「リーダーは強くなければいけない」。そう思い込んでいる後継者は少なくないでしょう。多くの後継者が理想に近づこうと努力しますが、いつまでもそうなれない。そのジレンマで苦しんでいることと思います。
1929年創業の同社は、半導体の製造装置や自動車、医療機器などに用いられるヒーターを作り、熱技術のコンサルティングも手がけています。2022年の年商は23億円、社員数約200人(パート、嘱託を含む)です。
同社は今、見学者が絶えません。2017年に「働きやすく生産性の高い企業・職場表彰 ~魅力ある成長企業賞~」(中小企業部門)で最優秀にあたる厚生労働大臣賞を受賞したからです。
そんな佐久さんも、同社に入った00年からの約10年間は、暗黒時代を経験しました。その原因は「強いリーダー像」に縛られたからです。改革が必要な時、誰にも相談せずに決め、決断に幹部社員が反発する。佐久さんの心身はどんどんすり減りました。
父の持病悪化で自ら家業に
同社は佐久さんの母方の祖父・河合民治さんが創業。民治さんの長女と結婚した佐久勇さんが3代目です。佐久さんは勇さんの息子で「いずれこの会社を継ぐだろう」と漠然と考え、東京理科大学工学部の機械工学科に進みました。
しかし機械のことは「よくわからなかった」と言い、学べば学ぶほど、苦手意識ばかりが強くなりました。
将来継ぐことを想定し、1989年に東京の大手制御機器メーカーに就職。マーケティング担当になりました。
佐久さんが暮らした社員寮では、多くが英字新聞をとっており、隣の部屋から毎日英語を音読する声が聞こえます。佐久さんも同じくらい英語を勉強し、夜はビジネススクールに通いました。
就職して10年。佐久さんは実家に帰ることを決意します。このころ、勇さんは持病が悪化し、入退院を繰り返していました。しかし、勇さんは「帰ってこい」とは言いません。佐久さんは一人の転職希望者として履歴書を書いて勇さんに送り、採用されます。2000年、35歳の時でした。
「あかんでしょう」と指摘したが…
入社後すぐに工場の副工場長に就任。勇さんが用意したポジションでしたが、佐久さんは焦りました。
社長の息子で後継者。周囲から「この人は大丈夫か?」という目で見られます。「リーダーにふさわしい人だ」と思われないといけない。そう考えた佐久さんは社員に「僕、できるでしょう」とアピールする振る舞いをしました。
例えば、工場を回ってできていない仕事があると、パート従業員に直接「ちゃんとしてください」と指摘しました。副工場長から直接ダメ出しをされたパート従業員はみんな驚き、悲しい目をしました。
また、当時流行していたコンピテンシー(高成果者の行動特性)を元にした人事制度を導入。「制度を変えれば、社員はやる気になる」と考えましたが、失敗に終わりました。社員一人ひとりがチャレンジ目標を設定し、その達成率で個人の評価が決まる仕組みが裏目に出たのです。みんなが無難な目標ばかりを設定。達成率を上げるには、挑戦しない方が良かったからです。
未達成に終わったある社員は、評価シートにひと言「やりませんでした」と書いただけ。そこには実行を振り返り、反省し、次にどうするかという気づきは一切ありません。そういう社員に、佐久さんは「これ、あかんでしょう」と指摘しました。
今思えば、社員はみんな、目標の立て方、計画の組み立て方、振り返り方を知らなかったのです。書けなかったのは、そのような教育もせずに制度を導入した経営側の責任だったにもかかわらず社員を責めてしまったのです。
このころの佐久さんは、社員を見下す感覚がありました。前職で猛勉強した自負から、勉強しようとしない社員を「おかしい」と決め付けました。
相手の立場を全く想像できず、「一緒に考え、力を合わせて問題を解決する」という意識も持てませんでした。
家電依存のモデルを変革
会社のビジネスモデルも、おかしいと思うことが多数ありました。そのころの主力商品は、家電メーカー向けに製造するシーズヒーターで、全売り上げの8割を占めていました。
ところが、価格が3分の1の中国製品が日本に入り、もうからなくなってきました。ある日、大型スーパーでコーヒーメーカーが950円で売られていたのを見て、佐久さんは、コーヒーメーカーなどに組みこまれるシーズヒーターの部品の原価を考えました。せいぜい20~30円程度で、これではとても付加価値が得られません。
当時の取引先からは値引きを強く求められたといいます。しかし、これに応じないと次の仕事はありません。今でこそ、下請けへの不当な値引き要求は是正傾向にありますが、当時はそうではありませんでした。
佐久さんは05年、病気がちの勇さんから「任せる」と言われて常務に昇進すると、家電メーカーとの付き合いをやめました。二つあったシーズヒーターの工場を一つに集約し、成型機や医療用の機器などに用いられるカートリッジヒーターや面状のヒーターを生産する戦略に転換したのです。
