目次

  1. レジュメ向けに始めた少部数出版
  2. 人を驚かす楽しさに気づいた少年時代
  3. 紙の本の危機感から「広告絵本」が誕生
  4. 目的に合わせて送付先を設定
  5. 社員のポテンシャルを大切にアイデアを募集
  6. 展示会で好評を得た新サービス
  7. カバーしあうことで売上を維持
  8. 絵本の学校をスタート
  9. 地元からベストセラー作家を

 三恵社は、1963年にマッチの広告印刷からスタートしました。のちに飲食店のメニューブックなどのセールツール印刷に移行。少量多種印刷と独自性のあるデザインのメニューブックで支持を集めました。創業者の木全孝清(たかきよ)さんは当時、他社がやりたがらない分野にあえて進出し、順調に売上を伸ばしていったといいます。

展示会で飲食店のメニューブックなどを並べている様子(三恵社提供)

 しかしパソコンが家庭に普及し始めた1990年代後半になると、飲食店でもある程度のメニューブック作りができるようになり、事業の雲行きが怪しくなっていきました

 そこで、2代目の哲也さんが2000年頃に始めたのが出版事業でした。きっかけは、大学教授からレジェメを少部数の冊子にして、書店で販売したいと相談されたことでした。

 三恵社は、大部数の雑誌印刷などに使われるオフセット印刷ではなく、少部数の印刷でコストを抑えられる、オンデマンド印刷を活用。著者側で原稿の完成データを用意できれば、数十冊からからでも出版ができるようにし、初期の費用負担も抑えられる仕組みを構築していきました。

 「弊社は、ISBNコード(書店販売に必要な書籍の識別コード)を発行して流通に乗せることができるため、少部数でも商業出版としての実績になります。研究書や論文は通常、出版のハードルが高いので、まずはそのハードルを下げたいと考えました」と、木全さんは説明します。こうして三恵社の出版事業は、教材など少部数出版への対応を強みに成長していきました。

 木全さんは小中高大と野球少年でした。幼稚園児のころから、大人に混じってソフトボール大会にも出場していたといいます。セーフティバントなど大人顔負けのプレイで、周りを驚かせました。このとき、「工夫をしてトリッキーな仕掛けをして成功することの気持ちよさ」を知ったといいます。「今も、仕事の中で相手があっと驚くことをしたいし、人を驚かすのが好きです。その原体験があの日の試合でした」

(続きは会員登録で読めます)

ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。