間宮商店は、マグロの水揚げ量と練り物工場の数では全国トップクラスの塩釜市で、60年間干物を作り続けています。塩釜水産物仲卸市場の隣にあり、小売店や飲食店、社員食堂などへの卸売り、食品メーカーへの商品開発の提案、消費者向けのオンラインショップ、直売所、食堂の運営も行っています。従業員数は35人、年商は8億円です。
北海道から長崎県まで出向き、目利き力で仕入れた鮮魚をマイナス38度の冷凍庫で保管して鮮度を維持。職人が目と手で解凍具合を確かめながら半解凍の状態を見極めて塩水に漬け込み、その後に約8時間かけてじっくり熟成させた干物は、ジューシーさが一般的な干物と格段に異なるといいます。魚の質や製法へのこだわりから、間宮商店ならぬ「マニア商店」と呼ばれることもあるそうです。
長男の間宮さんは子どものころから「サンマ愛」あふれる環境で育ちます。食卓には頻繁にサンマが並び、カレーや刺し身などと一緒に食べることも度々ありました。いつか自分が後を継ぐだろうという気持ちが芽生え、「小学校の卒業文集に『サンマ屋の社長になる』と書きました」と振り返ります。
間宮さんが専門学校を卒業すると、進路について家族会議が開かれました。後を継ぐと表明した途端、これまで継ぐことに何も言ってこなかった明夫さんから「それなら一度、外で勉強してこい」と命じられました。
危機感から始めたEC戦略
築地から戻って間宮商店に入ったのは、23歳の時でした。それから5年ほど、工場で魚をさばいたり、切り身を作ったりしました。この間、「良いものを作るために、とにかく黙って技を磨きなさい」と教わりましたが、間宮さんは徐々に卸売り専門という事業形態への危機感を募らせました。
「当時は取引先の数も限られていたうえ、スーパーから何の前触れもなく契約を切られることもありました。そうすると、一気に100万円単位の売り上げがなくなるわけです。それは困るから、どうしても頭を下げてご機嫌取りをするようになりますよね。本来は対等のはずなのに」
近年では若い世代を中心に魚離れが叫ばれ、「干物はいつかなくなるのでは」という不安もあったといいます。そこで間宮さんは、社内で営業を任されたのをきっかけに、2005年、楽天市場内にオンラインショップを立ち上げます。専門業者への卸売りではなく、一般消費者向けの販売を始めたのです。
とはいえ、最初は手探り状態。適正価格がわからなかったり、当時の流行にならってプリンやチーズケーキを売ってみたり、試行錯誤の連続でした。
「私は生まれながらの干物屋なので、干物の価値がわからなかったんです。農家が自宅用にお米を買わないように、私もお金を出して干物を買った経験がなく、値段の付け方も売り方も見当がつきませんでした」
そのような状況では売り上げも思うように伸びず、社長の明夫さんをはじめ、職人気質の社員から冷ややかな視線を浴びせられたことも多々ありました。当時の肩書だった専務とかけて、「何もせんむ」と陰口をたたかれたこともあったそうです。
売り上げ増で見る目が変わった
転機となったのは、お客からのレビューでした。「こんなにおいしい干物なのに、もっとちゃんと売ってほしい」といった激励が多く届いたのです。
それをきっかけに一念発起し、干物を売るため真剣に奔走し始めます。プリンを売るのをやめ、干物の販売に注力することに。そのうえで、まずは「知ってもらうことが大切」とスーパーで試食販売を行ったり、近隣地域にチラシを配ったりして、少しずつ認知拡大を目指してきました。
消費者からの声も商品開発に生かしました。「しょっぱい、かたい、保存食」という干物の印象を払拭するため、前よりもじっくり塩水に漬け込むことで魚の臭みを低減し、ふっくらとした干物に仕上げることに成功。味も薄くしました。
また、楽天市場のECコンサルタントと相談しながら、どれほど干物と真摯に向き合ってきたかや、素材選びにかける情熱といった強みをアピールするページを作ります。試食販売で得た感想なども随時盛り込み、少しずつページを充実させました。
オンラインショップ立ち上げ当初は、間宮さんが一人で担当していましたが、途中からはオンライン販売に前向きな社員と、デザインなどを担当する外部のクリエーターとの専門チームをつくり、より運営を強化します。
すると次第に売り上げがアップし、社員が間宮さんを見る目も変わっていきました。はじめはオンラインショップに懐疑的だった明夫さんも、「うちの魚がこんなにたくさんの人に喜ばれているんだな」と照れ笑いしていたそうです。
10年には、売り上げ全体の25%をオンラインショップが占めるほどになりました。社内は「魚の販売もインターネットの時代」という空気になったといいます。
「うみおむすび」も食堂経営も