量産品のシーズヒーターに対し、カートリッジヒーターは手作業で組み立てる多品種少量生産品です。一つひとつを顧客ごとにカスタマイズできるため、利益率を高く設定できました。
同時に、1社の取引金額を売り上げ全体の5%以内に抑えるルールも作りました。
付加価値を高めようと短納期化を進め、一時的に売り上げを下げたものの利益率が高くなり、家電依存のビジネスモデルから脱却できました。
幹部社員との溝が深まる
しかし、こうした戦略転換は長年働いてきた幹部社員の反発を招きます。例えば、生産ラインを機械量産から手作業に変えるため、佐久さんの一存で工場から自動生産ロボットを撤去すると、「技術が何十年前に戻った」、「そんな選択はあり得ない」と抵抗されました。
こうした対立は、社長と幹部との意思のズレを招きます。社長が社員に指示したことも、幹部社員が「社長の言うようにやらなくてもいい」と覆すことがありました。小さなことで、佐久さんと幹部社員が張り合う状態が続き、社内の雰囲気はどんどん悪くなります。
「今なら事業転換の必要性と実効策を、もっとうまく伝えられた」と佐久さん。しかし、当時は後継者として実績を作りたい思いで一杯でした。自分の手柄にするために、幹部に相談しなかった結果、戦略転換は進んだものの、幹部間の溝は深まる一方でした。
救いとなった新卒社員
佐久さんは07年、社長に就任し、その3カ月後、先代の父・勇さんが他界します。役員は佐久さんとほか5人の取締役となりましたが、製品のことは5人の方が圧倒的に詳しく、佐久さんは製造系のプロジェクト会議に参加できずにいました。方針を話し合う合宿も行いますが、互いの思いを理解しあえないままでした。
救いとなったのは、05年から採用した新卒社員たちです。同社は戦略転換後、毎年4~5人の新卒を採用。佐久さん自身が全国で説明会を開き、面談して集めた人材です。
佐久さんはたとえ有能でも自分本位な若者ではなく、「他の人のことを助けることができる人」を採用しました。採用目標も決めず、該当者がいなければ、採用ゼロでもいいと思っていました。
採用された人材がリーダーになり、プロジェクトを担当するようになりました。古い固定観念に縛られず、佐久さんの思いに共感し、進んで課題を見つけ、仲間と力を合わせて解決に動いてくれました。佐久さんは「やっと自分と同じ想いで動いてくれる人が出てきてくれた」と、安心しました。
若手との距離を縮めるイベント
佐久さんは特に、新卒社員との距離感を近づけることを意識しました。「重役、社長の肩書がつくだけで、若手からは雲の上の人みたいなイメージがあり話しづらいと思ったからです」
社外との勉強会、キャンプにゴルフ、卓球にカラオケなど、一緒に過ごす時間を多数作りました。業務と全く関係ないことを話す1泊2日の合宿を年6回行ったこともあります。
社内読書会も、各グループ20人強になるように4分割して月1回のペースで実施。最初は四書五経の一つの「大学」を3年かけて読み込み、今は別の本を選択しています。
「本を読んで感じたことを発言する場ですが、どのように感じても正解はなく、自分自身のプライベート上の悩みなどもみんなが話すようになり、なにを発言してもよい環境を作ってきました。今で言う心理的安全性です」
「かたりBar」というオフサイトミーティングでは、参加希望者が同じ映画を見て感想を語り合ったり、キャンプ場で火起こし体験したり、一つのテーマについて意見を深めたりしています。
「人を育てる人を多くすることが目標でした。メンターやトレナー制度で先輩がみっちり新入社員をバックアップする仕組みも作り、育てる側も力がつくような工夫をしてきました」
こうした育成の成果、無添加食品を使ったランチを社内提供する「食育プロジェクト」などが、若手主導で生まれたといいます。
病を打ち明けて育った自主性
しかし、佐久さんは11年、病気を発症します。気分がすぐれず、吐きそうになる日もありました。
最初、病気のことは社員に悟られないように振る舞いました。「リーダーは強くあらねばならない」と信じ込んでいたため、恥ずかしく、弱いことと考えたのです。
しかし、病状はなかなか回復せず、業務の遂行に支障をきたすまでに。追い込まれた佐久さんは、ついに一部の社員に病気を打ち明けました。
早川宏美さん(現係長)はその一人です。当時は入社3年目の採用・広報担当として、佐久さんと全国を飛び回る中で「なぜ社長はいつも不機嫌で苦虫をかみつぶしたような顔をしているのか」と思っていました。
しかし、病気を打ち明けられて、佐久さんを見る目が180度変わりました。社長の弱い一面を知った早川さんは「今が自分の力の発揮どころ」と考え、佐久さんに負担をかけないよう、自ら考え行動するようになりました。
