目次

  1. 黒い色味と特有の艶感
  2. 次世代のスターとして期待され
  3. 「信じられない悲惨な状況」
  4. 震災でも無事だった作品
  5. 全国の焼き物産地から支援
  6. 震災後のフェアで作品が完売
  7. 補助金活用で見えた課題
  8. 珠洲での制作にこだわる

 「僕は珠洲焼をやめません。必ずまた作品を作ります」。24年3月下旬、中島さんは実家のある金沢市で、力強く語りました。

 中島さんを珠洲市に初めて訪ねたのは、23年11月です。ベテラン陶工の窯を引き継ぐことが決まり、その窯を修繕して珠洲焼を全国に広めようと構想を練っている段階でした。

 珠洲焼は他の焼き物にはない黒い色味と、特有の艶感を持ったフォルムが特徴です。1200度以上で焼き締めたのち、窯内を酸欠状態にする「還元炎焼成」という製法で、粘土に含まれる鉄分が黒く発色します。釉薬は使用せず、焼成中に降りかかった灰が溶けて自然釉となり、灰黒色の焼き物が生まれます。珠洲の土にはこの色を生み出す鉄分が多く含まれると言われています。

中島さんの作品。黒い色味が特徴です(23年11月撮影)

 珠洲焼は15世紀後半に一度廃絶しますが、1976年に珠洲市などが復興。79年に本格的な作陶が始まります。いずれも市営の珠洲焼資料館や、作品を販売する珠洲焼館、陶工を育てる陶芸実習センターも立ち上がりました(現在は3施設とも臨時休館)。

 珠洲焼は甕(かめ)、壺(つぼ)、花器、酒器などが中心ですが、日常使いできる皿や椀もあります。 ただ、大量生産は難しく、全国的な流通はまだまだ少ないのが、能登半島地震前の現状でした。

作品が一堂に並ぶ珠洲焼館(23年11月撮影)

 金沢市出身の中島さんは金沢美術工芸大学で油絵を専攻。大学4年生だった2016年、翌秋に珠洲市で初開催される奥能登国際芸術祭で「奥能登曼荼羅」という作品を制作するために珠洲市を訪れ、地域の歴史や資源を調べるうち、珠洲焼と出会います。「黒くシンプルで、土器のような雰囲気にひかれました」

 中島さんはベテラン作家の篠原敬さん(63)の下で作陶を学びました。篠原さんは東京・銀座の百貨店などで個展を開き、珠洲焼振興を担う陶工40人の任意団体「珠洲焼創炎会」の会長を務める第一人者です。

 薪窯と工房の増改築から窯焚きまで、中島さんは2年間、制作の流れを学びました。一度、母校の大学に戻り、現代アートとのコラボ作品などを追求した後、23年4月に珠洲市に移住。芸術家仲間だった妻の陽子さんと結婚して自宅の納屋に工房を構え、陶工としての活動を始めました。

自宅工房で作陶中の中島さん(23年11月撮影)

 1カ月後の5月、珠洲市を襲った震度6強の地震では、多くの窯元が作品や薪窯を失います。それでも中島さんの意欲は衰えず、23年12月には東京で開かれた「スパイラル・クリスマスマーケット2023」に、珠洲焼創炎会の一員として出品。イベントと連携した「美術手帖」のオンラインショップでは、石膏型で制作した水筒が売り上げにつながりました。

 珠洲市によると、23年現在の陶工数は57人で、うち20~40代は10人にも届きません。篠原さんは若手育成に力を入れていました。中島さんには特に期待をかけ、能登半島地震前、「業界にはいつの時代もスター選手が必要。彼には次のスターになってもらいたい」と話していました。

珠洲焼館に置かれていた中島さんの作品(23年11月撮影)

