弘さんは中島飛行機(現SUBARU)出身で、当初は無線や航空機、精密工具、軍事用の部品やねじを製造していました。戦後は家電用ねじの大量生産から転じて、特殊用途のねじの生産に特化するようになりました。
ねじ1本から対応できるのが強みで、真鍮やステンレス、アルミ合金のほか、チタン、タングステン、インコネル、ハステロイ、ニッケルといった市販のねじには使われない特殊金属の加工も可能です。100種類近くの金属の加工実績があり、試行錯誤を重ねながら加工のノウハウを蓄積してきました。これまで宇宙関連、鉄道信号、エネルギープラント、半導体関連、F1マシンなどに使われるねじを作っています。
父で2代目の勲さんからは何も言われませんでしたが、子どものころの田邉さんは小学生まで後を継ぐ意識が強かったといいます。「近所では東武螺子の子や孫と呼ばれていました。卒業文集に将来の夢は『ねじ屋の社長』と書いていたほどです」
それでも中学生以降は家業のことを自然と意識しなくなり、大学では化学を専攻。大学卒業後2年ぐらいは海外で働き、それから日本の家電メーカーで製品開発に携わりたいと思っていました。
渡航資金を稼ぐため、アルバイトで家業を手伝うことにしたのは大学4年の時です。いざ働いてみると驚きました。「職人の高齢化が進み、自分が小さかったころは若かった人が全員、定年の60歳間際でした」
不定期で採用していたものの人材育成の仕組みがなく、職人もうまく教えることができずに、若手が定着しなかったのです。このままだと廃業も危ぶまれる状態に、田邉さんは家業を継ぐことにしました。
「それまではもしかしたら40~50代で継ぐかもと思う程度でした。しかし、すぐ関わらなければ家業がなくなってしまうと思い、海外行きをやめて家業を継ぐことにしたのです」
計算式で暗黙知を形式知に
田邉さんはねじづくりに使うNC(数値制御)旋盤を少し触った経験しかなく、まずは98年、工作機械メーカーのシチズン精機(現シチズンマシナリー)に就職します。主に工作機械づくりの経験を積み、00年にキットセイコーに入りました。
入社当時にいた正社員の職人は9人。定年が63歳まで延長されていましたが、3年後には職人の一部が定年退職する状況だったことから、田邉さんは職人の仕事を早く覚えなければなりませんでした。
マニュアルなどは特に整備されていませんでしたが、職人に分からないことを尋ねると教えてくれました。しかし、その根拠を聞くと言葉で説明できませんでした。
「考え方を教えてくれれば同じことを繰り返し聞かずに済みます。しかし、説明ができないため、別のねじをつくるときや材質が変わる時、同じ内容を聞くことになります」
田邉さんは技術を習得しながら、若手を採用して教える役割もほぼ同時並行で担い、焦りを深めます。職人全員から教えてもらったことの根拠を自ら解明して、ねじ加工の基準寸法を算出する計算式をつくり、根拠と計算式が合っているかを職人に確認。暗黙知を形式知に変えて、若手に教えることにしたのです。
再雇用のマイスターが若手育成
若手を増やしつつあった05年ごろに導入したのが、マイスター制度です。若手に作業のコツなどを伝えることを目的に、定年退職する職人を「マイスター」として嘱託で再雇用しました。
始めたころのマイスターは4人で、教わる側の若手が5人。双方が常に一緒に仕事をするわけではなく、若手がわからないことがあった時に教えを乞う形にしました。
入社したばかりの若手はすご腕の職人に学んで尊敬の念を抱き、再雇用されたマイスターも孫に教えるかのように丁寧に教える。そんな好循環が生まれました。
現在は、78歳と75歳のマイスター2人が在籍し、本人が希望するまで働き続けられます。若手が頼りすぎないようにするため、毎週木曜日だけマイスターが誰も出社しないようにしています。
無駄な工具を通路に並べた理由
工場の汚さと納期遅延。田邉さんは技能伝承だけでなく、二つの問題解決にも汗をかきました。
家業に戻ったころの工場は機械も床も油でひどく汚れていた、と振り返ります。「(前職の)シチズン精機は、床に油が垂れておらず機械もきれいで、工場は油で汚いところというイメージはありませんでした」
油が床に飛び散ったらすぐ拭くように言ってはいたものの、昔気質のベテラン職人は耳を貸してくれません。「油を使う工場だから油で汚れるのは当たり前といい、拭くという感覚がなかったのです」
田邉さんは終業後、意地になって1人で黙々と工場の拭き掃除をしていたといいます。1年近くたったころから、従業員が徐々に掃除を手伝うようになり、油が床に飛び散ったらすぐ拭くことが徹底されました。
