店を始めていたそうです。そして、加藤さんの祖父で3代目の昭三さんの時代に、「かたやき」を主軸とした今の経営形態になりました。
かたやきは戦国時代に忍者が携帯した保存食をモチーフにした焼き菓子で、小麦粉に砂糖を混ぜた生地をかたく焼いて作ります。水分を飛ばしながら鉄板で焼き上げ、ケシの実やゴマ、あおのりなどをのせて仕上げています。店によって生地の配合や味が異なり、その素朴な味わいで土産物としてだけでなく、地元のファンも多い銘菓です。
同店では昔ながらの製法を守り、鉄板の前に付きっ切りで一枚一枚手焼きしています。年間製造量は約15万枚。観光シーズンの需要が高く、春と秋は1日1千枚焼き上げる日もあるそうです。
5代目の加藤さんは「焼きの工程は今でも難しいです。気温や湿度、火加減や時間、厚み、ちょっとしたことで焼き上がりが違ってきます。最初は売り物にできない『お徳用』ばかり作っていました」と照れくさそうに話します。30歳で家業に入り、10年の月日が経ちました。
加藤さんにとって森本芭蕉堂は「母の実家で、祖父母の家」という認識でした。幼少期に少し住んでいた時期はありますが、家業という意識さえないまま、地元で就職。携帯電話の販売員として働いていました。祖父や両親からも「店を継いで欲しい」という話は全くありませんでした。しかし、人生は30歳で一変します。
2013年、伊賀市などを襲った台風18号で、森本芭蕉堂もひざ下まで浸水しました。当時は3代目の祖父と、加藤さんの母・ひとみさんが店を切り盛りしていましたが、被災をきっかけにひとみさんは店を閉める決意をします。
「祖父は高齢で後継ぎもおらず、母から店を閉めると聞かされて、店で片づけを手伝っていたとき、『ここを無くしたくない』と強く思ったんです。『続けないのか?』と母に聞いたら、『あんたがやってみたら?』と言われて、ハッとしました」
会社に就職して定年まで働く。そんな固定観念が崩れた瞬間でした。
「自分がやればいいのか!」
加藤さんは翌日には会社に退職の意思を伝え、ほどなくして店に立ちました。「前職に不満はありませんでした。でも祖父が守り継いできたこの味を残したい気持ちが強くて…。辞めることに躊躇はなかったです。今思うと、自営業の大変さを分かっていなかったので飛び込めた部分もあります」
はじめての経験にワクワク
台風時に水につかった道具類は、乾かすことですべて使うことができ、特に設備投資の必要もなく店を再開できました。
しかし、勢いで家業に入ったものの、加藤さんはかたやきの作り方も経営状況も何も分かっていません。最初の数年は祖父にかたやき職人としてのイロハを学び、母にも店の運営面を教えてもらいながら、製造から販売までこなしました。
「うまくできないこと、大変なことしかなかったです。やるまでは誰でも焼けるだろうと簡単に考えていましたが、シンプルなお菓子なのでごまかしが利かず、奥が深くて…。生地の配合や焼き方、あんこの炊き方など、たくさんのことを祖父に教えてもらいました。自分が作ったものを直接お客様に買って頂く。すべてがはじめての経験でワクワクする気持ちが大きく、夢中で頑張れました」
祖父を説得して設けた定休日
一方で経営面については、昔ながらのやり方に疑問を感じることもあったといいます。それは定休日が無いこと、販路は基本的に自店の直売に限られていること、昔から変化のないパッケージや商品構成など多岐にわたりました。
「自宅兼店舗なので家賃はかからず、家族数人でやる分にはそれでもよかったかもしれません。しかし、自分がこれからもこの仕事を続けていくために、変えたいと思ったことは祖父に言うようにしました」
しかし、長年、店を切り盛りしてきた祖父から見れば、加藤さんは孫で自営業の初心者。「自営業に休みはない」、「昔からこうしているから」と最初はまともに取り合ってもらえませんでした。「家族仲はすごくよかったので、余計につらかったです」(加藤さん)
それでも、携帯電話の販売員だった前職で培ったコミュニケーションスキルが役に立ちました。「少しずつ説得する」という方法をとったのです。
例えば、急に毎週休みにするのではなく、月1度の定休日をつくるところからはじめ、それに慣れたら2週間に一度の頻度にするという具合です。「まずは相手の話を聞く。思いを全部はき出してもらったところで、受け入れてもらえそうなレベルでこちらの提案をする」。そうして時間をかけて変えていきました。
「祖父は店を閉めることに罪悪感があるようで、最初は定休日を決めても店を開けてましたね。でも、家族経営だからこそメリハリは大事で、きちんと休む日を設けることで心身ともにリフレッシュでき、仕事の効率もあがると思います」