 中島さんはベテラン陶工の能村耕二さんの窯を引き継ぐ形で、自身の窯を構える準備を始めていました。能登半島地震が起きたのはその矢先の24年正月でした。

 地震当日、中島さんは同県内灘町の兄の家に、妻の陽子さんと滞在していました。おいを肩車して散歩中、地面が大きく揺れます。中島さんはおいを抱き、慌てて兄の家に戻りました。家族は全員無事でしたが、内灘町も大きな被害を受け、ほどなく兄の家も断水します。

 「珠洲市はもっと大変なことになっているはず」と心配になりましたが、当初、珠洲市の映像や情報はほとんどなく、現地の友人とも連絡がつきません。いてもたってもいられず、翌日には支援物資を買い込みました。

 1月3日早朝、陽子さんと珠洲へ車を走らせました。能登方面に進むにつれて悪路になり、段差や亀裂を避けようと、ゆっくりでしか進めなくなりました。自宅に向かう道の先は安全が確認できず、緊急車両も立ち往生していました。

 中島さんは道の駅「のと里山空港」(同県輪島市)に引き返しました。そこには、ショベルカーなどの重機を積んだトラックなどが集まっていました。

 珠洲からきた人から「珠洲はひどい。地獄だよ」と聞きます。それでも、ボランティアの人から「翌朝、必ず道を作る」という言葉をもらい、中島さんは車中で一夜を明かしました。

 4日朝、道路は何とか先に進める程度に復旧しました。珠洲が近づくにつれ、倒壊した家屋など、目に見えて被害が増えていきました。途中でタイヤがパンクし、スペアタイヤへの交換を余儀なくなくされます。信号も機能せず、車のすれ違いもアイコンタクトやハンドサインで行いました。「途中で珠洲市中心街を歩きましたが、信じられない悲惨な状況でした」

中島さんの自宅は全壊と判定されました(中島さん提供)

 中島さんはようやく自宅に到着。家や作業場の納屋は傾き、室内も散乱していました。後に全壊判定を受けます。

 ただ、制作中の珠洲焼は一部割れたものの、床に置いていたり、箱に入れていたりした作品は無事でした。作業机にあった地蔵の図柄が入った大きな壺も、落下する際にいすがクッションになったのか、奇跡的に無事でした。

地蔵の絵柄が入った壺は無事でした(23年11月撮影)

 しばらくして、師匠の篠原さんから安否確認の連絡がありました。23年5月の大地震で倒壊しながらも再建した篠原さんの薪窯は、初窯を目前に再び倒壊しました。

 「今は安全な場所で自分の生活をすればいい」。篠原さんからはそう言われますが、中島さんは「僕は絶対、珠洲焼をやめません」と答えました。

 「家もなくなり、戻れるのかも分からない。でも、珠洲焼をやめる気はないということだけはお伝えしました。篠原さんは『若手がみんな辞めずにやる、と言ってくれてうれしい』とおっしゃっていました」

 窯を譲ってもらう能村さんからも「続けるつもりはあるんか」と電話がありました。中島さんが「あります」と返すと、能村さんから「そのつもりで動くわ」とうれしそうに言われました。中島さんが時折、窯の様子を見ると、散らかっていたものが少しずつ片付いています。

中島さんが引き継ぐ予定の窯(中島さん提供、23年6月撮影)

 珠洲焼創炎会には、備前焼(岡山)、常滑焼(愛知)、越前焼(福井)などの産地から、多くの支援が届いています。

 中でも備前焼の陶工とは深い絆で結ばれています。23年5月の地震後も、陶工有志がクラウドファンディングを立ち上げ、珠洲焼創炎会への復興支援を企画しました。寄付の返礼品として破損を免れた珠洲焼を購入してくれるなど、売り上げでも支えになりました。

備前焼の陶工とは技術交流会を開くなど、震災前から深い絆があります(2018年撮影、珠洲市提供)

 能登半島地震後も早い段階で支援の申し出がありました。岡山県備前市から、備前での1年間の賃貸型応急住宅の無償提供や、陶芸センターで工房や窯の提供などを受けられます。実際に珠洲焼の若手作家の一人が現地入りしました。