早川さんは「当時は社長に頼っていましたが、いつ体調が悪くなるかわからないから、自分がしっかりしなくてはという責任感が強くなったのを覚えています。また、私の周りでも『社長が不機嫌そうだ』と誤解している人もいました。病気の詳細は言えなくても『もしかしたら体調がわるいのかもしれないよ』と伝え、誤解を解こうとしました」と振り返ります。
組織改革で抜擢人事を断行
やがて、佐久さんの病気は全社員が知るところとなり、「社長が苦しんでいるときは自分たちが頑張ろう」という社員が多数出てきます。特に05年以降に入社した社員たちが、現場のリーダーとして引っ張りました。
佐久さんは12年、思い切った組織改革を断行し、5人いた取締役で最も若い濱畑秀造さんを常務に抜擢しました。営業畑の濱畑さんは佐久さんより三つ年上で、気配りができる人でした。
濱畑さんは、佐久さんが管理職やリーダーに出す要求事項を「社長はこういう意味で言っている」などと、自分の言葉に置きかえて伝えました。いわば、濱畑さんが社長の想いを伝える翻訳機になったのです。
その年の年度末、経営方針発表会を初めて開きました。佐久さんが描く会社の将来像や年間の経営方針を伝えたのです。
13年の半ばには、名古屋駅前の会議室で正社員80人が参加する半期レビューを開きました。各部門の半期の活動状況や残り半期の方向性を発表し、シェアする場です。
あるグループが発表すると、他のセクションからどんどん質問が出ます。これまで、例えば営業部と製造部が互い何をやっているのか理解できずにいました。しかし、半期レビューで情報が共有され「力を合わせて頑張ろう」となったのです。
発表を聴きながら、社員の成長を実感した佐久さん。「会の終わりに濱畑さんとがっちり握手したのを鮮明に覚えています」
経営方針発表会と半期レビュー、そして年始に行う目標発表会を加えた三大行事は今も続けています。
成長を支えた三つの要因
佐久さんは製品づくりだけでなく、熱技術のコンサルティングも主力事業に育てました。他社の製品開発の上流から技術相談などでサポートし、必ずしも河合電器製作所の製品購入を前提としないサービスです。
「当時、できあがった製品を比較して、価値を判断するのが当たり前でした。しかし、それを検討するには、どれほどの知恵や経験が含まれているか、提供する側も気づいていませんでした。この部分に焦点をあて、まずはお客さまに理解していただきやすい設計費のご説明から入り、知恵を対価としていただける礎を作ってきました。日本の商習慣として、見えないものにお金をいただくことが非常に難しい。こちら側が堂々と価値を認め、提案できるようになるには何年もかかりました」
同社はその後、売り上げ依存度の「5%ルール」を守りながら堅実に成長し、経常利益率10%前後の優良企業になりました。働き方改革にも積極的で、17年3月、前述した「働きやすく生産性の高い企業・職場表彰」の中小企業部門で最優秀となりました。
家電業界の下請け企業から飛躍的な成長を遂げた要因として、佐久さんは三つを挙げます。
一つ目は05年から採用した新卒が育ったことです。現在は佐久さんが新卒採用した人材が全体の半数以上を占めます。
二つ目は社長の想いを理解し、社員に伝え、巻き込む力のある濱畑さんを右腕にしたことで、「会社は変わっていくのでは…」という空気が生まれました。
三つ目は、経営層や従業員同士が立場関係なく交流できる場を多数つくったことです。
経営に関係ないことを一緒に楽しむ催しを開くことで、互いの意外な面を理解でき、親近感も高まります。そうしたベースが、経営方針発表会や半期レビューの活気につながっています。
リーダーシップを伝えるコンサルも
現在、佐久さんの元には多くの後継者から「どうしたら、社員がイキイキとした会社にできるのか」という質問が寄せられています。佐久さんは組織開発のノウハウをメソッド化し、社内にコンサルティング部門を立ち上げ、リーダーのあり方を他社に伝えることを考えています。
佐久さん自身がそうだったように、後継者たちは「リーダーは強くなければならない」という固定観念に縛られています。佐久さんは「リーダーシップのスタイルにも多様性がある。もっと自由に、合ったスタイルを選べばいい」と伝えたいのです。
現場の社員やリーダーが積極的に経営に関わるボトムアップで会社を変えられることも伝えたいといいます。
佐久さんは元々は学校の先生になりたかったといいます。「自分の一番の弱点は機械が分からないこと、一番の強みは人の成長を楽しめること」と言います。
その強みを、悩み苦しむ経営者のために発揮する日は、そう遠くないでしょう。そこからどんな後継者が育つか楽しみです。