家業の日米クリーニングは1968年、浅川さんの祖父が設立しました。映画関係の仕事をしていた曽祖父が米国でクリーニング業に目を付け、祖父にすすめたのが始まりです。店名は曽祖父の映画会社「日米映画」から取りました。
当時、集配ルートは曜日ごとに決まっていましたが「電話をもらったら『いつでも行きます』という集配を目指しました」。ヒントはピザ店のデリバリー。顧客が出したい衣類があるときは、すぐに対応できる集配スタイルに変えました。
「気づいたことにすぐアイデアを出した」と浅川さん。「父のことは技術者として尊敬していましたが、もっと顧客のニーズに寄り添うべきではないかと意見が食いちがうこともありました」
当時、羽田空港の店舗にいた祖父は、浅川さんが集配で寄るたび、惜しみなくサポートしてくれました。ハッシュの土台となったシミ抜きの技術も、祖父がいたからこそ生まれました。
シミ抜きの研究を始めたきっかけは、家業に入ったころの大失敗でした。ある日、「このシミを落としてください」と言われて顧客の服を預かりましたが、当時の店のやり方ではシミを落とせず、シミが残ったままで返すことになったのです。顧客からは「シミが落ちなかったら出さなかったのに」と言われました。
当時、熟練の技が必要だったシミ抜きができたのは父だけ。しかし、シミ抜きはクレームにつながるリスクがあります。父は難易度の高いシミ抜きはやらない方針だったといい、浅川さんがどんなにかけ合ってもだめでした。
そこで浅川さんは、こっそり自分でシミ抜きを行いますが、服の一部を脱色させてしまいました。状態がさらに悪くなった服を持って再び顧客の元を訪れると、さらなるクレームとなり、父からひどく怒られました。
祖父に教わりシミ抜きを研究
しかし、浅川さんはめげません。集配を担当し、顧客の生の声を一番聞いているのは自分という思いがあったからです。シミ抜きができていない服を戻すのは悔しくてたまらず、シミ抜きの研究に一層精を出します。
「技術を学びたい」と父に相談するも、自らの失敗の一件もあり、浅川さんがシミ抜きすることは禁じられ、外に学びに行くこともできませんでした。そこで頼りにしたのが祖父でした。
羽田空港の店に集配に行くたび、祖父に教わりながら、毎日1~2時間近くシミ抜きの研究に費やしました。顧客から預かった大事な洋服で失敗は許されません。少しずつ慎重に、薬品の調合の改良を重ねました。
浅川さんは国家資格のクリーニング師免許を取得し、薬品についてある程度は勉強していましたが、特別に化学の知識があったわけではありません。実務での気づきをひたすら研究に取り入れました。
高度なシミ抜きでは本来、生地の色を一度落としてからシミを抜きます。しかし、それには強い薬品が必要なのと、自身の失敗経験もあり、色を落とすことはできませんでした。
7年かけてシミ抜き技術を確立
ブレークスルーとなったのは、ある日、リンゴを食べていた時のことです。頭に浮かんだのが胃液でした。胃液は食べたものを消化するのに骨までは溶かしません。「胃液って不思議だなというところから、消化酵素の存在にたどり着きました」
そこから酵素の力に着目し、色々な液を混ぜながら、シミが落ちるベストバランスを探りました。業務の合間に研究を重ね、約7年かけてシミ抜きの技術を確立します。シミへの浸透力と分解力、酵素の配合量と洗剤の粒子の細かさがポイントで、その洗濯技術で後に特許も取得しました。
父に隠れてシミ抜きをしていたものの、しばらくすると「あの店はシミ抜きがうまい」と評判になり、遠方からも依頼されるようになります。
シミ抜きは通常のクリーニングより単価が高く、1日30点くらい依頼がくるようになり、店の売り上げは上がりました。はじめはシミ抜きに反対していた父も実績を見て、浅川さんの頑張りを認めてくれました。
浅川さんは、オリジナルのシミ抜き洗剤の一般販売にも乗り出します。顧客から「おたくは本当にシミがよく落ちるけど、どうやっているの?」と聞かれ、ニーズに気づきました。
シミ抜きの洗剤は完成しており、あとは液体を入れる容器を探し、説明文を付けて販売するだけ。ブランド名は「スポッとる」としました。
ECや実演販売で広げた販路
「スポッとる」の開発を機に、浅川さんは08年、家業に関わりながらハッシュを起業しました。
一番の障壁は販売方法でした。流通は全くの素人でしたが、浅川さんは当時盛り上がってきたネット販売に目を付けます。自らECサイトを作り、「スポッとる」の販売を開始。商品のチラシも自分で作って配りました。
最初は全く売れませんでしたが、1カ月ほど経つと2個売れました。浅川さんは「今思うと、あんなめちゃくちゃなページでよく売れたなと思います」と笑いますが、つたなくてもアイデアを形にしたことで、好循環が生まれました。