ところが翌11年、東日本大震災が起こります。同社は大きな被害を受けませんでしたが、近隣には被災して商品を出荷できなくなった水産会社が多数ありました。他社がストップした分の注文が間宮商店に殺到。卸の方が忙しくなり、オンラインショップにまで手が回らなくなってしまいます。
しばらくはスーパーや鮮魚店への卸を中心に行っていましたが、復興が進むにつれて注文数も落ち着きを取り戻します。間宮さんは一般消費者向けの事業を再開しようと、14年7月、新社屋と直売所を同時に開きました。
15年に2代目社長に就任してから、さらに消費者向けの商品展開を加速させます。
16年に間宮商店こだわりの金華さば、紅鮭、入梅いわし、昆布などがごろっと入った「うみおむすび」、23年には大ぶりのキンメダイや銀鮭などの切り身を使った「うみ茶漬け」といった新商品を続々と発売します。
こうした商品開発の背景には、「魚をもっと身近に感じてもらいたい」という思いがあります。間宮さんは「食べ方がわからない」、「魚を焼くのが手間」、「煙やにおいが気になるので、集合住宅で魚を焼くのははばかられる」といった声を多く聞きました。
そこで生まれたのが「うみおむすび」と「うみ茶漬け」です。地元の素材を中心に使い、ごろっとした大きな身、ご飯と魚を一緒に食べたときに一番おいしく感じられる味や食感のバランスなど、魚に向き合ってきた干物店ならではのこだわりを詰め込みました。
レトルト食品である「うみ茶漬け」の開発には、水産庁の「復興加工EC販路マッチング支援事業」を利用し「小型のレトルト釜」を導入しました。
同年12月には、塩釜水産物仲卸市場に「羽釜ごはんで食べる 間宮商店 食堂部」を出店。金華さば定食などの看板メニューを引っ提げ、定食屋という新業態に挑んでいます。
こうした動きは、客層にも変化をもたらしました。うみおむすび発売前は、比較的年配のお客が多かったそうですが、以後は20~30代の若い世代や家族連れの姿も多く見られるようになりました。
食堂部のオープン当初は1日250食以上もの注文があり、そのほとんどが完食でした。「朝7時から午後1時までひっきりなしにお客様が来店して、おいしいという声をいただいています。最高の商売ですね」
新しい魚の食べ方を提案
もともと卸専門だった同社が、ここまで一般顧客向け事業を幅広く展開する根底には、2代目の成長戦略があります。
間宮さんは、大量生産と大量消費を繰り返すサイクルが今の時代に合っていないことに着目。数十年前と比べて食の選択肢は格段に増え、魚を食べる頻度が、1週間に2~3回から、月に2~3回にまで減っているといいます。
「スーパーで安いものをたくさん売る」という従来型の水産加工会社のビジネスモデルが難しくなってきていると、間宮さんは考えます。
「干物をスーパーで売る場合、普通は100円で仕入れたものを200円で売るしかありません。それにどう付加価値をつけて、500円で売るかを常に考えています。例えばおむすびの場合は、一枚300円の切り身を3分割し、1個300円のおむすびの具とすれば利益が増え、お客さまに新しい魚の食べ方を提供することもできます」
採用強化で取引先を拡大
一般消費者向け事業の拡大で、間宮さんが最も重視したのは営業力の強化でした。「プロダクト(製品)と営業なら、営業が先」という考えから、営業スタッフを増員し、売り上げアップを図ったのです。
間宮さんが取った手段は二つあります。一つ目は、生活スタイルを考慮した勤務体系です。具体的には、育児中で早朝出勤が難しい場合は出勤時間を遅くしたり、子どもが感染症にかかった場合は在宅ワークに切り替えられるようシステムや設備を拡充したりして、働きやすさを追求しました。
もう一つは事務所のレイアウト変更になります。事務所内にデザイン性の高い家具を配置して「オフィス」のイメージに変えたり、他部署の社員とコミュニケーションを取りやすいようデスクなどの配置を変更したりしました。
ホームページ上には部署ごとの一日のスケジュールを公開し、間宮商店に興味を持った人が面接に足を運びやすい工夫をしています。
現在、従業員の平均年齢は44歳で、20代が30%、30代が17%となっています。女性従業員は66%を占めています。直売所出店やSNSの発信強化の結果、間宮商店の商品に興味を持ち「働いてみたい」と面接に訪れる人も少なくないそうです。
干物文化を根づかせる決意で
顧客開拓や経営基盤の強化を進めた結果、売り上げは先代時代の2倍に増え、仙台と東京のみだった取引先も、東日本を中心に関西にまで広がりました。
現在、卸売りと小売りの売り上げ構成比は、8対2で推移しており、一層の事業拡大を目指しています。
間宮さんによると、宮城では新鮮な魚が水揚げされるため、魚を生で食べる文化が根強く、その分干物に対する意識が低いといいます。間宮さんは宮城県に干物文化を根づかせ、「魚の多種多様な食べ方、おいしさを広めていきたい」と意気込みます。