目次

  1. 教習所が「遊び場」だった
  2. パソコンも簿記も一から学んだ
  3. 「運転指導には口を出さない」
  4. DeNA初年度で驚いたこと
  5. 「なぜアンケートを見ないのか」

 現役時代は186センチ、80キロ。ユニホームからスーツに戦闘服を変えても、がっしりとした体格は現役時代をほうふつとさせます。林さんは今、東京都内の自宅から2時間かけて、職場に通っています。

 教習所は普通車60台、バイク20台、大型車両3台、中型車両2台、牽引車や送迎バス10台などを保有しています。2校合わせて年間約4500人が卒業し、職員数も約100人にのぼります。林さんは専務として鎌ヶ谷自動車学校の運営を任され、2校分の経理や顧客データの管理、役員会議への出席や会議の資料作成など、業務も多岐にわたります。自宅に戻るのが夜遅くになる日も珍しくありません。

 林さんは市立船橋高校から、2001年のドラフト7巡目で巨人に入団。2年目から中継ぎ投手として頭角を現し、移籍した日本ハム、DeNAでも活躍して、16年のプロ生活で22勝26敗22セーブ99ホールドの成績を残しました。

 父の敬さんは1971年に、船橋中央自動車学校を創立しました。野球に夢中だった林さんが子どものころ、教習所は「遊び場」でした。当時定休日だった水曜日になると、教習所の広い敷地で誰にも邪魔されず、遠投の練習を好きなだけやっていたといいます。

 経営者としての父について、林さんは「徹夜で仕事をしていることもあったし、大変だなという印象が強かったです」。

 社員旅行に一緒に参加することもあり、教習指導員からはかわいがってもらったといいます。「職員の方々はお兄さんやおじさんのような存在。そこで自分が働くというイメージは全くありませんでした」

船橋中央自動車学校の教習コース(同社提供)

 野球でめきめき力をつけ、強豪の市立船橋高校でも活躍。父からは「将来自動車学校を継いでほしい」と言われますが、林さんは「当時は後継ぎになる意味を深く理解していませんでしたし、プロ野球選手の夢も近づいていました。父からの言葉は耳をふさいでいましたね」と振り返ります。

 林さんは2001年に巨人からドラフト指名され、夢をかなえます。「父は20歳代半ばくらいまでは好きな野球をやって、後継者になるのはその後でも遅くないと考えていたようでした」

 2年目から1軍の試合で活躍し、その後結婚。シーズン中はもちろん、オフに入れば自主トレーニングやキャンプもあり、16年間の現役時代はゆっくり実家でくつろぐ時間もありませんでした。

 林さんは巨人、日本ハム、DeNAの3球団を渡り歩き、17年限りで現役を終えます。引退を表明すると、父から「久しぶりに会わないか」と連絡がありました。林さんの感覚では、16年ぶりに父と2人、正面から向き合って話をする機会となりました。

 「子どものころには大きいと思っていた父が、とても小さくなったように感じました。あまり両親の年齢を気にしていなかったのですが、そのときに父が70歳を超えていることも初めて知りました。父が起こした自動車教習所もそのとき、まもなく50周年。父はずいぶん頑張ってきたんだなと」

 妻にも「従業員の皆さんがたくさんいるから、(経営を)やってみたら」と背中を押され、引退直後の18年1月、船橋中央自動車学校に入社します。林さんには営業部長という肩書こそつきましたが、実際には自動車教習所のことも経営のことも分からない新入社員同然でした。

 父からは「経理をちょっと見てくれ」と言われましたが、「(数字が)全く分からず独学ではだめだと思いました」。

 簿記など経理や財務に関する参考書や教本、経営に関する書籍を何冊も買い込んで熟読し、猛勉強を始めます。パソコンもできなかったため、すぐに教室に通うようになりました。

パソコン操作も一から学びました

 自動車学校は、国家資格である指定自動車教習所指導員に支えられています。交通法規を熟知し、学科教習や技能教習で、わかりやすく安全運転に必要な技能と知識を伝える高いコミュニケーション能力が求められる専門職です。

 林さんは「指導員の皆さんは野球で言えば、1軍のトップ選手のような立場ですよね。僕も16年間プロで生きてきて、野球をやったことのない人に批判をされるのが嫌でした。だから、指導員の資格を持っていない僕は、コース内の運転指導に一切口を出さないと決めています」