やがて週1個のペースで売れ、10年にはヤフーショッピングに出店。すると、大手雑貨販売店の担当者から店頭での実演販売を打診されました。最初に売れたのは1日1個のみ。それでも担当者は励ましてくれ、その後も2~3カ月に1度のペースで実演販売しました。
他の出展者から「ビフォーアフターのサンプルを用意するといい」などとアドバイスをもらい、2年後には1日200個を売り上げるまでになりました。
少しずつ売れる自信がつき、12年に楽天市場に出店。楽天の広告担当者から「メールマガジンを出しませんか」と連絡がきました。予算的に無理と断り続けるも「絶対に売れます」と言われてトライすると、70万円を売り上げたのです。
「スポッとる」はメール便で送れる大きさであること、20ミリリットルで1600円(税抜き)という手ごろな価格が、ネットショッピングにはまったといいます。
液漏れ発覚で全品回収
13年秋には忘れられない出来事が起こりました。バナー広告を出すタイミングがプロ野球・楽天の優勝記念セールと重なり、30分で3千個が売れたのです。
浅川さんが喜んだのもつかの間、容器が不良品だったことによる液漏れが発覚し、全品回収の事態になりました。容器メーカーの担当者が謝罪に飛んできましたが、後の祭り。しばらくクレームの電話が鳴り続けました。
これ以降、浅川さんは容器の自社検品を徹底。洗剤を入れた状態で1日以上置き、液漏れがないかを確認したうえで発送しています。
BtoBの開拓も進める
販売チャネルの拡大とともに、「スポッとる」のサイズも持ち運びに便利な10ミリリットル(900円)からたっぷり使える150ミリリットル(9千円)まで、15SKU(在庫最小管理単位)をそろえ、ニーズに応えてきました。
取引先から「もっと素早く汚れが落ちる洗剤を」と言われたこともありましたが、即効性を求めるとより強い薬品が必要で、生地を傷めるリスクもあります。クリーニング屋として、生地を傷めずに汚れを落とすことは譲れませんでした。
23年末現在、「スポッとる」の累計販売数は70万個を超えました。ECのほかドラッグストアでも販売。ホテルの客室清掃で使ってもらうなどBtoBの開拓も進めています。他のクリーニング店が購入することもあるそうです。
コロナ禍で思いついた旅行用洗剤
23年8月には、15年ぶりの新商品「ルーシーミスト」を発売しました。携帯に便利な旅行用洗剤で、洗濯機も手洗いもいらず、衣類にスプレーしてシャワーを流すだけで洗えます。
開発のきっかけは、クリーニング店にバレエの衣装が持ち込まれたことでした。デリケートな素材で、洗濯機を使うと傷める危険があるため、洗剤をスプレーして洗い流すことに。そこから、スプレータイプの洗剤を思いついたのです。
ニーズを探ると、コロナ禍でのオンライン会議の画面がヒントとなりました。滞在先のホテルから参加した人の背景に、干した洗濯物があったのを、浅川さんは見逃しませんでした。出張中の洗濯が大変という課題から、手軽な旅行用洗剤というコンセプトが浮かび、試作品を作ります。
室内干しを想定し、生乾きの臭いを防ぐ天然精油をブレンド。「パッケージは薄い方がいい」、「折り畳みハンガーがあったらうれしい」といった女性スタッフの意見を取り入れ、薄型で持ち運びしやすいコンパクトなハンガーを付けました。
構想から完成まで約2年半をかけて販売をスタート。夏の旅行シーズンの便利なアイテムとしてメディアで取り上げられたこともあり、販売開始5分で用意していた100個が売れ、23年9月末までで販売数は5千個を超えました。
ECやドラッグストアなどを中心に、50代の女性が夫の出張用に購入するケースが目立つといいます。
他にも取引先などからの要望で、試作した洗剤はいくつかありました。しかし、大手と同じような洗剤を作っても意味がありません。クリーニング屋ならではの視点で「洗濯の新しいライフスタイルを提案できる商品」を吟味し、たどり着いたのがルーシーミストでした。
家業を守りながら新ビジネスを
浅川さんの頭の中に商品アイデアはいくつもあります。今、力を入れているのは、海外でソープナッツと呼ばれる無患子(ムクロジ)の木を原料とする洗剤の開発です。
ドライクリーニングは石油系の溶剤を使って汚れを落としますが、環境負荷の低い天然素材の開発に乗り出しました。千葉県富津市に約1300平方メートルの畑を作り、木から育て始めたところです。
家業の日米クリーニングは現在、母を中心に運営しています。家庭で洗える衣類が増えてクリーニング店の利用客は減少傾向となり、コロナ禍や原料高も追い打ちをかけました。同店も今は1店舗のみの家族経営です。
ハッシュは今、社員8人、売り上げは5千万円規模の会社になりました。浅川さんはハッシュの経営を担いつつ、家業のクリーニング事業にも関わっています。「店はお客様と直接話すことでニーズをもらえる場所です。小さいながらも守っていきたい」と話しています。