工場内の整理整頓にも取り組みます。ある時、田邊さんが終業後にすべての工具類を工場の通路に並べると、あふれかえって置ききれないほどになりました。どれだけ無駄な工具があったのかを可視化したことで、従業員の意識が変わり、整理整頓が進みました。
個人で使う工具類はすべて台車にそろえて機械のそばに置く、工具類は決まった場所に保管し、使用後は元の場所に戻す。そんなルールを決め、整理整頓された状態を維持できるようにしています。
納期管理や生産計画を若手に任せる
家業に入ったころは、納期も守られないことが常だったといいます。取引先が納期遅延を大目に見ていたこともあり、長年定着してきた意識を変えることは、簡単ではありませんでした。
ベテラン職人に繰り返し、納期順守をお願いしてきました。それでも職人は納期を守ることよりもいいものを作ることへのこだわりが強く、理解は得られませんでした。
そこで田邊さんは05年ごろから、ベテラン職人を若手の指導に特化させ、納期管理や生産計画の立案などは若手に任せました。
「昔気質の職人を巻き込んでルールをつくったり改善したりすることは難しい。若手が仕組みづくりを引き受ける代わりに、職人は技術を教えることに特化してもらったら、納期遅延は改善に向かいました」
働き方改革で労働局から表彰
社内の改善をリードしてきた田邉さんは11年に社長就任。経営トップとして働きやすい会社づくりも加速させます。その大きな成果が残業時間の削減でした。
入社当初は毎日2時間の残業が基本で、深夜までの作業が1カ月続くこともありました。現在は1人平均月2時間程度で、全員合わせても月平均10時間ほどです。
残業時間削減は、生産能力がギリギリになるまで受注を取らないようにしたことと、できるだけ繁忙期をつくらない生産計画を立てることで実現しました。忙しくない時に、後で行う予定だった作業を前倒しするなどして負担を平準化しました。また、毎日の昼礼で作業の進捗を報告し、遅れている場合は午後にすぐ対策を打つようにしました。
年間休日数も、田邉さんの入社時よりも15日多い120日ほどに増やしました。社員が子どもの病気などで急に休むときも「お互い様」の精神でカバーし、有給休暇を取りやすい環境を作っています。子育て中の女性パート従業員も5人働いており、主に事務やねじの検査を担当しています。
「子育て中の20~30代が休んだときは40~50代が、介護のために40~50代が休むことになった時は、20~30代従業員がその穴を埋めます。お互い様でフォローしあうことを、繰り返し話しています」
キットセイコーは働き方改革への姿勢が評価され、20年に埼玉労働局の「ベストプラクティス企業」に認定されました。
不良品を見つけた従業員を表彰
田邊さんは仕事のやりがいを高めるため、4年ほど前からベストストッパー賞という制度も作りました。これは「よくこんなものを見つけた」と言われるほどインパクトのある不良品を発見した人を表彰するものです。ベストストッパーは毎月1人選び、その中から年間MVP1人を選出します。
ベストストッパー賞は不良品を見つけることは良くない、というイメージを変えるために始めました。
「検査員が製品不良を見つけると、作っている従業員は嫌な顔をします。仕事として不良を見つけたのに嫌な顔をされることで、検査員もネガティブな感情を抱きます。しかし、本来は評価されるべきなのにマイナスのイメージを持たれるのはおかしいことです」
職人から継承した高度な技能を駆使ししたねじづくりと、納期順守の意識を高めたことなどで、取引先の信頼が強まりました。「はやぶさ」のねじを手がけたことも広く知られ、F1マシンなど新たな分野のねじも手がけるようになります。
F1マシンのねじは、出展した宇宙関連の展示会会場で、F1マシンのねじが折れることを相談されたのがきっかけでした。試しにねじを作りテスト走行で検証したところ、折れなかったため採用に至っています。
「お互い様」で働きやすさを追求
田邉さんの目標は、ものづくりに喜びを感じてもらうことで、中小企業や工場のステータスを上げることといいます。
「取引先の監査を受けると、会社がうまく回っているとわかるようです。おかげで仕事が高く評価され、注文が増えることもあります」
コミュニケーションを活発にするための社内レクリエーションにも積極的です。会社が費用を持ち終業後にバーベキューを企画することもあります。
コロナ禍では自粛しましたが、その前は年に2、3回実施し、パート従業員の子どもも参加していました。従業員から再開を求める声も多く、24年は久しぶりに実施予定といいます。
田邊さんは言います。「従業員が20人いたら20通りの働きやすさを実現できる会社にしたい。すべてを受け入れるのは大変です。それでも20人くらいの規模なら、『お互い様』の精神があれば夢ではないと思っています」