長谷虎紡績は古くから繊維業が盛んな「尾州地方」にあり、100種類以上もの素材を紡績しています。長年培った技術を生かし、OEM(相手先ブランドによる生産)を中心に、大手ホテルや大型施設などのカーペットや、アパレル製品、電子部品、宇宙産業用の繊維などを製造。本社工場では月間で約35トンの糸を生産しています。従業員数は220人です。
「3代目の祖父に連れられて毎朝お墓と神社参りをしていました。人のために働くことの喜びや『三方良し』の大切さを教えてもらい、『自分もそういう仕事をしたい』と考えました」
別の会社での修業も考えましたが、新卒で長谷虎紡績に入社します。決め手になったのは、入社後に直属の上司となる社歴50年超の常務の一言でした。「4回りも年上の常務が『自分の教わったことをすべて教える。一日も早く入っておいで』と言ってくれました。それなら遠回りせずに学ぼうと入社を決めました」
入社後、常務からは仕事はもちろん、トイレなどの共有部分をきれいにするといった社会人の基本を教わります。仕事を覚える中で見えてきたのは、家業の苦境でした。このころの売り上げはピーク時の半分で、収益は悪化の一途だったのです。
「同世代の社員は、希望が持てないとやめていきました。毎日家に帰ると父に『自分ならもっとこうする』と話していました」
先代の父はただ黙って聞いていたといいます。このような毎日が10~15年ほど続き、「早く社長になって何とかしたい」という思いを強くしました。
2012年には中国の子会社の社長に就任します。中国生産は04年から始まり、当初は好調だったものの、尖閣諸島問題などの社会情勢や、顧客が中国のローカルメーカーから資材を調達するようになったのに影響され、厳しい状況におかれます。
「品質が良く高コストでもないのに必要とされなくなった。これまで通りの『良いもの』を作り続けるだけでは、存在価値がなくなると感じていました」
ベンチャー企業と新素材開発へ
長谷さんが同社取締役の勧めで、山形県鶴岡市のバイオベンチャー・Spiber(スパイバー)代表の関山和秀さんと出会ったのは、14年のことでした。
スパイバーは、化石燃料に頼らない繊維の開発を目指していました。
長谷さんは「話を聞いて衝撃を受けました。自分より年下の関山さんは化石燃料に頼った世界を本気で変えようと起業したのです。自社のビジネスでどうやって売り上げをあげるかで頭がいっぱいだった自分とは、視座が違った。利益面での目算があったというより、スパイバーという会社や関山さんの情熱に感化されました」。
新素材はすぐに商品化はできません。それでも、長谷虎紡績は15年、スパイバーなどとの共同開発を決めます。「長谷虎紡績は時代の節目で新しいことに挑戦したからこそ生き残ってきました。父も悩んだ末に決断してくれました」
植物由来の人工たんぱく質を糸に
長谷虎紡績はスパイバーが開発する環境配慮型の新素材の実用化に向けて2015年から、共同開発を進めました。
スパイバーは「ブリュード・プロテイン」という、植物由来の原料を微生物で発酵させて作られた人工たんぱく質を開発。化石燃料を使わないため、環境負荷が大幅に小さくなるのが特徴です。
長谷虎紡績はその素材を紡績する役割を担いました。これまで培ってきた技術を生かし、素材を「糸」にすることで、生地ができ、アパレル製品としての実用化につながったのです。
ブリュード・プロテインを使った商品は19年に完成して、数量限定で販売。23年、ブリュード・プロテインを使ったアウトドアジャケットを量産販売し、注目を集めました。
「世界のアパレル産業からは年間9千万トンのごみが出ているとされています。アパレルは世界2位の環境負荷産業とも言われ、手を打たなければ、いつか私たちが淘汰される。世の中に必要とされるものを作る必要性を強く感じました」
逆風下で整理整頓と発信強化
ブリュード・プロテインを開発するさなかの19年、長谷さんは中国子会社の撤退を決断しました。「この時に撤退することで、社員への補償もできると思いました」
長谷さんは同年12月、社長に就任します。就任前後から「素材で世界を変える」をコンセプトに掲げ、80%以上の商品を30年までに環境に配慮したものに切り替えることを目標にしました。
しかし、就任直後に新型コロナウイルスが流行。価格高騰も響き、売り上げは就任前より20%もダウンしました。「父にあんなに食らいついていたのに、実際に社長になると、自分の未熟さを思い知りました」
立て直しに向けて、社内の整理整頓を一層徹底しました。「共有部分をきれいにすることは祖父や常務の教えですし、学生時代の寮生活で、手洗いなど共用部分が乱れていると人間関係も乱れると感じていました」