 入社した当初は周囲から「単なる後継者」、「自動車教習所のことは何も知らない人」と、遠巻きに見られる空気があったと振り返ります。そうした空気に包まれることは、覚悟の上でした。林さんが話しかけられるのは、野球の話題が中心でしたが「コミュニケーションの入り口として、野球は強みになる」ととらえました。

 知らないことは知る努力をする一方で、多くの人との共通点を共有する。そうして、新しい世界に少しずつ溶け込んでいきました。

教習所内では現役時代の林さんや、ロッテなどで活躍した大松尚逸さんのユニホーム(左から二つ目)を展示しています(同社提供)

 林さんは今も家業の傍ら、野球解説を行っています。24年冬もキャンプを取材しました。林さんがグラウンドを訪ねるときは、経営を支える球団フロントからも積極的に情報を吸収しています。

 「僕が現役を過ごしたDeNAをはじめ、野球界はAIも含めたデジタル化が加速しています。今は教習所の原簿も紙からiPadでの管理に変わっており、野球界の最先端を見ることで、経営者としての視野が広がる。教習所にいただけでは見えてこない世界で視野を広げることが、自分の強みだと思っています」

 後継ぎとして土台になっているのは、現役3球団目を過ごしたDeNAでの経験でした。

 移籍した12年は、ちょうど球団オーナーがDeNAに変わった1年目。総入れ替えしたフロントスタッフには、それまでプロ野球の世界とは関わりのなかった人が多数いて、運営もドタバタの連続でした。

 林さんが驚いたのは、春季キャンプ前日のミーティングでした。フロント陣から開口一番、ファン獲得の重要性を説かれ、「キャンプ中も時間があるときだけでなく、できるだけファンサービスに徹してほしい」と言われたといいます。

 「それまで所属した2球団のフロントは『勝つことが大事。キャンプ中に時間があったらサインをしてください』という感じでした。仲間内では『野球に負けてもいいから、ファンサービスをしてね』と言われているように受け取られ、正直、反発もありました。ファンにサインをしようとすると(管理する立場の)球団の人がその場にいなかったという混乱もありました」

 球団は初年度、トライアンドエラーを重ね、例えば「ホーム試合に負ければ全額返金する」という企画などが賛否両論を呼びました。 

 「選手としては、えっと思う部分もありました。でも、それまで球場はガラガラだったので、球団の人もファンをいっぱいにするには、どうしなければいけないのかを考えての行動だったと思うんです。1年目の球団運営を見ることができたのは、今の仕事に大きなプラスでした」

船橋中央自動車学校は住宅地に位置しています

 DeNAは今では、積極的なファンサービスで知られる球団となり、年間入場者数は11年の約110万人から23年は約228万人にまで跳ね上がりました。 

 林さんは今、解説の仕事で横浜スタジアムを訪れると、初年度を知る球団関係者と経営の話をします。

 「あのころの企画は何個も失敗しました。でも、失敗したからこそ次にどうするか学べたのではないでしょうか。僕自身、引退後は野球界から畑違いの自動車学校に入ったので、最初はマイナス思考もありました。でも、球団の方からは『毎日教習所に通っている人には見えなくても、林になら見えて、実現できるアイデアがたくさんあるはず』と言われました」

 林さんが野球界からヒントを得て取り組んでいるのは、教習所の卒業生のアンケートを組織運営に生かすことでした。

船橋中央自動車学校のホームページに掲載されている手書きのアンケート(同校提供)

 船橋中央自動車学校では以前から、アンケートに力を入れていました。ホームページには「指導員の方々が、分かりやすく興味を引くような教習をしてくれた」、「S字(カーブ)のコツを分かりやすく指導してくれた」などとびっしり書かれた手書きの感想文がいくつも公開されています。中には、指導員の実名を上げて感謝を伝えたものもあります。

 林さんがこうした取り組みをDeNA球団関係者に伝えたところ、「球団もアンケートを見て施策を考えている。教習所でそんなに素晴らしい制度があるのなら、何でお前がこのアンケートを全部見ないのか」と言われたそうです。

 プロ野球選手だった自分だからこそできる経営改革をーー。林さんは人事評価や社内コミュニケーションの見直しに乗り出しました。

 ※後編は、林さんが進めた組織改革や、休校を余儀なくされたコロナ禍から学んだこと、自身が描く教習所の未来像などに迫ります。