 中島さんは「今年の陶芸センターの実習生は、最後の窯焼きができませんでした。これからの人材にとって勉強になるし、ありがたい支援です」。

 珠洲焼創炎会も義援金窓口を開設し、多くの支援が届いています。

 中島さんは2月16日~18日、東京国際フォーラムで開かれた「いしかわ伝統工芸フェア2024」に、珠洲焼創炎会の代表として出展しました。出展自体は能登半島地震前に決まっていましたが、震災を受けて開催が危ぶまれました。しかし、輪島塗など他の被災地域からも強い要望があり、予定通り開催することになりました。

「いしかわ伝統工芸フェア2024」は盛況でした(中島さん提供)

 会場には約7万5千人が訪れました。中島さんは新しい器を焼いて持参する予定でしたが震災で難しく、破損を免れた皿、おわんなど100点ほどを並べました。それでも完売したのです。「能登出身者や旅行で能登を訪れたことがある方と一日中話しっぱなしでした。珠洲の地名を知っている方がたくさんいることに驚きました」

 中島さんは5月3日~5日、金沢市のしいのき迎賓館で開かれる「珠洲焼創炎会展」にも出展予定です。

 珠洲市内にある約20軒の窯すべてが被害を受け、陶芸センターの窯も修理が必要な状態になっています。

 3月、被災後初となる珠洲焼創炎会の会合が開かれました。陶芸センターの窯の修復を市に要望したり、全国からの支援情報を共有したりするためです。会の案内はこれまで封書でしたが、震災で届ける家がなくなり、各陶工も散り散りになっているため、中島さんはLINEグループをつくることを提案しました。

 「小さな街なので前はたまたま会って立ち話という程度で済みました。でも、今はそうもいきません。ご年配の仲間も多く難しい面もありますが、情報共有が重要と思い提案しました」

 中島さんは金沢市の実家に身を寄せつつ、週何日かは珠洲に向かい、車中泊で片付けを進めています。作陶に必要な道具や器具は珠洲の友人の車庫に置いていますが「今必要なのは家財道具などを仮置きする場所。いったん出さないと片付けも進みません」。

 珠洲市内の仮設住宅に申し込み、4月に当選しました。5月に引っ越し、市内での生活を再開します。

 ただ、今は販売できる作品がほとんど手元になく、貯金を切り崩して生活しています。これまで作陶の合間に、珠洲市内の小学校で図工の非常勤講師を務めていましたが、仮設住宅当選前の3月いっぱいでいったん退きました。デザイナーとしてテレワークで働いている陽子さんも生活を支えています。

 窯の整備などに活用できる国や県の補助金はあります。ただ、設備や道具を購入しても設置できる場所がないため、実際に活用できる陶工はごくわずかです。「僕は引き継ぐ窯があるので申請できますが、これからの若手は(支援の)網目から落ちてしまいます」

 珠洲焼は伝統技法の薪窯で作りますが、窯の整備にはかなりの時間と費用がかかります。中島さんはまず補助金を活用し、効率的なガス窯の購入も視野に入れています。「もちろん薪窯が理想ですが、制作ができる環境をつくることも大事。僕の窯が整備できれば、若手が共同で使えるようにしたいです」

中島さんは金沢市内で復興への決意を語りました(24年3月撮影)

 24年夏には窯を整備し、冬には窯焼きができるよう道筋を描いています。

 他の土地であっても生産を早期再開できれば、売り上げにはつながります。それでも、中島さんは珠洲での制作にこだわります。

 「地震によって良くも悪くも珠洲市や珠洲焼のことも広まりました。今はもちろんつらいですが、珠洲焼を作る気持ちは変わりません。作品の出来は環境や心境で大きく変わります。薪で火を焚ける自然環境など、おおらかな珠洲の土地と風土が珠洲焼を生むと思っています。来年には新しい作品を販売したいです」

 珠洲焼の火を消すものか。中島さんの笑顔の内にある炎が、未来をつなぎます。