目次

  1. 24歳で急きょ社長に
  2. リーマン・ショックで契約打ち切り
  3. 「なんでも削る」に込めた決意
  4. 失敗に終わったワイングラス
  5. アンケートから着想した印鑑
  6. 自社ブランドが部品発注にも
  7. 伝統工芸と削りの技を無水鍋に
  8. 社員のストライキで高めた透明性
  9. 「開かれた町工場」を目指して
  10. 米映画グッズも製作、続く挑戦

 中村製作所は山添さんの祖父・中村勇夫氏が1969年、プラント部品の製造工場として創業。70年代からは工作機械メーカーの下請けとして部品加工の腕を磨きました。

 2001年、2代目の父にがんが見つかります。山添さんは大学卒業後に取引先に就職して3年でしたが、「自分や先代が生きてきた証を残してほしい」という父の言葉に押され、24歳で継ごうと決めました。

 「子どものころから、祖父と父が懸命に働く姿を見てきました。取引先から言われれば、どんなことでも応えなければいけない。継いでからはしばらく、ひたすら注文をこなすことに専念しました」

 一方で「このままでは誰も幸せになれないのでは…」という不安が、頭から離れなかったといいます。

中村製作所が製造する工作機械のモーター冷却用ケース

 その不安は08年、リーマン・ショックという形で的中します。当時は注文をこなすのに精いっぱいで取引先は1社だけ。しかも、先方の求めで2億円もの設備投資をしたところでした。

 しかし、取引先から「100年に1度の危機だから」と契約を打ち切られたといいます。

(続きは会員登録で読めます)

ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。