積極営業で販路を拡大
加藤さんは販路拡大にも着手しました。「昔は店に活気があった記憶がありますが、僕が店に入ったとき、お客様の出入りは少なくなっていました。ここで待っているだけでは売れない。人の目につくところへ、かたやきを持っていく必要性を感じました」
加藤さんは地元スーパー、道の駅、パーキングエリアなどに営業をかけ、取扱店を積極的に増やしていきました。
電話で問い合わせてみると思ったよりも難しくなく、地場産のコーナーやお土産売り場に、すんなり置いてもらえたといいます。初心者だった加藤さんがスキルを上げて生産の効率化に努め、焼き台の前に立つ時間を増やすことで生産量をアップさせました。その甲斐あって、売り上げは右肩あがりになりました。
コロナ禍を切り抜けられたのも、この卸販売が大きかったといいます。「皆さん外に出歩けなくても、スーパーだけは行きます。そのときについでに買ってくださり、実店舗の売り上げ減をカバーしてくれました」
味のバリエーションを増やす
成長する加藤さんを見て、祖父は安心したかのように17年に他界。34歳からは加藤さんと母の2人体制になりました。
「かたやきって地味じゃないですか?」と加藤さんは言います。たしかに、茶色で円形の「せんべえ」に、いわゆる「映え」要素は薄いと言えます。「でも、この『日本一かたいせんべえ』が好きというコアなファンも一定数いてくれる。その層にどうやって届けるかを常に考えています」
一度でも口にすれば、その独特のかたさや素朴な味わいのファンになる人はいるはずーー。そう信じて、まずは手にとってもらえるように知恵をしぼりました。
色々な味を提供したい、円形だけでなく手裏剣型にしたい、パッケージデザインを変えたい…。思いついたことを次々と試し、プレーンのほかピーナツ、きなこ、しょうが、黒豆の5種類の味が楽しめるアソートパックや、手裏剣型のかたやき、新パッケージのアイテムがよく売れました。
「昔ながらのかたやき」を作る店が多い中で、若い造り手が仕掛けた変化に消費者も反応したのです。そんな空気は新たな動きへとつながりました。
市民プロジェクトで生まれた新商品
20年、伊賀市の市民参加型商品開発プロジェクトの企画で、加藤さんのもとに「かたやき」の新商品開発への協力依頼がありました。伊賀市などが募集した有志40人のメンバーで構成された「観光まちづくり企画塾」のなかで、女性が手にとりたくなる新しい伊賀みやげの開発が行われたのです。
「伊賀を盛り上げるプロジェクトに声をかけてもらえてうれしかった」と加藤さんは意欲的に取り組みました。
チームのメンバーから「薄く、小さく、かわいく、いろんな味のするかたやき」をリクエストされたとき、加藤さんは「かたやきはこうじゃなきゃいけない」という固定観念にとらわれていた自分に気づいたといいます。
プロジェクト参加で初心を思い出し、21年2月に発売開始した新商品が「うたかたやき」でした。
うたかたやきは、一枚一枚手焼きする伝統の製法はそのままに、今の時代に合わせて薄く食べやすくしました。「女性が手にとりたくなるお土産」というコンセプトを貫くため、パッケージデザインもプロジェクトチームの女性メンバーが中心となって手がけ、従来のかたやきとは一線を画したものに仕上がりました。味は現在、コーヒー、ココア、ゆず、しょうが、紅茶など7種類あります。
「リクエストに応えられるように頑張りました。自分だけでは絶対つくれなかった商品で、従来のかたやきには無い『映え』の要素もあります。うたかたやきをきっかけに、伝統的なかたやきや、手作りの製法に目を向けるきっかけになればうれしい」
売り上げが伸びて抱えたジレンマ
家業に入って10年。加藤さんは40歳になりました。「自分なりに考えて動いた結果、売り上げは1.5倍くらいに上がりました」と言う一方、ジレンマも抱えています。
「商品開発をしてアイテム数が増えると、商品はよく出るようになりますが、その分、負担が増えて、製造や配達が追い付かなくなります」
焼きの工程は一回はじまると、生地を伸ばして焼いて、裏返して焼いての繰り返し。約40分間は鉄板の前から離れられません。一人の手作業で焼ける枚数に限りがあり、これ以上売り上げを伸ばすためには、人を増やすか、まだ手を付けられていないネットの活用、販売方法の変更なども検討する時期にきています。
「まだ答えは出ていませんが、伝統を守るためには変化も必要です。会社員時代とは違った悩みもありますが、その分喜びもあります。一歩踏み出して、家業を継いで良かったです。何事もやってみないと分からないですから」と加藤さんは前を向いています。