目次

  1. 港の流通を「箱」で支える
  2. 震災で先が見えない状態に
  3. 年功序列の評価を見直し
  4. パパ友との会話から生まれた「段ブロック」構想
  5. 祖業をいかした設備投資なしの新事業
  6. 宣伝ツールとしても引き合いが
  7. 「お城制作プロジェクト」で広げる裾野
  8. 人と人をつなぐ「箱づくり」を続けたい

 古くから港町として栄えてきた塩釜に、なくてはならない存在だったのが魚や水産加工品を運ぶ手段です。1950年に佐藤さんの祖父・佐藤實(みのる)さんが創業した佐貞商店は、魚や水産加工品を入れる木箱の生産販売をおこない、塩釜の流通を担ってきました。

佐貞商店の昔の社屋(佐貞商店提供)

 その後、時代の変化とともに梱包資材は重たい木箱から軽くて扱いやすい段ボールケースへと移り変わります。同社もまた、1955年頃から段ボールケースの販売を開始し、のちにお土産用の化粧箱などさまざまな包装資材を取り扱うようになりました。現在は従業員12人の会社となっています。

昔の作業風景。段ボールケースの生産はすべて手作業だった(佐貞商店提供)

 子どもの頃から、いずれは後を継ぐものとして育てられたという佐藤さん。あいさつや目上の人との話し方など、立ち居振る舞いについては厳しくしつけられたそうです。大学卒業後は一旦、仙台市に本社を持つ企業へ入社しましたが、2年ほど経った1992年、結婚を機に退職。後継者として、27歳で佐貞商店に入社します。

 順調だった家業に転機が訪れたのは、2003年。市内の主力取引先の蒲鉾製造会社が相次いで倒産し、売上がピーク時の約半分にまで落ち込みました。佐藤さんは、「なんとか仕事を獲得しなければ」という一心で、営業活動に奔走。持ち前のコミュニケーション力でとにかくさまざまな人に会い、販路を開拓していきました。少しずつ売上を回復させ、2007年に3代目社⾧に就任します。ところが、佐藤さんの手腕によって明るい兆しが見え始めた数年後、再び大きな障害が立ちふさがります。2011年3月11日、東日本大震災が起こったのです。

 震災当時、佐貞商店は市内2か所に工場を所有していました。そのうち1か所の工場は津波の難を逃れましたが、本社兼工場の1階部分は津波の被害を受けてしまいます。幸いにも、本社機能は2階に集約されていたため、被害は最小限に抑えることができました。

 しかし、同社の主な取引先となる水産加工会社は軒並み被災。2011年3月の売上が激減し、一時は今後の経営が危ぶまれるほどの状況に陥りました。

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