次に強化したのは発信力です。同社はOEMが主流で、先代までは「お客さまに迷惑がかからないよう黒衣に徹する」という方針でした。「しかし、知ってもらわないと埋もれるという強い危機感を抱き、プレスリリースを出したり、取材を積極的に受けたりして、外への発信力を高めました」
素材産業の意義を社外に打ち出し、社内でも事業内容や状況を直接伝えることで、意義ある仕事をしているという意識を高めるようにしました。
ナノファイバー製品もタオルも
長谷さんは就任以降、逆風を受けながらも環境に配慮した新素材の開発を進めています。
2020年には、東京のベンチャー企業のエム・テックスと共同で、スピタージュという会社を立ち上げました。エム・テックスは油を吸い取る「マジック・ファイバー」という商品を送り出しており、スピタージュでは、両社の技術をかけ合わせたナノファイバー製品を開発しています。
21年には京都府のBioworks(バイオワークス)に出資。サトウキビから抽出したポリ乳酸繊維「PlaX」(プラックス)を加工し、土に埋めるとそのまま自然にかえるタオルなどを作っています。
ベンチャーから評価される強み
こうした新素材の開発には、1950年代から使っている機械を活用しています。
長谷虎紡績が様々なベンチャー企業に評価されているのは、これまでにない素材を「糸」にできる技術です。他社では扱いが難しかった素材を、多種多様な機械を使いながら、機械の針の感覚、回すスピード、湿度などを微調整し、様々な条件で試行錯誤して商品開発を進めています。
「私たちが長年蓄積した経験やノウハウと、ベンチャー企業のアイデアをかけ合わせることで、新しい素材の製造ができることに気づきました。素材の開発はできても、糸にならなければ商品化ができません。『どんな素材でも紡績して糸にする』という点が最大の強みなのです」
素材開発の加速や、材料費高騰による価格転嫁で、長谷虎紡績の23年の業績は単体で90億円、グループで110億円と、就任前よりプラスになりました。
家業の根底にチャレンジ精神
ベンチャーへの投資や環境素材の開発を進める長谷虎紡績。そのチャレンジ精神は、今に始まったことではないといいます。
例えば、1970年代には3千度に耐えられる超耐熱素材の繊維の紡績を始め、20年前からH2ロケットに使われるようになりました。「消防服などの繊維で当初は宇宙産業に使われると思っていませんでしたが、H2ロケットに採用されて噴射口の部分に使われています」
また、89年創業のグループ企業ファーベストは、セラミック微粉末を繊維に練り込んだ、冷えと蒸れを同時に抑える「光電子」という素材を展開しています。
「戦後に米国でカーペット文化を見てインテリア事業を始めたという話を、祖父からよく聞きました。世のためになる素材を面白がり、開発し続けてきたからこそ、今があります。環境配慮素材への取り組みもその延長線なのです」
長いスパンで事業に取り組む
国内の繊維業は厳しい状況にあり、長谷さんも社長就任前は「斜陽産業で頑張っています」と自己紹介していました。しかし、ある時、ビジネスセミナーで出会った著名企業の関係者から、こう諭されたといいます。
「いずれリーダーになる君がそう話すなんて、汗水たらして働いている人に失礼だ。やめた方がいい」
長谷さんは「この時、産業の未来を真剣に考えました。受け継がれてきた知識や技術には価値があり、無限の可能性があることに気づきました」。
お風呂以外は常に身につける繊維素材は、人の生活を大きく左右するものに他なりません。
「その産業が価値があるからこそ、生き残っています。時代が変化する中、変えるところと変えないところを見極め、正しい危機感を持つのが経営者の役割です。家業の後継者の強みは、10年単位という長いスパンで事業に取り組めること。これからも先を長く見越して、事業をつないでいきます」
地域から世界を変える挑戦を
長谷虎紡績が目指すのは、あくまで地域に根ざす経営です。新入社員は毎年、地元人材を中心に10人前後を採用しています。スピタージュの本社は岐阜に置き、ナノファイバーを地場産業にしたいと考えています。
社長に就任してから、地元の子どもたちの社会見学を受け入れ始め、社員のアイデアで糸電話作りなどを体験してもらっています。糸の素材によって、声の聞こえ方が変わることを体感してもらい、素材やものづくりの面白さを伝えています。
「世界を変える挑戦をしている会社が、この地方にあることを誇りに思ってもらえるとうれしい。今でこそ、SDGsという言葉が広がっていますが、それは日本人の心の中にずっとあるものだと思います」
長谷さんは社会課題の解決とビジネスの自然な循環を生み出すため、挑み続けます。